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「……で、作り直した契約書がこれ?」
「あぁ」
半眼で分厚すぎる契約書を眺める私に、コーリーは達成感に満ちた爽やかな笑みを返した。
あまりに機嫌の良い態度に、つい胡乱な目を向けながらも、私は契約書を開いた。
「ふーん……『甲と乙は半年間の恋人契約を結び、半年後の聖夜に初夜を迎えるとする』?」
「ああ、ロマンチックだろう?」
「却下!」
自信満々に言うコーリーに、私は眉を吊り上げて言い切る。
「なんでだ!?」
「時間かかりすぎよ」
「体を重ねるのに半年は適切だろう!普通は何年も婚約期間を設けるんだぞ!?むしろ早いくらいだ!ここは譲れないぞ!」
絶対に譲らないと鼻息荒いコーリーをうんざりと眺め、私は次のページの一文を指差した。
「結婚じゃないからなぁ……あと、『両者が合意した場合はそのまま婚姻契約を結ぶこととする』ってのも何?」
「良い考えだろう!」
「だから結婚しないってば!」
「する気になるかもしれないじゃないか!」
真っ赤な顔で言い張るコーリーと、青筋を立ててキレ続ける私。堂々巡りすぎてイライラする。
「だぁから、私もあなたじゃ釣り合わないから!したくなっても結婚できないから安心して!」
「なんでだ!」
「だから、男爵家の五女が公爵家嫡男とは……結婚できないって」
何十回説明すれば良いんだ。
そもそもコーリーだって分かっているはずなのに。
苛立ちの中に惨めさや悲しみが僅かに混じる。生まれを恨んだり妬んだりするのは私の主義に反するのに、とますますコーリーに怒りが募った。しかし、コーリーはケロリとした顔で言った。
「だから、結婚だけなら出来るさ!君の性格的にも公爵夫人は無理かもしれないけど」
「はぁ?」
「まぁ、それは置いておくとして」
意味不明な御託に眉を吊り上げた私の不満を放置して、コーリーはさっさとペンを用意して、契約書の表紙を差し出してきた。
「さ、サインして!」
「なんでよ」
「あと血判も頼むね!」
「こわ、本気のやつじゃん!?」
血判なんて普通使わないでしょう。己の魔力の込められた血液を使うなんて、普通しない。違反したら神の罰が下ると言われているから、そんな気軽に使うものじゃない。それこそ本当に呪われてしまう。
「いいから頼む!ちょっとここに署名するだけだ、それで君は望むもの全てを手に入れることができるんだぞ!」
「完全に詐欺師の口車なのよね」
どんどん怪しい発言ばかりになる腐れ縁の公爵令息を私はしかめ面で見上げた。ちっともサインする気のない私に剛をにやしたのか、コーリーは私の手にペンを押し付けて頭を下げた。
「いいからサインしろ!頼む!人助けだと思って!後生だ!」
「いやなんでそんなに必死なのよ」
「君が来週に見合いの予定を早めたからだよ!何でこの流れで、よその爺と結婚する気になってんだよ!」
「このままだと危険な気配を察したのよね」
「あっちの爺の方が絶対危険だからな!?」
「媚薬中毒ってやつ?ちゃんと山ほど解毒剤仕入れたし、仕込む睡眠薬と幻覚剤も仕入れたから平気よ?」
「僕は大切な友達が犯罪の加害者になるのも被害者になるのも嫌なんだよ!」
「大切な友達、ねぇ……はぁ、まぁいっか。そこまで言うんなら仕方ないからサインしてあげるわよ」
「本当か!?」
「どうせサインしないと拘束して地下牢に閉じ込める気でしょ」
「うーん、そんなことはしたくないんだけれどな」
「する気じゃん」
「君のためだよ」
「ヤバい奴の台詞よね」
はぁ、とため息を吐きながら、サラサラとサインをした。
「相変わらず君の字は綺麗だな」
「努力したからね」
感心したコーリーの言葉に肩をすくめる。学園でも卒業の時には流麗と褒め称えられたが、入学時点では下級貴族丸出しのみっともない字だった。学園の教師に頭を下げて弟子入りした成果だ。
「字が綺麗だと有能そうでしょう?」
「君は実際有能だからね」
「まぁそうですけど」
「謙遜しないところが好きだよ」
「そりゃどうも」
こうやって気軽に好きとか言うから、勘違いする馬鹿女が現れるんだよねぇ、と内心で思いつつ、一言で罵った。
「この勘違い濫造機」
「は?」
「言動に注意しろって言ってんの」
「僕ほど注意深い人間はいないと思うけどな」
「自覚なしかー」
じゃあ言っても無駄だなぁと私は乾いた笑みを浮かべてペンを置いた。
「さ、これで良い?」
「あぁ、完璧だ」
「これで私は次の聖夜まで、アナタの恋人ってわけね?」
剽軽に肩をすくめて笑ってみせれば、コーリーは大層良い笑顔で「その通りだ」と笑った。
「次の聖夜まで、君は僕のモノだよ、カミラ」
「……え?」
何その不穏な台詞。
「じゃ、綺麗にサインしてもらったし、とりあえず神殿に預けてくるね!」
「は?」
なんで神殿?
嫌な予感に血の気がひき、思わず立ち上がって契約書に手を伸ばせば、サッと手の届かない高さまで持ち上げられてしまった。
「ちょっと待って、どういうこと!?」
「これ一応神前契約書の形にしておいたから」
「はぁああ!?」
私は頭を抱えて絶叫する。公爵家クラスの政略結婚、しかも放っておいたら誰かが死ぬレベルに危うい状態で結ばれた政略結婚の時くらいにしかやらなくない!?どうやって神殿に話をつけたんだ?あ、コイツ公爵家の息子だったわ!ちくしょう!
「あははっ!うっかり破棄されたら敵わないからね。これ、違反した場合は違約金の代わりに魔力を十年間問答無用で奉納されることになるから気をつけてねっ」
「いやいやいや、やりすぎでしょ!?」
恐るべき罰則に私の顔はきっと真っ青になっているに違いない。魔力なければ人間は動けないんだからね!?それ十年寝たきりになるって意味でしょ!?
ブチ切れて文句を言い募る私に、コーリーは子をあやす乳母のような慈愛に満ちた穏やかな顔で見下ろした。
「君みたいな行動力と決断力の塊みたいな人相手は、これくらい慎重さが必要なんだよ。ほら見なよ、今君の右手は僕の持つ契約書を燃やそうと火の魔法を練っている」
「くっ」
気づかれたか……と睨みつければ、呆れ顔のコーリーが既に書類に鉄壁の保護魔法をかけていた。相変わらず手が早いやつだ。
攻撃魔法を含め、学生時代の私たちは基本的に同等で対等だった。精度は私が勝るが、速さはコーリーが優れる。今の私たちが魔力一本で真っ向勝負すれば、体力と魔力の持続性からもコーリーが優勢だろう。書類を奪い取るのは難しそうだ。
私は諦めて手を下ろし、そしてそのまま床にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「うっそぉ……ってことは本気で今後半年週に一度デートするわけ!?コーリー、あなた暇なの!?」
「時間ってのは作り出すものだよ、カミラ」
キラキラ輝く笑顔で言われるが、全然胸に響かない。全く嬉しくない。
「うそぉおおお!私、一昨日仕事クビになったから、新しい仕事を探してて忙しいんだけど!?」
「だから僕の秘書やってくれればいいじゃない、前から誘ってるだろう?」
「嫌だって言ってんでしょ!?」
以前から何度も繰り返した会話だ。誘われては、何度も叩き返している。秘書業務なんかやりたくないし向いてない。いや向いていてもやりたくない、だわ。なんでコーリーの人生をサポートしてやんなきゃいけないのよ、自由にさせてよ。私は魔法と研究で食っていけないなら、自力で金稼いで自分の好きに生きていきたいのよ。なお爺の後妻業務と未亡人業務を含む。
そうやさぐれでいた私に、コーリーはニンマリと笑って悪魔の誘惑を寄越した。
「じゃあ、……研究補助業務がメインの、補佐官はどう?」
「うっ」
金がなくて研究者になることを諦め、ついでに魔法に関わる人生も諦めた私にとって、それは正直、かなり魅惑的なお誘いだった。
「僕の研究室でのお仕事だから、かなり自由が効く。君自身が何か思いついたら、もちろんジャンジャン研究してくれても構わないよ?君は補佐官という大義名分のもとで僕のお金と設備を使って研究し、成果は僕との連名で発表すれば良いんだ!補佐官の成果は研究室長である僕の成果になるから。お互いにメリットしかない」
「そ、それは……その……ちょっと魅力的ね……?」
「未来の妻との共同作業と言えば聞こえも良いし」
「それはどうでも良いけど」
立板に水とばかりに流れる誘い文句に、私はウーンと唸りながら悩む。散々断ってきたのに、今更受け入れるのも癪に触るが、しかしこれは確かに魅力的なお誘いだ。どうせ仕事は探さなきゃいけないし、半年間はこの馬鹿に拘束されることが決まっちゃったから、下手に婚活も出来ないし。
「しかも仕事ってことにしておけば、連れ立って歩いてもデートと思われにくいかもよ?」
「うわぁ、策士じゃん……」
おまけとばかりに、私が不安かつ不満に思っていた点にも言及され、私は大きくため息を吐いた。これはどうも負けが決まっているらしい。というか、どうやら私はコーリーの計画の通りに動いているようだ。
「まさかと思うけど、私がクビになったのアナタが手を回したんじゃないわよね?」
「いやそれは君が客と派手に喧嘩したからだろう、手を回すまでもなかったよ」
半ば呆れた顔で告げられた言葉に思わず目を見開いて怒鳴った。
「本気で回そうとしてたの!?」
「いやごめんほんと人手不足で!手が足りないんだってば!僕の研究についてこれる人材がいない!……あぶなっ」
「避けるな」
パチンと己の額を叩いて大袈裟に嘆いて同情を買おうとするコーリーの頭目掛けて、私はとりあえず手近にあったフォークを投げた。軽々と避けて捨てられた仔犬風の目でこちらを見てくる忌々しい男に、私はあからさまに馬鹿にした目を向ける。本当に腹が立つ男だ。
「そりゃアナタの夢見がちな話を聞いて、真面目に取り合おうと思う人間の方が少ないわよ。何よ空から花を降らせる魔法についてって。バカなの?」
「神話にあるだろう?アレ、実現可能なのかなって昔から思ってたんだよね……だからフォーク投げないで!?」
「うるさい」
目をキラキラさせながら、夢見がちな研究に突っ走る愚かなボンボンのような台詞を吐くコーリーに、私は腹立ち紛れに三本目四本目のフォークを次々と投擲した。フォークは全て空中で停止して、コーリーの周りをくるくると踊っている。なんなら二組に別れてダンスし始めた。まったく器用な男だ。そしてこんな時まで目に楽しげな趣向を凝らしてくるのがうっとうしい。
「馬鹿よねほんと。建前と本音が入れ替わりすぎなのよ」
「カミラ……」
私の言葉にコーリーが目を丸くして、言葉を止めた。この飄々とした完璧男を、一瞬だけでも動揺させられたことに、私は溜飲を下げた。
「カミラ……」
「ねぇ、夢みがちな可愛いコーリーくん?」
次第に嬉しそうに顔を紅潮させていくコーリーに、私は薄く微笑んだ。
「あなたは一体、オトモダチ相手にどんなものを降らせるつもりなの?」
「あはは、本当にカミラはすごいな。僕の研究の目的、言わなくてもわかってるんだ」
嬉しそうに破顔したコーリーに、私は苛々と目の前のマカロンを二つまとめて口に放り込んだ。
「そりゃそうよ。無駄に長く付き合ってないからね。コーリーが夢だけを見てる可愛い脳内花畑さんじゃないことは身に染みてるから」
「あはは、君はいつも小気味良いな」
ふわりと心底幸せそうにはにかむコーリーは、それこそまるで神話の登場人物のような美しさだ。コーリーは見た目と裏腹にかなり性格は捻じ曲がっているけれど、神話の人たちも、よく考えると頭がおかしい人ばかり。比喩として適切だったかもしれない。
「花が降らせるなら他にも色んなものが降らせられるでしょうからね。随分と色んな応用が効く、危険なアイデアだと思ったわよ」
「ふふ、だから僕は君が大好きなんだよ」
蕩けるような熱くて甘い視線でこちらを見つめてくるコーリーに舌打ちをして、私はぷいと横を向いた。直視するにはあまりに刺激が強い顔面なのだ。目が焼けてしまう。
「平和ボケのボンボンみたいな顔して恐ろしいこと考えてるアナタ、私も嫌いじゃないわよ」
「熱烈な愛の告白に感激だよ」
「違うけどね」
悔し紛れに本音をこぼせば、ウキウキとしたコーリーが書類を宙に浮かせたまま、私の足元に跪く。
「結婚する?」
「しないからね」
「おや残念、半年後に再挑戦するよ」
「やめてよ……それより」
くだらない言葉遊びをしてから、私は半眼でコーリーを見据えた。
「研究、どれくらい進んでるの?」
「んー、まぁ、実証実験には程遠いかなぁ。理論はだいぶ詰められたんだけどね」
「……へぇ」
思ったよりも進んでいて驚いた。本当に、我が友ながらコーリーは優れた才能に加えて根気や気合い、体力と魔力、ついでに優れた権力と財力まで兼ね備えていらっしゃるようだ。もはや嫉妬する気も起きない。
「あなた、それを完成させたら、下手したら魔法師団から勧誘が来ちゃうわよ?」
「ははっ、そうかなぁ?」
我が国の防衛を一手に引き受ける魔法師団は、国で最も優秀な人間が集うとされるが、実態はほとんど闇の中だ。閉ざされた組織で、入団は狭き門、とかではない。門は開かれていない。入団試験などというものはなく、採用は完全なスカウト制で、自薦も他薦も不可だ。賄賂も裏口ももちろん無し。
「あそこに入るのは、内部からの引き抜きのみだからね。僕にもどうにならないよ」
「知り合いとかいないの?」
「いるけど、そういうのが通じる場所じゃないでょ?あそこは」
「そうね」
完全実力主義なため、身分などは無視されてる。魔法で生きていきたいと思う人間は皆一度は憧れる場所だし、例に漏れず私もずっと憧れていた。
まぁ、魔法研究で一番成果を挙げていた学園時代に勧誘が来なかったから、私にはもう入団の可能性はないのだけれど。
「ま、そんなことは置いておいてさ、カミラが手伝ってくれると心強いよ。お手伝いの子達の魔力が弱くて、最近思ったより実験が進まなくて困ってたからさ」
心底ほっとした顔を見せるコーリーに、私は眉を顰める。コーリーはそんなに焦っているのか。そんなに焦る理由がある、のか。
「ねぇ、お隣は友好国よ?」
「そうだね、まだ友好国だ」
「……そんなに危ういの?」
「さぁね。僕は君の住むこの国が君の生きている限り平穏であることを願っているだけだよ?」
「嘘ばっかり」
適当な言葉で煙に巻いてくれる友人にため息をつき、私は頷いた。お偉い貴族様であるコーリーには、私も知らないようなことを色々知っているのだろう。ほとんど平民みたいな男爵令嬢が考えることじゃない。偉い人たちにお任せしよう。
「まぁ、いいわ。あなたが望んでくれるなら、私は補佐官としてお手伝いさせて頂くわよ。給料も弾んでくれるんでしょうね?」
「もちろん!君がそばにいてくれるとますます張り切っちゃうね!思考が冴え渡りそうで楽しみだよ!」
「ハイハイ」
「あと、とりあえず初デートは来週だからね!楽しみにしてるよ」
「まじかー」
ウキウキと声を弾ませるコーリーに、私は努めてやる気のない返事をした。正直少しは楽しみだったけれど、調子に乗らせるのも癪だったので、興味のない風を装ってしまった。思春期の小娘の反抗みたいだと思わないでもないが、仕方ない。コーリーといると学生時代に戻った気がしてしまうのだ。
「あ、あと補佐官の仕事は明日からよろしく。本当に人手足りないから。一日も早く形にしたいし」
「明日から!?いや、え?……い、今ってそんなに緊張してるの?」
キラキラ笑顔で告げられた急すぎる決定に、私は目を剥いて顔を引き攣らせた。一日も早く、って何?そんな今日明日明後日に何か起こるような予感があるのか?偉い人たちにお任せするつもりとは言え、『近々お隣と喧嘩するね!』みたいな予定があるのだとしたら、さすがに冷静ではいられない。
「んー、いや、まだ当分は大丈夫だと思うけど……」
不安そうな私の様子に、コーリーは眉を下げて、肩をすくめて苦笑した。強張った私の背中をとんとんと軽く叩き、私の緊張を解く。
「お隣さんの王子様が血気盛んなお方でねぇ、自ら鍛え上げてるらしく、兵隊がどんどん強くなってるみたいだし……今すぐ何か起こるかはわからないけど。念のため、早めに完成させたいかなぁ。ほら、僕、心配性だからさ?」
お茶目にウインクして見せるコーリーに、私は覚悟を決める。コーリーの空からお花を降らせよう研究を、一刻も早く完成させることを。
「はぁ……仕方ないわね」
当面は寝るまま惜しんで働くことになりそうな予感がするが、仕方ない。この人の性格を分かっていて、研究室補佐官になると言ってしまったんだから。
「あ、デートの時間はちゃんと確保するから安心してね」
「いやそれは別にいらない」
「えー」
デートしないと魔力奉納の刑らしいから、デートしなきゃならないのはわかってるんだけど。
「それより寝る時間を頼むわ」
呑気に満面の笑みを寄越してくれたコーリーに、私は本心から呟いた。