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――そして、現実は記憶へと静かに落ちてゆく。
――私は子どもの頃、当時治ることはないとされていた結核を患った。2年ほどの闘病生活で奇跡的に助かったものの、若かったためか後遺症が残り、リハビリが必要とされ、高校入学の時期までになんとか回復するまでに至った。しかし、やっと病院の縛りから解放されたと思っていた私の期待とは裏腹に、世間はそこまで甘くなかった。
高校に無事入学したのは良かったものの、小、中学校ともに行っていない私は、人とどう接していいかわからず、うまく学校に馴染めていなかった。そんな私とは対照的に、他の同級生たちは友達ができ、もう仲良く喋っている。私はこの光景に陰鬱な気持ちになった。
ある日の昼休み、私は教室の片隅でひとり、弁当を広げていた。
窓の外では春風が校庭の砂を巻き上げている。けれど、その風は私には届かなかった。私には、この教室にさえ縛られている、そんな気がした。
そんなとき、背後からひそひそと交わされる声が耳に入った。
「ねえ、あの後ろのやつさ、小中学校行ってなかったんだって」
「え、なんで?」
「結核だったらしいよ。……近づいたらヤバくない?」
その言葉は、まるで刃物のように私の心を裂いた。
私は動けなかった。ただ、固く箸を握りしめたまま、指先がわずかに震えていた。笑い声が、無邪気であるがゆえに、いっそう鋭く胸を刺す。
そうか、私は――“そういう目”で見られていたのか。
普通になろうとどれほど頑張っても、どれだけ努力しても、他人の目には「病の過去を持つ人間」としてしか映らない。その事実が、私の心にあった自身と誇りを打ち砕いた。
私はその日、弁当の味を何ひとつ覚えていなかった。
この日を境に、私の心の芯を燃やしていた小さな灯は、少しの風で消えてしまうほどに冷めていった。
そんな暗い日々を送る私を見かねた母は
「陽稀、あんたあんなに治したいっていって頑張って退院したんだから、息抜きにでもどこか静かなところで過ごしてきなさいよ。」と提案を寄越した。私をつきっきりで介抱していた母の提案を断ることもできず、渋々調べることにした。
母の、なるべく静かで空気のきれいな所が良いという要望で調べていると、ふいにある画像に目が吸い寄せられた。
深い緑に沈み、苔むした石段の奥、朱塗りの鳥居を越えた先にひっそりと神社が建っていた。
「きれいだなぁ」
気づけばそんな言葉が口から漏れていた。
私の冷えきった心に一筋の光が射し込み、心の奥底で眠っていた何かが、そっと目を覚ましたような気がした。
初めて見るはずの場所なのに、どこか懐かしい。
幼い頃に夢の中で訪れたことがあるような。あるいは誰かと一緒に来たような、そんな気持ちに包まれた。
――ここに行こう。なにがあるかわからない。でも、ここには私を変えるなにかがある。
こうして、あの忘れられない夏が始まるのだった。
――風の中で、名もなき声に出会うために。