第3話 『死の縁で、星に出会う』
闇の塊が、迫っている。
月明かりさえない深い森の中を、ロズウェルはひたすら走る。真っすぐに進んでいるのか、同じところをぐるぐると廻っているのか、わからなくなってきた。
「フゴッ、フゴーーーー‼」
背後からは自分の体よりも二回り大きい猪の魔物が、砂埃を巻き上げて迫ってくる。
その獣は黒紫色で、地面をえぐるほどの爪に、指先で少し触れただけで骨まで切り裂いてしまいそうな鋭い牙を持っている。
「はあっ……はあっ!」
激しい呼吸に肺がひりつき、くっついたばかりの手足に違和感を覚える。苦しくて苦しくてたまらないが、それよりもこめかみに浮き出た血管のほうがはちきれそうで痛い。
ロズウェルは紅茶の産地に行くために東の都市ラサエスを目指し、領地を出てすぐに森の中に引かれた街道に入った。
夜になると魔物が活発化し、街道に現れることがあるが、この辺りで何度か野宿したことがあったため、魔物が現れたとしても魔法でどうにかなると思っていた。
「アアアアアッ‼ 最悪だ‼ 茶葉が地面と同化した‼」
夜も更け、一息つくために火を起こして紅茶を入れる準備をしていたところ、猪の魔物と遭遇して茶葉が入っていた缶を吹き飛ばされた。
しかも愛用のポットとカップは無残にも猪の魔物の前足に潰された。
その刹那、血の涙が出てもおかしくないほどの怒りが全身を支配し、ロズウェルが生み出した《氷晶の庭園》という魔法の呪文を唱えたが、発動しなかった。
己の魔力量よりも、消費する魔力量のほうが多ければ発動しない。子どもでも知っている常識だ。
「初歩的ミスで躓くなんて……迷宮探索から一週間でこうも運命が変わるとはな!」
目の前に大きな倒木が迫っている気がする。ロズウェルは機を見計らって跳躍した。
猪の魔物の短い脚では飛び越えられない高さだ。頭を打ち付けてもらって少しの時間を稼ぎたいところだが……
バァキッ‼
猪の魔物は倒木をものともせずに突き破って、ロズウェルに追いつこうとする。
「そうだよなあ! お前、石頭だったよな! あっ」
倒木の破片がロズウェルの背中を打ちつけ、鈍い痛みが全身を駆け巡る。散々走った疲労もあったせいで、地面に転がりながら倒れた。
「……いっ……っ」
痛みに苦しみながらも地面に爪を喰い込ませて、膝をつき、なんとか立ち上がろうとするが。
無情にも猪の魔物の前足が、ロズウェルの背中を地面に押さえつけた。ほどよく筋肉がついた柔肌に、猪の魔物の爪が突き刺さり、重みが加わる。
「――――――――――――――――‼」
言葉にならない叫び声がロズウェルの口から出た。
視界が涙によってにじみ、仕立てのいい上着越しに赤い鮮血が染み出していく。
体が熱くて痛い。それに息苦しくてたまらないのに、空はだんだんと白みはじめ、薄紫のベールが頭上に広がる。
こんなところでは終われない、終わりたくないのに。
このまま地面とひとつになりたいと、つい弱気になってしまって。
十九年間生きてきた、最期がここなのか。
「――だったら道連れにしてやるよ」
絞り出された声と共に、今度は猪の魔物の咆哮が上がる。ロズウェルが猪の魔物の鋭い爪と皮膚のあいだに、護身用のナイフを突き刺したのだ。
背中にのしかかっていた力が緩んだ。上からぼたぼたと猪の魔物の血が落ちてきたが、袖で雑に拭ってから走る。
(冷静になれ、冷静になれ。そのためにいまできることは……)
ロズウェルは血が混じった唾を吐き出してから、道端に生えていた葉っぱをちぎって口に含む。
(このほろ苦い渋みがなかなか癖になる。発酵させて乾燥させたら立派なお茶になっただろうに)
彼にとってお茶は聖水に等しい。思考を鮮明にし、ほっと一息つかせてくれる。
世界中のお茶と出会えずに死ぬのは惜しいが、葉を味わえただけでよしとしよう。
(さて、背後のあいつは斥候だ。仲間が必ず近くにいる)
小さい頃は、この深い森の中で魔法の特訓をしていた。猪の魔物の習性はわかっている。
(あいつらは群れで移動し、穀物を荒らす害獣だ)
闇色の地面が、土色を取り戻していく。夜明けはもう始まっている。
ここでやっと背後から、荒々しい鼻息と足音が近づいてきた。
(よし、あの崖の先に五匹いる!)
ロズウェルは魔力探知を使って敵の数を把握し、犬歯を見せるように笑った。
(穀物を食い荒らしている害獣をここで一掃してやる)
たった一人の命で、生まれ育った故郷の人々を飢えから救うことができるのだ。
《泡沫の祈りを聞き届けよ》
それは、命を代償に発動する呪文だった。
《砂塵の希望がここに潰えようと、我が命をもってして、天上の裁きを汝に与える》
死ぬまで戦うのがアークトゥルス家の信条だ。
ロズウェルは背後から迫りくる猪の魔物をできるだけ引きつけてから、崖から飛び降りた。
なるべく手足をばたつかせず、視界の端から端まで猪の魔物たちを視界に映すように体を傾ける。
ロズウェルの濃紺の瞳の中央にある瞳孔が、山並みの輪郭で光輝く太陽と同調して真っ赤に染まっていく。
最後の一文を唱えれば自爆してすべてが終わる。
思い切り息を吸い込んだとき、なにかが視線を遮った。
(鳥? 違う。これは――外套?)
「はーい、そこまで!」
「⁉」
ロズウェルは目を見開く。いつの間にか、自分よりもあどけない年頃の少女が上空から現れて、ロズウェルの口元に人差し指を置く。
「安心して、もう大丈夫だから!」
「え?」
彼女は工芸茶の一輪華のように微笑んでから、身に付けていた真っ黒な外套でロズウェルを包み込む。
そして治癒魔法と浮遊魔法の呪文を唱えた。するとロズウェルの背中の痛みが和らぎ、体が宙に固定される。
一方で彼女自身は、崖から飛び降りた猪の魔物の背中に乗って、重力に身をゆだねるように地面に落ちていく。
「救助隊オルヌス現着。これより救助を開始する! うりゃっ」
そういって、彼女は腰元に携えていた剣を引き抜き、地上の猪の魔物を目掛けて突っ込んだ。
◇◆◇
少女は、踵の高いブーツで地面を蹴って、宙を舞う。
指先から足先までの動作は繊細なのに、細腕からは想像できないほどの重い一撃で、次々と猪の魔物の弱点である心臓部分のコアを斬っていく。
剣の刃は少女の背丈に合わせているのか、一般的な長剣と比べると短く見えた。しかしリーチの差を感じさせないほど、大胆に踏み込んで猪の魔物の懐に入る。
たった数分で、彼女は一滴の血しぶきを浴びずに、華麗に舞って猪の魔物を殲滅した。
ロズウェルは眩しいものを見るように、目を細める。
彼女が身にまとっている救助隊の制服は、サファイアブルーのジャケットの肩に、オレンジ色のラインが入っている。
膝丈より短いスカートや、腰のポシェットと黒いタイツにロングブーツも、ご令嬢たちのドレス姿を見慣れているロズウェルにとって新鮮だった。
戦闘後で少し気が高ぶっているのか、彼女は愛らしい笑みとは打って変わって、獲物を狙うように鋭い視線をロズウェルに向ける。
肩先までの金糸の髪が風によってなびき、その隙間から、目が合った。
その瞳は、鮮烈な気高さを秘めている灰紫色。
ロズウェルはふと思う。
朝焼けの中でも輝いている女神を、生涯忘れることはないだろう、と。