8
国王は自分のすぐ前に散らばる、粉々に砕けたクッキーの破片を茫然と見下ろした。
汗みどろになった顔でわなわなと唇を震わせ、ゆるりと頭を動かす。
緩慢に振るようなその動きは、次第に速度と勢いを増し、最終的には首がもげそうなくらい必死の否定となった。
「し、知らん……! 私は何も……!」
魔物は口の片端を上げたままその様子を冷然とした表情で眺めていたが、ふいに上体を屈め、ベッド上の王に顔を寄せた。
ビクッと痙攣するように反応した王は、すぐ間近に迫った魔物の射貫くような眼に、それきり眉ひとつ動かすことも叶わなくなった。目玉が飛び出てしまいそうなほどに大きく見開き、カタカタカタと小刻みに身を震わせることしかできない。
「あんたじゃなきゃ、誰がこんなことをするんだい?」
「……知ら」
「知らない知らないって子どもみたいな言い訳だね。仮にも一国の王が、もう少しまともなことが言えないの? いいや、あんたは知ってたはずだよ。離れに男を寄越してコソコソ嗅ぎ回らせていただろう?」
気づいていたのか、と王は息を呑んだ。そして次の瞬間、沸騰するように頭にのぼったのは、偵察役の男への怒りと罵り言葉だった。
あの無能が魔物に動きを悟られるような真似をするから、こんなことに。
「……その顔、この期に及んでも他人に責任を被せることしか考えてないようだね。言っておくけど、俺はそんなこと別になんとも思っちゃいない。むしろ堂々と姿を現して、事情を聞いてくればいいのにと思っていたくらいだ。訊ねられれば、なんでも答えてやったのに」
直接あの離れの建物を訪れ、その目で見れば、判ったことは多くあったはずだった。
ほんの少し会話をすることを選ぶだけで、馬鹿げた誤解やすれ違いなど、あっという間に解消できただろうに。
魔物はそう言って、皮肉げな笑みを浮かべた。
「だけど、あんたたちは誰一人、自ら足を運び、様子を見に来ることもしなかったね。リーディアが少しずつ、でも劇的に変わっていくところを目にすれば、多少は思うところもあったかもしれないのに。実を言えば、俺もちょっとだけ期待していたんだけどな。──でも徹頭徹尾、あんたたちはリーディアに対して無関心だった」
いっそ呆れるような顔つきになって、魔物は身を起こし体勢をまっすぐにした。
ようやく少しだけ威圧感が和らいで、王は小さく息を吐く。今この瞬間、自分が魔物にとって「なんの価値もないもの」として見放されたことなど、王の意識には欠片も浮かばない。
「まったく哀れになるくらいだよ、ローザ・ラーザ国王。ひたむきに物事に取り組んで、苦労して、多くのことを身につけて、知らなかったことを知ろうとするリーディアの、あの瞳の輝きを──ようやく生の実感を得た人間の驚くほどの変貌を、見ようともしなければ気づきもしない。あんたたちは人生における最大の宝を、それもとびっきり美しい宝石を手にする機会を、永遠に失ってしまったんだ」
魔物の言葉は、何ひとつ王には理解できなかった。
あちらも判らせようとして言っているわけではないらしく、その目からはすでに王に対する興味があからさまに消えている。
だが、事実を追求しようという気持ちまではなくなっていなかったようだ。
「──で、なんで毒を?」
再度鋭く詰問されて、王の両肩が大きく揺らぐ。
「しかもずいぶん遅効性の毒だったね。その場では多少気分が悪くなる程度だけど、摂取量に従い、じわじわと身体の内部を蝕んでいく種類のものだ。あの大量のクッキーを、毎日のお茶の時間に少しずつリーディアが口にしていたら、原因も判らないまま弱っていって、終いには死んでいただろう。昔からの暗殺の常套手段といえば、まあそうだけど」
そんなことまで……と白茶けた顔で王は身を小さく縮めた。
なぜだ。あの毒は無味無臭、バターと砂糖をふんだんに使ったクッキーの中に入れておけばなおさら判るはずもないのに。
「殺された、とはっきり判る手段は使えない。そんなことをすれば俺が──『魔物』が怒って何をするか判らないから、というわけかな? 外に出ることのなかったリーディアはもともと丈夫なほうじゃない、徐々に弱って死ぬのならいくらでも誤魔化しがきく、とでも考えた? ……どっちにしろリーディアを失えば、絶望した俺が城の全員ぶっ殺しちゃう、とは思わなかったのかなあ。その場合、まずは王族からだよね」
からかうような口調で恐ろしいことをさらっと言われて、王は目をひん剥いた。
「ま、待ってくれ! どうかそれだけは! 王族がなくなれば、国が滅ぶ……!」
「いや、そんなことは別にないと思うけど。王や王妃がいなくても、民は案外なんの痛手もないもんさ。そもそも国民の大部分は、あんたの顔も知らないんだろうし。王が死のうが、城が壊れようが、その日の飯と寝床さえあれば、人は生きていけるものだよ。試してみようか?」
「ち、違う! 仕方なかった、仕方なかったんだ……! あの娘は我々のことを恨んでおる。その怒りを、憎悪を、この国と民に向けさせるわけにはいかん! 魔物と情を交わしたのなら、あの娘ももはや魔物となろう。私は王として、国を災禍に落とし込もうとする原因を、すみやかに排除せねばならない責任があるのだ!」
「うわ、ここで『責任』ときたよ。どこまでも身勝手なことを言うね。呆れ果ててものも言えない。これまでさんざんリーディア一人にすべてを背負わせておいて、さらに独りよがりな妄想まで被せようとするとはね。掌返して媚びへつらってくるほうが、まだ可愛げがある」
苦々しく顔をしかめ、魔物はちっと舌打ちをした。その小さな音でさえ、王にとっては脅迫に聞こえる。
大きなため息を吐き出して、「いいかい、よく聞きな」と魔物がうんざりした調子で言った。
「そうまでリーディアが自分たちを恨んでいると思い込むのはどうしてだ? それはあんたたちのほうに、『恨まれるようなことをした』という後ろめたい気持ちがあるからだ。リーディアを疑うのは、自分たちが小指の先ほども信頼関係を結ぼうとはしなかったからだ。報復を恐れるのは、自分たちがリーディアに対して酷いことをしてきたという自覚があるからだ。だったらなぜ、それを認めて、まずは謝罪をしようとしない? せめて顔を見て言葉を交わそうとはしない? 自分たちの行為を顧みて、それと向き合うということをしないんだ?」
王は何も返せない。ただ口を引き結び、じっと固まっているしかなかった。
魔物はひとつ息をついて、きっぱりと言った。
──魔物なんて、どこにも存在しない、と。
「これまでたくさんの世界を廻ったけど、どこにも魔物なんてものはいなかったよ。俺は一度も見たことがない。自分たちと少し見た目が違う、変わった姿をしているってだけで無闇に怖れる人間はどこにでもいるけどね。『自分とは違う』という理由で他人を差別し、嫌悪し、見下すその心のありようが、幻の魔物を生み出すんだ。この世で最も厄介なのは、人間の持つその弱さ愚かさだよ。俺にしてみりゃ、生きた人間のほうがよほど醜悪で手に負えない」
魔物に説教されるという、なんとも屈辱的な現実の前に、国王はびくびくしながら顔を上げて、精一杯の反駁を試みた。
「だ……だが、実際に、魔物はいるではないか。今も、目の前に」
寝室内にはまだ影蜘蛛の大群がいて、獲物を捕らえるのを今か今かと待ち構えるようにベッドの周りを囲んでいる。床の上を数十本もの「脚」がうぞうぞと這っているのを見て、気分が悪くなった王はさっと目を逸らした。
「だから言ってるだろ、『人間』の弱さ愚かさが最も厄介だと。人の執着が、欲が、嫉妬が、『魔物』と呼ばれるものを生み出すんだ」
「……?」
何を言っているのかまったく判らなかったが、魔物はそれ以上説明する気はまるでなさそうだった。
もう何もかもが面倒くさくなった、とでもいうように肩を竦める。
「──ま、心配しなくても、俺とリーディアは、明日この国を出る。もう金輪際、彼女をここに関わらせる気はない。俺だってもう、この場所にはうんざりだ」
魔物が明日出て行く、というのを聞いて、王はほっとした。
毒の件を口にされた時は、てっきり四肢を引きちぎられるような無残な殺し方をされるものだとばかり思ったが、今のところそういう気配はなさそうだ。
その内心を見透かしたように、魔物がにやっと笑った。
「直接的には何もしないよ。だけど、あんたたちが『古文書』と呼んでいるものは処分させてもらった。召喚陣も、明日以降は使えないよう、あちら側から閉じる。俺たち一族は、今後何があろうと、この国からの依頼は受け付けない」
それを聞いて、王はかえって安心した。
この五十年、不気味な光を発し続けていたあの召喚陣が使用不可になるのなら、こんなにありがたいことはない。今後もまたこんな恐ろしい魔物と関わり合いになるなど、こちらのほうからお断りだ。
「……と、それだけにしておこうとしたのに、リーディアに危害を加えるようなことをするからさ」
ぼそっと付け加えられた言葉に、再び顔を強張らせた。この言い方、他に何かがあるということか。
「な、何を」
「いやあ、俺の可愛いリーディアが毒を飲まされそうになって、それをさらっと水に流せるほど、俺は心の広い男じゃないってこと。ていうか正直に言うと、腸が煮えくり返ってるんだよ。俺の一族ってのは一途な分、自分の嫁を傷つけたり奪ったりするような連中には、容赦しないんだ」
「や、やはり私を殺すつもりか……?!」
「さあ? 死ぬかどうかは判らないけど。俺は単に、五十年前じいさまが作り直してやった障壁に、『穴』を開けておいただけだから」
「あ、穴……?」
「そういうこと。じゃあね」
魔物はあっさり言って、身を翻した。入ってきた時と同じように、すたすたと無造作に扉へと向かっていく。
本当に自分に何かをすることはないと知って王は身体中の力が抜けるくらい安堵したが、周りに目をやって、ぎょっとした。
「ま、待て!」
「ん?」
扉に手をかけて開けたところで、魔物が振り返る。
「かっ、影蜘蛛が残ったままだぞ!」
その言葉に、魔物は楽しげに笑った。
「もしかして、俺にこいつらを祓ってほしいって言ってるの? 依頼は受け付けないと、さっき言ったはずだけど? そしてもしも祓ったとして、報酬に何を差し出すつもりだい? 今度こそ、あんたが『生贄』にでもなる?」
「ぐ……」
王は押し黙った。そんな約束はできっこない。かといって、これだけの影蜘蛛の群れに生気を吸われたら、自分の身がどうなるのか想像もつかない。
魔物は手をぴらぴらと軽く振った。
「でも、俺が他に生贄を求めたなんて知られたら、リーディアに怒られちゃうしね。あんたなんて髪の毛一本要らないし。……ま、一応おまけとして、こいつらの動きは封じておいてあげるよ。明るくなったら、勝手にどこかに散っていくさ」
「明るくなったら……で、では、朝までこのまま、ということか……?!」
「こいつらに見守られながら、いい夢見てね」
王は愕然とした。
魔物が小さく何かを呟いただけで影蜘蛛の動きは止まったが、そこにいるのは変わりない。影蜘蛛に眼はないのに、ベッドの四方から注視されているような気がする。無数の視線を感じながら、この場所でただじっと陽が昇るのを待てというのか。
まるで拷問だ。
冷ややかに笑んだ魔物が、扉の向こうから顔だけを覗かせた。
「──朝になったら鏡を見てみなよ、ローザ・ラーザ国王。自分の血を引いた娘を贄にしようとし、十七年も軟禁し放置し続け、一人の娘の優しい心と尊厳を踏みにじっておいて一度として悔いることも反省することもせず、さらには子殺しの大罪まで犯そうとした。形振り構わぬ自己保身と、浅ましい打算と、醜い利己主義が凝り固まり人の形をとった、本物の恐ろしい『魔物』が、そこに映っているはずだから」
***
翌日、リーディアは朝食をとってから身支度を整え、簡単に離れの片づけを終えると、ルイと一緒に王城地下室へと向かった。
ルイに手を握ってもらい、きちんと顔を上げ、前だけを見て進む。決して後ろを振り向くことはしなかった。
王族が住んでいるという西翼の前を通ったが、そこはひっそりと静まり返っていた。木々の向こうから聞こえていた声の主であろう幼い王子王女の姿はどこにも見えない。庭園は美しく整備された景観で広々としていたが、人っ子一人いなかった。
警備の兵すらいない。
リーディアは少し不思議に思ったが、なにしろ今までまったく縁のなかった場所なので、これが普通なのかどうかの判断ができない。城というのはもっと大勢の人がいて賑やかなものだと思っていたが、どうやらその認識は改めなければならないようだ。
建物の中に入って、地下へと進む途中でも、兵や使用人の姿はなかった。ルイが今日国に帰ることは特に通達していないはずだから、遠慮して隠れているというわけでもないだろう。
誰かの声も、物音もしない。まるで無人の廃屋のように、どこもかしこも沈黙だけが下りている。
……なんだかずいぶん薄暗いような気もするが、城とはこういうものなのだろうか。
ちらっと隣を歩くルイに目をやってみたが、彼はこの静寂をなんとも感じていないようで、今にも笑い出しそうな顔でさっさと建物内を進んでいく。ルイが不審に思わないのなら、やっぱりこれが常態なのだろう。リーディアも気にしないことにした。
ルイは最初こちらにやって来た時と同じ、黒いマントを羽織っている。飾りも何もないさっぱりしたものだが、彼の国ではこれが正装なのだそうだ。
「だって俺の心積もりとしては、念願叶ってようやく自分の婚約者を迎えにきたつもりだったから。そりゃもう、期待に胸を膨らませてドキドキだったんだよ」
「まあ、わたくしとまったく同じですね」
「リーディアが期待してたのは俺とぜんぜん違ったけどね! なるべく友好的にいこうと、愛想よく挨拶もしたのにさ」
あの「どうもどうも」という軽い挨拶がそうであったらしい。
しかしルイにしてみれば、ここに来た時から、何もかもが想定外のことばかりであっただろう。彼は「もう絶対に仕事の報酬を後に回したりしない。話がややこしくなるだけだ」という今後における商売方針を立て、一族にも周知していくつもりだという。
「ところでリーディアは、本当にその恰好でいいの?」
訊ねられて、リーディアは自分の姿を見下ろした。着ているのは、最初にルイを迎えた時の白いドレスである。
他に持っていく荷物はない。リーディアは身ひとつで、あちらの世界に嫁入りするのだ。
「変でしょうか」
「変じゃないけど、嫌じゃない? だってそれ、死装束のつもりだったんでしょ?」
「ルイさまにこの身を捧げるという気持ちと、立てた誓いは変わりませんから」
「あ、うん、そう……」
ルイは耳を赤くして、もごもごと呟くように言った。尻尾がぶんぶんと勢いよく振られている。可愛い。
「じゃあ今度こそ、『そういう意味のアレ』だね」
「はい、『そういう意味のアレ』です!」
元気に答えて、二人で声を合わせて笑った。
長い階段を下り、重い扉を開けて地下室の中へと入る。
召喚陣は、ルイが来た時と同じように淡く光り輝いていた。この向こうにルイの国があるのかと思うと、それだけで気持ちが上擦ってくる。
この先への期待と、喜びと、希望とで、胸がはちきれそうだ。
──そこに、リーディアの「未来」がある。
「さあ、リーディア、おいで」
召喚陣の上に乗ったルイが、こちらに手を差し伸べてくる。
リーディアは微笑んで頷き、自分も手を伸ばそうとしたのだが、その時、ドタドタという喧しい音とともに、誰かが乱暴に扉を開け中に飛び込んできた。
「まあ、国王陛下」
リーディアはびっくりして、急いで腰を落とした。
少し見ない間に、国王はずいぶんげっそりと窶れてしまっていた。顔色もよくないし、目の下には真っ黒なクマがある。顔は汗びっしょりで、着ているものも豪華ではあるがあちこち乱れてよれよれだ。
一度しか会ったことのない国王だが、こんなにも髪の毛の少ない方だったかしら? とリーディアは寂しげなまでに薄くなったその頭部を見つめた。以前の姿を思い出そうとしたものの、残念ながらちっとも記憶に残っていない。
「どっ、どういうことだ!」
「どういうこと、とは?」
リーディアは問い返したが、その声も耳に入っているのか判らない。王は慌てふためき、すっかり取り乱していた。
「影蜘蛛が急に増えたぞ!」
その目はリーディアを飛び越えて、ルイのほうに向かっている。
振り返ると、彼は無言で薄く笑っているだけだった。
「一部の者は城から出て行ってしまった! 皆、生気を吸われてやる気が出ないと……どこかで暴れる者があっても、兵はそれを取り押さえることもしない! 使用人に至っては、私たちの朝食を用意することも拒否する有様だ! これでは生活していくこともままならん!」
「まあ、そんなことに……」
リーディアは頬に手を当てた。城内はずいぶん混乱しているようだが、国王自身が何よりもこの事態に混乱しきっているように見える。
「なんとかしてくれ! そなたなら、影蜘蛛をすべて始末できるのだろう?!」
王は悲鳴を上げるようにルイに向かって懇願したが、彼は「依頼はもう受け付けないと言ったよ」とにべもなかった。
すげなく断られた王は、そんな、そんなと青い顔で呻いて、リーディアに縋るような目を向けた。
「リ、リーディア、そなたからも頼んでくれ。そなたの言葉なら、あの魔物も聞き入れるであろう?」
リーディアは困ってしまった。
「そう仰られましても……お仕事を受ける受けないは、ルイさまがご判断されることですから。わたくしが口を出すようなことではございません」
「そう言わずに頼む! 私が謝ればいいのか?! そうすれば許してくれるのか?!」
「許す? わたくしがですか。何をでしょう?」
リーディアが首を傾げて問うと、国王は絶句した。
「ご安心ください、陛下。影蜘蛛は、人の暗い心に引き寄せられるのだそうです。負の感情を失くし、王妃殿下やお子さまがたの愛し愛される方々と一緒に、毎日仲良くして明るく笑っていらっしゃれば、とり憑かれたりすることはございませんわ」
ルイが「そりゃ無理だ」と呟いて、小さく噴き出した。
王は唖然と口を開けて「そ……」と言ったきり言葉を発しない。少ししてハッとしたように、再び喚き立てた。
「そ、そうだ! 王妃はそなたの実の母親だ! ここにはそなたの兄弟姉妹もいるのだぞ! そなたの弟妹はまだ幼い。あれらにはなんの罪もないのだから、助けてくれてもいいではないか?! 小さな子どもにまで復讐するつもりか! そなたは王族としての誇りも責任も捨ててしまったのか?!」
「どの口がそんなことを」
ルイは苛立たしそうに低い声で吐き捨てたが、リーディアは目を瞬いただけだった。
復讐とはなんのことだろうか。いや、そんなことよりも、今ものすごくおかしなことを聞いた。
「陛下」
「頷いてくれるか!」
いえ、と首を振り、リーディアは柔らかく微笑んで、諭すように静かに言った。
「わたくしに、親きょうだいはおりません。そしてわたくしは、王族でもございません。捨てるも何も、誇りも責任も、最初から持っておりません。生贄として生まれたわたくしにあるのは、はじめから、ただこの身だけでございます。わたくしはそのように育てられたのですから。……我が身をもって五十年前の約束を果たし、わたくしは本当に『幸福』でございます」
王は口を半開きにしたまま、固まってしまった。
ルイが笑い出す。
「じゃ、そういうことで。行くよ、リーディア」
「はい!」
リーディアはぱっと笑顔になり、くるっと王に背中を向けて、ルイのもとへと駆け出した。
胸に飛び込んでいくと、すぐに両腕が身体に廻される。頬に唇が落とされると同時に、召喚陣から黒い闇が湧きはじめた。
細い筋のような闇が太くなり、次第にうねるような渦となって二人を取り巻いていく。王がその向こうで何かを叫んでいたが、もうリーディアの耳には届かなかった。
「無関心には無関心を。これがリーディアへの仕打ちに対する最大の報いだ、ローザ・ラーザ国王。──こういうのを、自業自得と言うんだよ」
ルイの言葉が最後までいかないうちに、周囲は闇に覆い尽くされ、地下室の景色も、へたり込んでしまった国王の姿も、リーディアの視界から完全に消えた。
***
ローザ・ラーザ王国の広大な城がすっかり廃墟と化してしまったことをリーディアが聞いたのは、不思議な場所「カラの国」での暮らしに、ようやく慣れてきた頃のことだ。
一族の人たちはリーディアを温かく迎え入れてくれた。優しい夫であるルイに無事「食べられ」て、じきに待望の第一子が生まれてくる予定だ。それはもう、ルイは毎日大はしゃぎである。
その後、ローザ・ラーザの王族がどうなったのか、リーディアは知らない。ちっとも興味がなかったので、聞こうとも思わなかった。
あそこはかつて、自分が「生贄姫」と呼ばれていただけの場所であり、それ以外には何もない。
リーディアは今、とても幸せに日々を過ごしている。
だからこれからもっと幸せになれるよう、頑張りたいと思う。
──まだまだ、リーディアの人としての生は続いていくのだから。
完結しました。ありがとうございました!