淡い恋心(シオン王太子殿下視点)
癒しの加護をもつ聖女・ラピとの結婚が、この国の未来のためになるならと承諾したのは一年ほど前だ。
信仰の象徴たる神殿は、山を越えた遥か彼方である。もちろん、一度も聖女にお会いしたことはない。
別に想いを寄せる者もいないし、なにより自分は王太子なのである。
恋愛感情云々ではなく、国のため、ひいては国民のために人生を捧げる覚悟は物心がついたときにはとっくにできていた。
はずだった。
メイリー・ミュークレイ。
公爵令嬢としての彼女は勿論知っている。何度か挨拶はしたことがあったからだ。
特別な感情を抱いたこともない。それほど会話をしたこともないからだ。
そんな彼女が勇者に選ばれたのには、さすがに驚いたけれど。
(女性が、それも貴族のご令嬢が勇者だなんて…。過酷な旅を果たして続けられるのだろうか)
初めはそんな風に思って心配していたが、断髪式などというものを仰々しく執り行うことになったので、いよいよ僕は憤慨した。
(女性の命とも言うべき髪の毛を切るだって!?いくら勇者に選ばれたからと言って、やり過ぎではないか…)
父である国王に異議を申し立てたが、父は眉間に皺を寄せるばかりだった。
「シオンよ、これは御伽話ではないのだ。長い髪での冒険はそれだけで危険であるし、手入れに気を使える状況じゃあない」
「だからと言って、断髪式など、まるで見せ物ではないですか!」
「…まだまだ甘いな、シオンは」
「なっ……僕が甘いのと何の関係が…」
「女が勇者…難色を示す者が相当数いたではないか。鼻で笑う者もいる」
「それは…そうなのでしょうが…」
「……お前は知らんかもしれないが…ミュークレイ公爵令嬢、あれはすごいぞ。なにせ、父君が率いるミュークレイ騎士団の猛者達が、誰一人敵わんのだからな。視察に行った時、その華麗な剣捌きに惚れ惚れしたほどだ。彼女以外の適任はいないだろうと感じておる」
「ならば尚更、彼女は真にフェンネルの剣に選ばれし者。これ以上のことはないはずです」
「ふっ…いつになく熱いな。気になるか、公爵令嬢の勇者が」
「結構結構」と笑って行ってしまった。
勇者に選ばれたのが女だった。それだけの理由で、ミュークレイ公爵令嬢をよく思っていない者もいる。
確かに断髪式を行えば、口さがない者達は、彼女の覚悟に黙るしかないだろう。
(けれど、あんまりではないか。僕はミュークレイ公爵令嬢殿に同情する)
僕の婚約者を城に無事に届ける任務。それだけの為に、一人の女性の髪の毛を切らなければならない。それも人前で。
果たして、こんなことが許されて良いのだろうか。
けれど、そんな僕の物案じは、一気に吹き飛んだ。
その日、メイリー・ミュークレイはただ静かに目を閉じ、わずかな微笑みすら湛えていた。
美しい髪がはらはらと落ちていくことに、一遍の悔いなど見せず、膝をついて祈っていた。
さらに驚いたことに、目を開いた彼女は公爵令嬢ではなく、勇者としての第一歩に目を輝かせたのだ。
僕は、自分の浅慮を恥じた。
(ミュークレイ公爵令嬢殿は、勇者としての誇り一つ持って、この国のために心を燃やしているのだ)
なんと気高く、美しいのだろう。
そう思ったとき、メイリー・ミュークレイに恋に落ちた感覚をはっきり実感した。
(こんなに苦しく、激しく、心臓を揺さぶるものなのか)
胸の奥で、何かが切なく蠢いている。
あまりのことに、動揺して瞬きすらできない。
彼女を見つめると、呼吸を忘れそうになる。
(これは…いけない…)
僕は王太子なのだ。将来を約束されたのは聖女・ラピである。
僕が守るべきものは、僕の恋心ではない。
何も願ってはいけないし、自分の感情に目を向けることすら許されない。
はっきり自覚したと同時に、この恋心を静かに閉じるしかなかった。
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