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風立ち時  作者: 秋月孤篁
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  ――私は彼女とあの長い階段を登っていた。いつもの雰囲気からは考えられないほどの賑やかさだった。

 ちらりと横を向くと、彼女の顔は絵に塗りつぶされたかのようだった。しかし、彼女の白いワンピース姿と声だけはわかった。登っている間の、彼女の声や仕草に私はどこからともなく懐かしさが込み上げてきた。

 そうして黙々と登っていると、ふいに秋とは思えない突風が吹いた。葉と葉が擦れ合い、森がざわめいている。まるで私の心を体現しているようだった。私は、あまりの突風にたまらずまぶたを閉じた。


 風がやみ、再び瞼を開けると、そこには殺風景な天井だけが私を見下ろしていた。


 「なんだ、夢か.........」


 私は、まだ温もりの残る布団の中から、重い身体をゆっくりと持ち上げた。


瞼の裏には微かな暗がりが残り、目覚めの気配は遠く、ただ夢の名残だけが、静かな海の底をゆらゆらと漂っていた。


しばらくそのまま座り込んでいると、どこからか、ふと味噌汁のような匂いが風に混じって鼻をくすぐった。

それは私を現実へと引き戻す、淡い糸のようだった。


ゆっくりと意識が浮上しはじめると、不意に、何かを食べたくなった。

そういえば、昨日は何も口にしていなかった気がする。何があったのか、思い出そうとしても、記憶の輪郭は曖昧だった。


今日は、どうか穏やかな一日であってほしい。

そんな願いを胸に、私は身支度を整え、食堂へと向かう。


戸を開けると、案の定、味噌汁の香りが部屋いっぱいに満ちていた。

朝の光の中で湯気が立ちのぼり、それはまるで、誰かの記憶を包む白い手のようだった。


女将さんは私に気づくと、にこりと笑い、「お食べ」と言って、味噌汁と一緒に蕎麦を差し出してくれた。


「こんな朝から蕎麦?」という思いが顔に出てしまったのだろう。女将はそれを見て、すぐに言った。


「これはね、味噌汁に入れて食べるんだよ。私が編み出した自信作だよ。」


私は女将の言葉にうなずきながら、差し出された茶碗の中を覗き込んだ。

まだ湯気を立てる味噌汁は、濃すぎず、かといって淡すぎもしない、優しい色をしていた。


そこに、ほぐされた蕎麦を静かに沈める。

汁を絡ませ、少し揺すってから、麺を味わう。

揺する度に、細く、しなやかな麺が、出汁の中でほぐれ、ふんわりと湯気とともに香りをたてた。


箸をつけると、その味は不思議なほど懐かしかった。

どこかで食べたことがあるような、でも決して「これだ」と言い切れない、記憶の縁に引っかかる味だった。


「美味しいです」

そう言うと、女将は少しだけ目を細めた。


「でしょう?出汁の味だけで食べる蕎麦ってのは、ね、案外いいもんなんだよ」


「お客さん、どこから来なすったんだっけ?」


女将の問いに、私は少し考えてから答えた。

「この集落の少し向こうにある、川沿いの町です。」


「ああ、あのあたり……懐かしいねぇ。昔はこの集落で秋祭りなんかやってて、それを目当てに遊びに来る子が多かったねぇ。ちょうど今くらいだったか。」


女将の言葉に、私はまた、どこか遠い音を聴いた気がした。笛の音、誰かが笑い合う声のような――


「そうなんですね」


そんな他愛のない話をしながら私はもう一口、味噌汁の蕎麦をすすった。




 朝食を済ませた私は部屋へ戻って支度を整え、再び神社へと向かった。昨日と同じように階段を登り、鳥居をくぐると、そこに彼女がいた。


 「やぁ。」


 昨日、突然いなくなった彼女が、何事もなかったように立っている。私はあまりの驚きに声が出なかった。

 無言のまま、ただ視線だけが交錯する。気まずさに耐えきれず、彼女がようやく口を開いた。


 「き、昨日は……ごめんね。あんなこと言っちゃって。」


 「はい?」


 まただ。「はい?」しか言えない。

 そもそも昨日が初対面のはずなのに、なぜか既視感が拭えない。


 「い、いや。気にしてないなら、それでいいよ。それじゃ……行こうか。」


 そう言われ、彼女に誘われるように、私は流れるままについて行った。

 社殿の奥へ進むと、昨日はなかった道が伸びていた。驚いて彼女に尋ねる。


 「昨日、君はここから降りたの?」


 「どうしたの急に。ここから降りなかったら、あなたと出会って気まずくならなかったでしょう?」


 そう言って、彼女は笑った。私は、昨日は見落としていたのかもしれないと思い、それ以上気にしなかった。


 山を下ると、昨日よりも車の数が増えていた。今日は何かあるのだろうか――そんなことを考えていると、彼女がふいに言った。


 「神尾くんって、不思議だよね。私がいるところに急に現れて、私を見つけたのかと思ったら、そっちも驚いてるし。」


 返答に困って会釈だけをすると、彼女はぷくっと頬を膨らませた。


 「もう、何か喋りなよ。やっぱり、まだ怒ってるじゃん。まぁ、家で心を落ち着けなさいな。じゃあ、また明日ね。」


 そう言って、彼女は無数に分かれた畦道のひとつに姿を消した。

 私はその背中を見送りながら、宿へと帰路を辿った。


 町の空気が、朝とどこか違っていた。だが、彼女と再び会えたことの興奮のせいだろうと、自分に言い聞かせた。


 宿にたどり着き、扉を開けると、見知らぬ若い女性が出てきた。


 「随分身軽だけど、お泊まり?ちょうど101号室が空いてるよ、良かったね。」


 「え? 昨日、この宿に泊まったんですけど……。」


 「うるさいねぇ! ごちゃごちゃ言うなら出てってもらうよ!」


 「……すみません。」


 その気迫に圧倒され、私はそれ以上言葉を発することができなかった。


 案内された部屋に入ると、昨日の部屋とはまるで違っていた。

 古びた家具はすべて新調されていて、別の宿のように見えた。しかし、肝心の荷物がない。宿の人が片づけたのだろうかと思ったが、あの若い女性以外の姿は見当たらなかった。


 私は深く息を吐き、布団に身を沈めた。


 薄い天井を見つめていると、耳元にそっと風がささやいた。

 まるで、さっきまで隣にいた彼女の声が、まだ風の中に溶け残っているようだった。


 目を閉じると、あの白いワンピースが、ふわりとまぶたの裏に浮かんだ。


 「また……明日、か。」


 その一言を小さく呟いて、私はまぶたを閉じる。

 夢と現実の境目が再びほどけていく、そのかすかな揺らぎの中で――

 私は、そっと、眠りに落ちていった。

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