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風立ち時  作者: 秋月孤篁
3/4

3

2を少しだけ改編しました。

 ――私は電車とバスを乗り継ぎ、この小さな町を訪れた。季節は夏の終わり、空の色も風の匂いも、ほんの少し秋の気配を含んでいた。

 町へと向かう道すがら、車窓に流れる景色には、夏から秋へと移ろう季節の気配がはっきりと表れていた。

 午後の光をたっぷり吸いこんだ田んぼが、淡い黄緑に揺れ、水を張った畦道の向こうには、小さな家々が肩を寄せ合うように並んでいた。屋根の上では洗濯物が風に泳ぎ、空は明るく、雲は薄かった。稲の穂先に触れた陽射しが、水面にきらきらと跳ね返る。その中で、蝉の声がただ一つ、遠く名残惜しげに響いていた。土の香りと、刈り残しの草の匂いの混じった風が、どこまでもやさしく私の頬を撫でていった。

その穏やかな営みに包まれるうちに、私の心も、少しずつほどけていくのがわかった。知らない土地のはずなのに、なぜだか、この町の景色には、深く息をつける余白があった。



 町から網目状の畦道を歩いていると、神社に辿り着いた。

いざ参道を歩み始めると、景色は次第に深い緑に沈んでいった。

 登るごとに空は葉に覆われ、見えなくなってゆく。石段には苔が厚く息づき、踏むたびにしっとりとした冷気が足元から立ちのぼる。湿った幹の色は重く、枝葉の影が斑に揺れていた。赤や黄の派手な色はどこにもなく、ただそこにあるのは、沈黙と、葉擦れの音と、どこか遠い昔から続いている気配だけだった。


 神社の姿はまだ見えない。それでも、もうこの先には、私には届かないものがあるとわかる。


 やがて、私は鳥居の手前まで来た。

 鳥居の前に立つと、言葉にならない静けさが胸に満ちた。


 初めて来る場所のはずなのに、なぜか情景が自然と頭の中に浮かんでくる。

 このままくぐれば、もう元の世界には戻れないかもしれない――そんな根拠のない感覚さえも、不思議と自然に思えた。だが、怖さはなかった。むしろ、ずっと忘れていた何かに、ようやく触れられるような気がしていた。


 そして、私は朱塗りの鳥居をくぐった。

 くぐったその瞬間、背後から風が吹き抜けた。まるで止まっていた時が、ふいに息を吹き返したかのようだった。ひんやりとした空気が背中を撫で、思わず足を止める。


 「神尾、くん……」


 柔らかな、けれど確かに私の名を呼ぶ声が、風に溶けるようにして聞こえた。

 はっとして振り返る。石段の方を見やると、そこにひとりの女性が立っていた。


 白いワンピースを身にまとい、長い髪を風に遊ばせながら、じっとこちらを見つめている。

 その瞳に、どこか懐かしさのようなものを覚えた。けれど思い出そうとすればするほど、記憶の中に靄がかかっていく。


 次の瞬間、彼女は何も言わず、踵を返した。

 ふわりと身を翻し、音もなく、社殿の奥へと消えていく。まるで風そのものが形をとっていたかのように、現れて、そして去っていった。


 静けさに包まれていた心の水面に、胸の高鳴りが波紋のように広がった。自分でもわかるほど、鼓動が早まっている。

 これは現実なのか。それとも幻なのか。

 それでも確かに、あの声は私の名を呼んだ。――神尾くん、と。


 考えるより先に、思いが口を突いて出た。


 「……待って」


 誰だ。なぜ私を知っている?

 いや、それ以上に――なぜ、あの声にここまでの胸の高鳴りがするのか。


 気付けば、私は駆け出していた。遠ざかる白い背中を追って――。



               *       *       *                           




 私は石段を駆け上がり、社殿の奥へと身を滑り込ませた。けれど、そこにはもう誰の姿もなかった。代わりにあったのは、蝶の髪飾りのみ。あったらまた渡そうと、私はそれを拾い、カバンにしまった。

 風は止み、先ほどまで感じていた気配も、まるで最初から何もなかったかのように、跡形もなく消えていた。


 息を整えながら、私は静かに社殿の前に立ち尽くした。木々がざわめき、どこかで小鳥の鳴く声がかすかに響いている。それ以外は、ただ時間の止まったような、重たく静かな空間だった。


 幻を見たのだろうか。けれど、あの声も、あの視線も、たしかに私を呼んでいた。


 私はもう一度、社殿の奥を見渡したが、やはり誰もいなかった。

 ゆっくりと引き返しながら、鳥居をくぐる。先ほど吹いた風はもうどこかへ行ってしまい、もとの静けさが森を包んでいた。


 そして私は、もと来た道を辿り、ふもとの町へと下りていった。

 陽はもう山の端に傾き、田んぼの水面が夕暮れの光を帯びていた。午後のざわめきは消え、風も少し冷たくなっている。

 通りに出ると、人の声や遠くの笑い声が微かに聞こえてきた。私はその音にほっとしながら、ようやく宿を探すことにした。


 今夜は、どこかでゆっくり休みたい――あの声の余韻を、胸に残したままで。




 ――私は町で泊まる宛もないため、適当に民宿を取ることにした。そこは、「風霖堂」という、川沿いにひっそり佇む古い宿。古びた木の柱や苔むした石畳が印象的で玄関の前に吊るされた風鈴が、静寂の中、独り、音を立てていた。


 引き戸を開けると、夏の終わりを感じさせる涼しげな風が通り抜け、ほのかに線香の香りが漂っていた。


 「おやおや、いらっしゃい。ひとり旅かい?遠くからよう来てくんなしたねぇ。」


 出てきたのは、優しい目をした老婆の女将だった。女将は入ってきた私をじっと見つめ、そして目を細めながら言った。


「……おまんさん、さ、いや、こりゃ、ただ似とるだけか……。むかし、この町におったあの子に。」


「......はい?」


 私は女将の独り言のような言葉を飲み込めず、しどろもどろした。ただ混乱して口からはこの言葉しか出てこなかった。

そんな私を見て、女将はふっと目をそらしてから、柔らかく笑んだ。


 「なんもなんも、こっちの話さね。昔のこと思い出してしもうて……。よく似とるもんだから、つい。」


 その声には、懐かしさと、どこか切なさが滲んでいた。私は思わず女将の顔を見つめ返した。けれど、何かを尋ねるには、場の空気があまりにも静かすぎた。

 

「さ、いまから部屋の支度すっで、ちぃっと待っとってくなんし。」


 女将は、ぱたぱたと草履を鳴らしながら、まるで追いかけてくる言葉から逃れるように、奥の間へと小走りで消えていった。暖簾がゆらりと揺れて、女将の気配だけがそこに残った。


 私はその姿をしばらく目で追ったあと、待受室の椅子のひとつに腰を下ろした。椅子は、まるで古い木の切り株のように、時の重みをじっと抱えている。座面の端には色あせた落書きが残っていて、それはまるで、子どもたちが遊びの途中にそっと置いていった宝物の地図のようだった。


 ふと棚の上を見ると、いくつもの写真立てが並んでいた。その一枚一枚に写っているのは、女将と、季節の風のように通り過ぎていった誰かの姿だった。写真はまるで押し花のように、その瞬間の記憶をやさしく閉じ込めていた。


――私はそれからしばらく、ここを訪れた人々の記憶と触れ合っていた。見ているうちに私は一つの写真に目が止まった。そしてその1枚の写真には、見覚えのある女性があった。

 時の重さに深く沈んでいた記憶であろうものが、少し、ほんの少しだけ、浮かび上がった。彼女と巡ったあの日の祭りの記憶。あのときの深い緑に包まれた静かな神社とは似つかわないあの色とりどりの灯火。手のぬくもり。彼女の奥深い瞳。深くから一つ、また一つとぼんやり浮かび上がる。しかし、思い出そうとすればするほど、記憶はすくおうとした指のあいだからするりと抜け、また沈んでゆく。

 それはまるで私が彼女を見ることをどこかに許されていないようだった。


「支度ができましたよ。部屋は101号室です。」


振り向くと、そこには、先ほど社殿の奥に消えていったはずの女将が、何事もなかったかのように立っていた。


「……はい?」


思わず口をついて出たのは、それだけだった。自分でも、情けないほど同じ反応しかできないことに気づいていた。


女将は肩をすくめ、小さくため息をつく。


「はいって……あんた、“はいはい”しか言えんのかね。部屋の支度ができたから、わざわざ言いに来たんさ。

それに、なんでそんげ真剣な顔して、その写真ばっか見とるだ?」


一瞬、何かを話そうかと思った。だが、結局私は首を横に振った。

理由なんてなかった。ただ、あの写真に映る私を、誰も気づきはしないだろうと、そう判断しただけだった。


「いえ……特に。」


そう答えて私は鍵を受け取り、無言で階段を上がった。


初めて訪れた町での一日。

本当なら、静かな時間が流れるだけのはずだった。けれど、今日だけでいくつもの不可思議なことが重なり、私の心は妙な疲労感で満たされていた。


思考の隙間に、白いワンピースの彼女の姿が、ちらりと揺れる。

だが、すぐにかき消すように、私は頭を振った。


「……今日はもう、休もう。」


そう呟いて布団に身を沈める。

窓の外では、どこからか吹いてくる風が、部屋に吹きつけていた。

その音を聞きながら、私はゆっくりと目を閉じた。






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