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あれは、まだ椿の花もほの赤く、寒空の下に咲き残っていた頃であったか。私は或る日、風の便りに誘われるまま、山路を独り歩いていた。折しも春浅き頃、陽の光は未だ寒さを宿し、風は川面を渡って肌を刺すごとくであった。
風が吹いた。名も知らぬ風であった。しかしその風は、確かに何かを語っていた。否、それは誰かの声のようでもあった。私は思わず足を止め、耳を澄ました。すると、そこに在るはずのない名を、風の中に聞いた気がした。
「君の名は……?」
記憶の奥底に沈んだ誰かの面影が、風に撫でられるように浮かび上がる。名前も、姿も、声も定かではない。けれど、ただ一つ、胸の内を淡く染める情だけが、確かにそこにあった。
かの人は、夢であったか、幻であったか。それとも、かつて実在し、今は風とともに過ぎ去った恋であろうか――。
人間の記憶というものは、時にして残酷であり、また優しい。思い出そうとすればするほど、逃げ水のごとく遠ざかり、忘れようとすればするほど、幽けき香を漂わせて心を離れぬ。
私はその風の中に、ひとりの少女の面影を見た。否、少女と呼ぶには、いささか成熟した気配があったかもしれぬ。彼女は笑うとき、目元にわずかなくぼみを作り、それが見る者の胸にやわらかな疼きを残した。その微笑が、風の中で揺れていた。
名を呼びたかった。けれど、その名がわからぬ。
恋とは斯様に、名も形も持たぬものを、心の奥底で育てるものなのであろうか。
私は苔むした小径を、やがて古き神社の前へと歩みを進めた。誰に導かれるともなく、ただこの身が風に揺られ、吸い寄せられるようにして辿り着いた場所である。朱塗りの鳥居は年月に洗われて色褪せ、境内には誰一人として居らなんだ。されど、空気には何かが満ちていた。見えぬ気配とでも申そうか。それは恋の残り香、あるいは過去の幻影。
ふと、拝殿の奥に、一枚の絵馬が吊るされているのが目に留まった。
私は吸い寄せられるように近づき、その表面に刻まれた文字を見つめた。
そこには、確かにこう書かれていたのである。
――「また、風の中で逢いましょう。」
その筆跡は、どこか懐かしく、そして愛おしいものであった。