7
素晴らしく美しく晴れ上がった空だった。
リーディアとルイはその日、いつもとは趣向を変え、外でお茶を楽しむことにした。テーブルと椅子をルイが運び出し、ようやくお茶の支度を一人で完璧に整えることができるようになったリーディアが道具一式をワゴンに乗せて押していく。
外といっても周りの景色は木々に囲まれているからさして開放感があるわけではないが、それでも直接陽の光を浴びたり、そよぐ風を感じたりすれば、気分的にはかなり違う。
「気持ちがいいですね、ルイさま」
「そうだね」
テーブル上に並べたカップにお茶を注ぎながらリーディアがそう言うと、椅子に座ってその様子を眺めているルイも目を細めて同意した。
なぜこうして外でお茶をすることになったかといえば、明日、ルイとともにここを出て行くことを、リーディアが決めたからである。
生贄としてではなく、ルイの「お嫁さん」として、あの召喚陣を通り、彼の国へと向かうのだ。
あちらへ行ったらもうこちらに戻ることはない。たとえルイが許可してくれても、リーディアにそんなつもりが一切ない。今度こそ本当に、リーディアという存在はこの地から消える。だから最後に、少しでもいろいろな思い出を作り、記憶に残しておこうとルイが提案してくれたのだった。
生まれ育ったこの建物から離れることを寂しいとも悲しいともまったく思わないし、はっきり言うならこの場所にもこの国にも思い入れはこれっぽっちもないが、これもルイの気遣いなのだろうと思うから、リーディアは素直に肯った。
それに単純に、こうしていると楽しいし。
お茶を淹れ終えて、自分も座ろうと思って気づく。
椅子は二脚あるが、それらは密着と言っていいほど隣同士でぴったりくっついて設置されていた。
これでは肘と肘が当たってしまう。リーディアはもう少し椅子を離そうとしたが、ビクともしなかった。よく見たら、ルイがしっかり座面の端を押さえ込んで阻止している。
「…………」
しょうがないので、そのまま腰を下ろした。ルイの身体が触れそうなくらい間近にあって、ぎちぎち感がすごい。そんなに小さなテーブルではないので、余った面積が非常に広々としている。
なるべくルイに当たらないよう、彼の前にカップを置く。結構な難事業であったがなんとか成功すると、息をつく間もなく、するりと手を掬うようにして取られた。
「リーディア」
「はい」
やけに真面目な声で呼びかけられて隣に顔を向けたら、声よりも数倍真面目な表情をしたルイが、ひたとこちらを見つめている。
なるほど。彼は彼で、思い出作りとはまた別の意図があったようだ。
「改めて言うけど」
「はい」
「──俺のお嫁さんになってくれる?」
あちらへ行く前に、きちんとした求婚をしなければ、と考えたらしい。どうりで朝から無口で動きがぎこちないと思った。
一拍の間を置いて、リーディアは微笑んだ。
「ルイさまは、こんな生贄育ちの世間知らずなわたくしで、よろしいのでしょうか」
「リーディアがいい。子どもの頃じいさまから話を聞かされて以来ずっと、どんな女の子が俺のお嫁さんになるのかなって想像してたんだ。リーディアはその想像のどれとも大きく違っていて、でも想像をはるかに上回って可愛いくて、純粋で、混じり気がなくて、素直で、一生懸命だった。これからの長い時間を、俺とともに過ごしてくれる?」
リーディアは自分の手に重なっているルイの手を、もうひとつの手で包み込むように挟み、にこっと笑った。
「はい。どうぞわたくしを、一生ルイさまだけのものにしてください」
──行き止まりに向かう一本道だったものが最後の最後で突然分岐して、先へと続く道ができたことに、正直、まだ困惑はある。不安だって消えたわけではない。どんなに目を凝らしても、道の向こうに何があるのかは、まったく見えないのだから。
「約束の日」を迎えるまで、リーディアにとって一年後と二年後はそれほど変わり映えのないものだった。でもこの先は、きっとまったく違うのだろう。今日と明日でさえ違うに決まっている。どう違うのか、どんなものになるのか、予測もつかない。普通の人たちは、こんな不確かな道をどうやって進んでいるのだろう。何を楽しみに、何を怖れて、それでも足を踏み出すのだろう。まだ判らないことだらけだ。
だけどこれから、生きるということ、未来というもの、夢を描くということを、ゆっくりと考えていきたいと思っている。
ルイと一緒に。
「……うん」
ルイが目元を和らげる。やっと緊張から解放されたように大きな息を吐き出して、前に置かれたカップを手に取った。ちなみに椅子の位置はそのままである。
「ルイさま」
「うん?」
「ルイさまのお国は、どのようなところなのでしょう」
リーディアの問いで今になって気づいたのか、「あ、そういえばまだ言ってなかった」とルイが目をしぱしぱさせた。
カップをソーサーに戻し、少し笑う。カチンというかすかな音がした。
「カラの国、と呼ばれてる」
呼ばれている、というのも不思議な表現だ。
リーディアが首を傾げると、ルイは目を細め、ふいに節をつけて歌うように言葉を出した。
「──幹の国、殻の国、空の国」
リーディアの耳には、それらはどれも同じにしか聞こえない。
「世界と世界の間に均衡をとるようにして存在し、外側からは破ることも割ることも決して叶わず、普通の人の目からは何もないように見える。俺たち一族はそこを拠点として、あちこちの異界を巡り、依頼を受け、仕事をこなしているんだ」
そう言ってから、依然としてきょとんとしているリーディアを見て、今度は微笑を苦笑に変えた。
「まあ、どれだけ説明したところで、言葉だけでは判らないよね。とにかく、一族以外の人からすると、すごく不思議なところ、らしい。俺の母親もそうだけど、余所から嫁入りした女の人たちは、最初のうち何もかも驚くことばかりみたいだし……」
終わりのほうは曖昧に言葉を濁して、尻すぼみになった。ルイが眉を下げ、心配そうに問いかける。
「……そんなところに行くの、怖い?」
リーディアは目を真ん丸にした。何を言っているのだろう。
「ルイさま」
「うん」
「わたくしにとって、この離れ以外は、どこも等しく未知の場所です。ローザ・ラーザ王国でさえ同じく、知っていることなどひとつもありません。実際にこの目で見たことは、一度もないのですもの」
「うん」
「ですからどこへ行こうが、そこは『不思議なところ』で、何もかも驚くに決まっています」
自信満々に返した答えに、ルイは少し呆気に取られてから、ぷっと噴き出した。
ほっとしたように、頬を緩める。
「そっか、どこでも同じか」
「はい。でも、怖くはありません。ルイさまがいてくださいますから」
「うん。少しずつ、慣れていってくれればいいよ。俺も努力するし、一族はみんな君を歓迎するからね」
「一族の方々……ルイさまのご両親とお祖父さまには、どのようにご挨拶すればよろしいでしょう」
「普通でいいよ、って、リーディアにはその『普通』が判らないんだったか。そうだなあ、わたしを食べてください以外の言葉なら、大丈夫だよ」
「まあ。わたくしが食べてくださいとお願いするのは、すべての世界ひっくるめてルイさまお一人だけです」
「う……うーん……相変わらず噛み合っていないような、だけど強烈に口説かれているような……」
ルイが赤くなった耳たぶを指で摘まんで引っ張り、視線を明後日の方角へと向けた。
尻尾がぴんと立って、パッタンパッタンと右へ左へ振り子のように大きく揺れ動いている。それにつられてリーディアも右に左に視線を動かし、ちょっと目が廻ってしまった。
指先がムズムズする。この尻尾、触れたり掴んだりしていいのだろうか。実を言えば、ずっとそうしたくてたまらなかったのだが。それとも若い娘として、その行為ははしたないものとされるのだろうか。殿方の尻尾をぎゅっと握ってみる、だなんて。
「……ディア、リーディア」
気づいたら、名を呼ばれていた。
「あ、はい」
「このクッキー、どうしたの?」
ルイが指し示す先には、皿に行儀よく盛られたクッキーがある。砕いたナッツが混ざっていたり、赤いジャムが載っていたり、くるりと捩じってあったりと、種類も豊富だ。
「今朝、扉の前に置かれた食材の中に入っていました」
今まで届けられていた食材は、肉の塊や収穫したばかりのような野菜ばかりで、加工品はほとんどなかった。だが今日の荷物には、それらと一緒にクッキーをどっさり詰め込んだ袋が添えられていたのである。ルイは料理はできるが菓子は作れないので、こういったものは久しぶりだ。
お茶をする時にちょうどいいと思って持ってきたのだが、ルイはなんとなく微妙な顔つきをした。
くん、と小さく鼻を動かしている。
「そういえば、ルイさまは甘いものはあまりお好きではないのでしたね」
「まあね……」
ルイの目はじっと皿の上のクッキーに向かったまま、何かに気を取られているのか、口から出るのも生返事だ。
「どうぞお気になさらず。ルイさまがお食べにならなくても、わたくしがいただきます」
リーディアはそう言ってクッキーを一枚取った。しかし口に入れる手前で、ルイの手が伸びてきて腕を掴み、動きを止められてしまった。
ルイを見ると、彼は薄っすらとした笑みを口元に貼りつけている。
「? どうなさいました?」
「いや。……ねえリーディア、それ、俺に食べさせてくれない?」
にこにこしながら頼まれて、リーディアは「はい?」と問い返した。
「恋人同士の『はい、あーん』ってやつ。俺の夢だったんだよね」
「以前伺った夢の中には、入っておりませんでしたが」
「ひとつ叶えば、またひとつ新しい夢が増えるものなんだよ。リーディアも何かしたいことはできた?」
「はあ、でも、そんなこと、わたくしの口から申し上げてよろしいのか……」
「え、あるんだ。なに? 俺が手伝えることならいくらでも」
「実は、ルイさまの尻尾を撫でたり握ったりしてみたいのです」
「いやごめん、台詞の中身と表情の落差がすごすぎて意味が判らないんだけど。今までさんざん際どいこと平然と言ってきて、なんでここで頬を染めて恥じらってるの? 尻尾……尻尾なら別にどれだけ撫でても握ってもいいけど……え、尻尾だよね? 変な意味のアレじゃないよね? 俺が妙に勘繰りすぎなの? 俺の下心がすべて悪いの?」
ルイは少し混乱しているようだった。「変な意味のアレ」とはなんだろう。彼の表現はたまに難解だ。
「それでは、またの機会にお願いします」
「いや、今でもいいけど。尻尾なら。尻尾ならね」
「いえ、そんな、こんな外でなんて……あとでゆっくり、時間をかけて堪能させていただきます」
「なんでかな、ものすごくいかがわしく聞こえるよ! 俺の汚れた心のせい?!」
「はい、ルイさま、どうぞ。『あーん』」
尻尾の感触を確かめる約束を取り付けて安心したリーディアは、摘まんでいたクッキーをそのままルイの口元に持っていった。ぶつぶつと小声で何かを言っていたルイが、「もー、リーディアには敵わない……」と赤い顔で口を開ける。
さくっと軽い音を立てて一口齧ってから、わずかに眉を寄せた。
「お口に合いませんか?」
「あー、うん、そうだな……」
しばらく舌で味わうように確かめてから、ごくんと飲み下し、すぐにカップの中のお茶を口に含む。
「俺というより、リーディアの口には合わないね。……どうやら、料理人が砂糖と塩を間違えたみたいだ。しょっぱすぎて、食べられたもんじゃない」
ルイはそう言いながら、クッキーの載った皿をリーディアの手が届かないところまで移動させてしまった。
「まあ、お砂糖と塩を? ルイさまは大丈夫でしたか?」
「俺は平気。こういうものに耐性があるからね」
「耐性、ですか」
「──霊は塩気を嫌がるから、昔から塩辛いものに慣れてるってこと。でもリーディアの身体にはよくないしね、食べるのはやめておいたほうがいい」
「判りました」
そういえば、ルイの料理はいつも少し塩が多めだ。リーディアは納得し、どういう理由で霊は塩を嫌がるのかと考えた。こういったことも、これから少しずつ教えてもらえるのだろうか。
ルイはまるで口の中を洗い流すかのように、カップを傾けて、入っていたお茶をすべて飲み干してしまった。
「よほど塩の量が多かったのですね」
「うん、まだ舌が少しピリピリするな」
「まあ、そんなに……お茶のお代わりはいかがですか?」
ティーポットを持ち上げようとしたら、それもルイに止められた。
「リーディア、お茶よりもさ」
「はい?」
ルイの手が伸びてきて、肩を抱かれた。そちらに引き寄せられ、顔と顔がくっつくほど近くなる。
「──口直しさせてほしいな」
微笑しながら、囁かれた。
ルイの呼気が耳朶に触れる。くすぐったさに少し首を縮めて、リーディアは彼の黒い瞳を見つめた。
頬が熱い。心臓が大きく胸の内側を打ち立てている。鼓動が激しすぎて、今にも外に飛び出してしまいそうだ。
だけど死ねない。
「わたくしで、お役に立てますか?」
「ちょっぴりリーディアを味見させてくれる?」
「はい、わたくしはルイさまのものですから、どこでもお好きに召し上がれ。腕でも足でも頭でも──唇でも」
その後、リーディアの身体の一部分は舐められ食まれ啄まれ、ルイが満足するまで存分に味見をされた。
***
真夜中を過ぎても、ローザ・ラーザ国王はベッドの中で目を開けたまま、まんじりともせず横になっていた。
果たしてあれから首尾はどうなったのだろう。命令を下してから、そのことばかりが気にかかり、何も手につかない。この件は長男の王太子にも宰相にも言っていないから、王一人だけが悶々と悩みを抱え込んでいなければならないのも業腹だった。
何度も何度も考えた。やっぱりやめようかと弱気になっては、いや機を逃して後で災厄が降りかかったらどうすると自分を叱咤することを繰り返した。もともとそんなに豊かではなかった王の髪の毛は、この数日で一気に薄くなってしまった。
王として、苦渋の決断だったのだ。ローザ・ラーザ王国と国民を確実に守るには、こうするしかない。
そもそもあの生贄姫が、さっさと役目を全うしてくれないから、こんなことになったのではないか。
王族に生まれたからには、自分の意に沿わなくてもしなければならないことなんて、いくらでもある。自分だって、王妃だって、王太子をはじめとした子どもたちだってそうだ。政略での結婚は当たり前、戦争が起きれば数万の兵を死地に追いやっても勝たなくてはならず、たとえ何があろうと私情を優先するのは許されない。
リーディアという娘も王女なのだから、国のためにその身を犠牲にするのは仕方のないことなのだ。
それに、自分たちはあの娘を虐げたわけではない。暴力で押さえつけることなど、一度もしなかった。むしろ物質面では何不自由なく揃えてやった。大事に大事に、囲い込んで守り育てたのだから、恨まれる筋合いなどありはしない。
「そうとも……」
自分に言い聞かせるようにぼそりと呟いたところで、ふっと室内がいきなり暗くなった。
ぎょっとして跳ね起き、見回してみれば、壁に据えつけてある四つの燭台で燃えていた炎が、すべて消えている。現在明かりを灯しているのは、ベッド脇のテーブルにある枝つき燭台の三本の蝋燭のみだ。
真っ暗になるのが嫌で、壁の蝋燭はどれも夜が明けるまで保つようにしてあったはず。それがなぜ一斉に消えた? 窓はすべて閉め切って、どこからも風なんて吹いてこないのに。
寝室の広さに比べ、燃えている三本の蝋燭の灯火が届く範囲はおそろしく狭い。さっきまで明るかった分、周りの暗闇が押し寄せてくるような圧迫感を覚えた。
鬱蒼とした闇の気配が濃密になる。ざわざわ、と何かが動いている音が聞こえた気がして、王は身体を硬直させた。
窓の外は無風だ。風に揺られた木の音ではない。ではなんだ。
──まさか、影蜘蛛?
じわっと脂汗が滲む。いや、そんなことはないだろうと慌てて打ち消した。実体のない影蜘蛛は、どれだけ動いても音などコソリともしない。
静かに、ひそやかに、いつの間にか背後に忍び寄る。
「ひっ……!」
小さな悲鳴を上げて、ばっと勢いよく後ろを振り返る。
何もなかった。心臓をばくばくさせて、細い息を吐き出す。
帰らないなら離縁するぞと脅して強制的に実家から戻した王妃は、子どもたちと一緒に寝ると言い張って、ここにはいない。大きなベッドで身を起こしているのも、この部屋の中にいるのも、国王ただ一人だけである。
たまらなくなって燭台の横に置いてあったベルを取り上げ、けたたましく鳴らした。
しかし、返事もなければ、物音ひとつしない。
馬鹿な。寝室の扉の前には警備の兵が寝ずの番で立っているはずだ。魔物が来てからというもの、その人数を普段の三倍に増やした。一人残らずこの音に気づかないなんてこと、あるはずがない。
「おい、誰か! 蝋燭の代わりを──明かりを持ってこい!」
怒鳴りつけるようにして命令したが、それにも何も返ってこない。
しんとした静寂は、今や息苦しいくらい室内に充満していた。こんな──部屋の外が無音に近いまでに静まり返るなんてことが、あり得るのだろうか。
その時、ギイ、と音を立てて扉が開いた。
心底ほっとして、同時に怒りが湧いてきた。びくびくと怯えきっていた反動で、無性に腹立たしくてたまらない。大体、ここは王の寝室なのに、返事をしないどころか入室の許可も得ず扉を開けるとはどういう了見だ。
「何を──」
していた、と続けようとしていた大声は、喉から出る前に止まった。
大きく目を瞠る。顔が恐怖で引き攣った。
扉が開いて暗闇の中に入ってきたのは、それもまた暗闇だったからである。
黒い髪、黒い瞳、首まで詰まった黒い衣装の──闇の眷属。
「ま、魔物……」
悲鳴を上げようとしたが、王の口からは掠れた呻き声しか出なかった。
まさかこんなところにいきなり現れるとは。これではなんのために警備を増やしたのか判らない。いや、そうだ、魔物が城内に入り込んでいるのに、咎める声も争う音すらしなかったではないか。一体どうなっている。
扉を開けてするりと身を滑らせるように寝室に入ってきた魔物は、口をぱくぱくさせているベッド上の王を見て、切れ長の眼を冷ややかに眇め、面白そうに口角を上げた。
「安心してよ、別に乱暴なことなんてしていない。兵はみんな、眠ってる」
「そ、そんなわけが──」
「ぐったりして、立ち上がる気力もないようだ。あんたの無茶な命令続きで、疲れが溜まっていたんじゃない?」
にやりと笑って、付け加えた。
「朝から晩までこき使われてることへの不満と苛立ちも、相当積もり積もってたんだろうね。そんなことだから、アレに付け込まれるんだよ」
「あ……あれ、だと?」
「よく知ってるでしょ、アレ」
魔物の言葉にひやりと背中が寒くなった。
慌ててきょろきょろと頭を巡らせ、闇の中に目を凝らす。何も見えない──いや、蝋燭で照らされた床に、壁に、そして天井に、もぞもぞと蠢く何かが見える、ような……?
「ひいいっ!!」
いつの間にか、寝室の中には、無数の影蜘蛛がはびこっていた。
ざわざわ、ざわざわと、おびただしい量の脚の影が王を取り囲んでいる。
闇の部分を占めているのがほとんど影蜘蛛の黒だと気づき、失神しそうになった。
人の形によく似た魔物は、影蜘蛛で埋め尽くされた床を無頓着に歩き、ゆっくりとベッドに近づいてきた。
王は泡を噴きそうになりながら、蒼白になってぶるぶると震えているしかない。周りは影蜘蛛だらけ、ベッドから片足を下ろしただけでも、影蜘蛛が一挙に襲いかかってきそうだ。
魔物はベッドの傍らにまで来ると、おもむろに拳にした手をかざすように持ち上げた。
何をされるのかと怯え、ひたすら身を縮めるばかりの王の前に、ばらばらと何かが落ちてくる。
その何かは、魔物の手の中から出ているようだった。パキパキとすり潰すようなざらついた音がする。白いシーツの上に細かい欠片が散らばって、王は何度も目を瞬いた。
なんだこれは。小石のような、砂のような。魔物は手の中に入れたその何かを握って砕きながら、ベッドに降らせるように落としている。
小さな小さな欠片。どこからか、ふわりとバターの匂いがする。
そこまで気づいて、王の顔からさらに血が引いていった。
クッキーだ。
「贈り物を、どうもありがとう」
魔物は口元に笑みを浮かべてそう言った。凍てつくような眼差しは、揺らぎもせずに王に据えられている。
寒いほどの空気の中、伝わってくるのはもはや怒りではなく、殺気だ。
「……これに毒を仕込むよう命じたのは、あんたかい?」