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 ルイは一向にリーディアを食べようとしない。


 寝室は別だが、朝から晩までほぼ一日中この小さな建物の中で一緒にいるというのに、彼はちっともそういう素振りを見せなかった。「つまみ食いはしない」と宣言していたから、熟成させて頭から足までしっかり味わうつもりなのかと思っていたが、もう十日近くになる。いくらなんでも時間をかけすぎではないだろうか。

 やっぱり食べるところが少ないのが気に入らないのでは、とリーディアは心配になった。

 確かに、ルイと一緒に食事をとるようになってから、リーディアの食物摂取量はかなり増えた。しかしその分動くようになったので、実のところさほど肉付きは良くなっていない。それにそういう理由なら、リーディアを一室に閉じ込めて、どんどん食べ物を口の中に突っ込んでいけばいいだけの話だ。

 ……判らない。ルイはなぜ、リーディアを食べることなく、この離れに留まっているのだろう。


 ルイはリーディアに何も求めない。

 太れとも、痩せろとも、自分の好みに合わせろとも、どこかを変えろとも。


 何が不足しているのか、どういうところが不満なのか、言ってくれれば必ずそのようにするからとリーディアが訴えても、彼は笑うばかりで、ちっとも取り合ってくれなかった。


「言ったろ? 君は今の君のままでいい」

「でも、わたくしに足りないところがあるから、ルイさまは食指を動かされないのでしょう?」

「食指……いや、それはまあ、ちょっと我慢してるところはあるけど、そんなにがっつくつもりはないし」

「では、『いつか』は食べていただけるということですか? どういう状態になれば、ルイさまはご満足されるのでしょう。教えていただけたら、早くそうなるよう努力いたします」

「んー……そうだなあ。あのね、俺はね、どうしてもリーディアに言ってほしい言葉、っていうのがあるんだよ」

「言葉?」


 リーディアは当惑した。

 今まで、どうすれば自分をルイ好みの食材にできるのかということばかり考えていたリーディアにとって、それは思ってもいない要望だった。

 挨拶と口上は、地下室で対面した時に述べたはず。あれ以外にも、何か口にすべき言葉があったということだろうか。食べてもらうために必要なキーワードとか、呪言のようなものとか? そんなもの、一度も習わなかった。


「では、それを教えてくださいまし」

「ダメ。それはリーディアが自分自身で考えて、自分の気持ちのまま正直に出さなきゃ意味がないから」


 あっさりと言われて、さらに混乱する。だってリーディアは本当に、何が正解なのか判らないのだ。時が満ちれば、何か神秘的な力が作用して、生贄である自分の口から勝手に出てくるということなのだろうか。ルイはそれを待っていると? その時っていつ?

 リーディアが相当困った顔をしていたらしく、ルイは小さく噴き出した。


「大丈夫。たぶん、そう遠いことじゃないと思うよ。リーディアの頭は理解することを拒んでも、『ここ』はちゃんと判っているはずだから」


 そう言って彼が指差したのは、リーディアの左胸のあたりだった。

 そこにはどくどくと脈打つ心臓がある。いつか来るその時には、真っ先に心臓を取り出して食べる、ということなのか。


「よし、そういうことで、外に出ようか。昨日大雨が降ったから、まだあちこちに雫が残って、いつもとは景色が違って見えるよ。まだ空気が湿ってるようだし、髪を上げるのもいいかもね。やってあげるから、おいで、リーディア」


 ルイは機嫌が良さそうだ。朝起きて、食事をして、外に出て、という同じことの繰り返しの毎日でも、彼は何かと小さな変化を見つけては楽しんでいる。

 リーディアは、ひとつひとつ説明してくれる彼の言葉に頷き、身体を動かし、たくさんのことを見て知って覚えて、驚いて、そして笑う。自分にはないと思っていた感情が、最近では次々に表に出てきて、戸惑うことばかりだ。

 ルイは、それは存在しなかったわけではなくて、リーディアの身体のずっと下のほうに押し込められていただけだよと言った。

 硬かった種が、少しずつ芽吹きはじめるように。



 ──だからあとは、花を咲かせるだけ。



 笑いながらそう言うルイの顔を見て、リーディアはまた戸惑う。

 ふわふわして、ドキドキして──そして同時に、どこか奥深いところからじわりと忍び寄る暗い何かに気づいて、身を竦ませる。

 気持ちがあちこち不安定に揺れ動く。胸がざわめく。新しい何かを発見するたび、ルイに笑顔を向けられるたび、頭のどこかが激しく警鐘を鳴らしているような気がする。

 良く晴れた青い空に、黒い雲がどんどん広がっていくような。


 こんな気持ち、ずっと気づかないままでいたかったのに。



          ***



 その夜のことだ。

 窓の外がすっかり闇に覆われ、建物の中も蝋燭の明かりだけが周りをぽうっと照らしている中、ゆらゆらと揺れる影にまぎれてざわりと蠢く「脚」があるのを、リーディアは見つけた。


「影蜘蛛……」


 この離れにはあまり姿を見せなかった影蜘蛛が、食堂内の暗がりに潜んでいる。

 ルイは外に薪を取りに行っていて、ここにいるのはリーディアだけだ。天井の隅に張りつくようにしてもぞもぞと動く影を、心許なく見上げた。

 影蜘蛛を怖いと思ったことはない。しかしそれは、今までこの小さな魔物が、決してリーディアの近くには寄りつかなかったから、という理由もある。どういうわけか、影蜘蛛が近づいていくのは世話係と兵ばかりで、リーディアのほうは見向きもしないどころか、あちらから遠ざかっていくことすらあった。


 だが今日の影蜘蛛は、じわじわとリーディアとの距離を縮めてきていた。


 巣にかかった獲物に近づく本物の蜘蛛のごとく、こちらの様子を窺っているようだ。黒い影の脚が少しずつ、リーディアのほうへと伸びてくる。

 これに触れたら生気を吸われる。リーディアは後ずさりしたが、影蜘蛛はささっと素早い動きで天井から床の暗闇へと移動し、さらに接近してきた。

 数本の細い影がざわざわと伸びたり曲がったりしながら交差して、まるで脚をすり合わせる蜘蛛が舌なめずりをしているようにも見える。


「──大丈夫」


 不意に背後から小さな声が耳元で聞こえて、ビクッと身じろぎした。

 いつの間にか戻ってきていたルイが、リーディアのすぐ真後ろに立っている。息遣いが感じられるくらいの至近距離だ。

 ルイは影蜘蛛にじっと視線を据えたまま、薄く笑っていた。

 その顔からは、普段の気安さがすっかり拭い取られ、国王に対峙した時のような、何者をも恐れぬ堂々とした覇気と不遜さが乗っている。



「リーディアに引き寄せられてきたな。いい傾向だ。……そろそろ頃合いかな」



 舌で唇を湿らし小さく呟いてから、ルイはなぜかリーディアに腰を落とすよう指示した。

 影蜘蛛の前に両膝をつく形になるが、ルイがそう言うからにはきちんと理由があるのだろう。リーディアは素直に従い、大人しくその場で跪くような恰好をした。


「よし、いいぞリーディア。こういう時、闇雲に騒いだり逃げたりして心に隙を作るのが最もよくないからね」


 そう言いながら、ルイもまた後ろで片膝をついた。背後から左手でリーディアを支えるように抱きかかえ、人差し指と中指を立てた右手を前方へと突き出す。

 その指先を影蜘蛛に向けて、「縛」と短く唱えた。

 今にもリーディアに触れようと蠢いていた影の脚が、すぐ前でぴたりと動きを止めた。


「リーディア、こいつの上に手をかざしてごらん」

「え……手を?」

「今なら動きを封じてあるから、コレは何もできない。触らないように注意して、気持ちを落ち着けて、耳をよく澄ますんだ」

「耳を澄ます……」

「俺がいるから、怖がらなくていいよ。集中して、コレの声を聞いてみて」


 声?


 影蜘蛛が声を発するのだろうかと甚だ疑問だったが、リーディアは言われたとおり両手を出し、その上にかざしてみた。

 すぐ後ろにルイの温もりを感じるから、怖いとはまったく思わなかった。

 目を閉じて息を吐き出し、気持ちを落ち着ける。真っ暗になった視界で、聞こえてくるかもしれない影蜘蛛の声に耳をそばだてた。

 最初は判らなかった。それくらいその声は、小さくて微かなものだった。吹く風にまぎれてザザザと聞こえる葉擦れの音に似ている。

 それでも一心に耳を傾けていたら、それらが徐々に、意味のある言葉として聞こえてくるようになった。直接耳に聞こえるというよりは、頭の中に響いてくるような感じだ。

 どこか遠くでヒソヒソと話す人の声のよう──にしては、それは低くて、重くて、ひどくこもっていて、そしてずいぶんと苦しげなものだった。



 はっきり聞こえるのは、「どうして」という言葉。

 これが影蜘蛛の声だとしたら、彼の中にあるのは疑問、疑問、疑問、それだけだ。



 どうして、こんなことに。

 どうして、こんな姿で。

 どうして、こんな浅ましいモノになって、自分は。


 伝わってくるのは、一から十まで負の感情ばかりだった。いや……感情の残滓、成れの果て、とでもいったほうが正しいか。理屈もなく、意思のまとまりもない、苦悶と苦痛と悲しみの、成れの果て。

 呻くように、唸るように、慟哭するように。

 嫌だ、辛い、苦しい、悲しい、どうしてどうしてどうして──



「!」

 リーディアは弾かれたように自分の手を引っ込めた。

 強張った顔つきでルイのほうを振り向けば、彼は眉を下げた申し訳なさそうな表情になり、「ごめんね」と微笑んだ。


「だけど、リーディアには、そろそろ本当のことを知ってもらわないといけないから」

「ほ……本当のこと?」

 すっかり冷たくなってしまったリーディアの手を、自分の左手で包むようにして握り、ルイは影蜘蛛に視線を向けた。



「──迷い彷徨える魂よ、在るのはもはやこの地にあらず。道を示す、天へと還れ」



 ルイがそう言うと、影蜘蛛の身がふわりと浮き上がり、薄くなっていった。地下室での光景と同じだ。

 しかしリーディアには、消えゆく影蜘蛛がどこかほっとしているようにも見えた。

 あの声を聞いてしまったからだろうか。

 あるいは、影蜘蛛は好きでこの地にいるわけではなく、むしろあの姿でいるのが彼らにとっても不本意なことなのだと、理解できたからだろうか。


 そうだ──影蜘蛛は、人を苦しめることを喜びとする「魔物」などではない。



「あれは死んだ人の魂。命を失い、肉体が滅びてもなお残る恨み憎しみ苦しみの念が、消えることなくこの世にへばりつき、行き場所を見失って彷徨う『死霊』なんだ」

 ルイが淡々とした口調でそう言った。



          ***



 そもそもこの王城のある場所というのが、霊的な意味で何もかもいけなかったらしい。


「地形も方角も城の造りも周囲の環境も、ほとんどすべてが見事に悪いほうに向いている。むしろわざとこんなところに建てたのかと不思議に思うくらい、条件のことごとくが最悪なものばかりなんだ」


 ルイの話によると、稀にそういう、「悪いものを引きつけてしまう場所」というものがあるのだという。そういうところは自然と陰の気が溜まるため、陽の気や明るい光を厭うものが集まりやすい。

 ローザ・ラーザ王国は、よりにもよってそういうものを一気に引き寄せてしまう吹き溜まりのような地に、王城を築いてしまったのだ。


「死霊ってのは大体の場合、そう害のあるもんじゃない。ただ、ここまで悪い条件ばかりが重なると、力を増したり生きている人間に影響を及ぼすようになる。あんな風に蜘蛛のような形になって目に見えるなんてのは、よっぽどだよ。あそこまで育ってしまった死霊は、人の暗い心に付け込みがちだ。不安や疲労の積み重なったやつにとり憑いて気力を失くさせたり、逆に心の中の不満をさらに膨らませて凶暴にさせたり。ここの人たちは何もかも影蜘蛛のせいだと言うけど、それらはもともと、憑かれた人間の中にあったものなんだよ」


 決して魔物に操られているわけではない、とルイは断言した。


「数百年前、俺の先祖が、たまたまこの地に立ち寄ってさ」

「ご先祖さまが?」

「あまりにも酷い場所なんで、当時の国王に教えてやったんだって。城を捨てるか移すかしないと、いずれ大変なことになるぞ、って」


 とはいえ、そんなことを言われたところで、国王は素直に城を立ち退くことなど選べなかった。なにしろ王城はその時、ようやく完成したばかりだったのだ。築城には数年という年月と、莫大な人手も費用も注ぎ込んでいる。これをなかったことにはできない。

 そこでルイの先祖はしょうがなく、死霊をなるべく弾くための方策を助言してやった。決まった位置に壁を作り、地形を変えさせ、堀を埋める。それだけでも、完全ではないが多少は効果があると教えると、すでに様々な不調や怪異に悩んでいた王も、その案を受け入れた。

 そしてルイの先祖は、もしも今後、こちらの人々の手に負えぬような事態になった時には、これで自分を呼び出せと、奇妙な図形が描かれた本を王に手渡した。



 ──この方法で呼べば、求めに応じて我が一族の誰かがやって来よう。死霊祓いは我々の専門だ。ただその場合は、仕事に見合った報酬を頂くので、それを忘れるな。



「それが、古文書となって、この城に残っていたということですか?」

「そのようだね。どうやら年月とともに歪な伝わり方をしたようだけど」

「それでは、五十年前、影蜘蛛が急に数を増やしたというのは」

「その当時、ローザ・ラーザ王国は隣国と戦争をしていたんだってさ。理不尽な死を迎えた人の数が多ければ、当然彷徨える魂も多くなる。なのにどういう理由があったか知らないけど、そんな時に、ご先祖さまがわざわざ作らせた障壁を壊してしまったらしい」


 その時にはもはや、城内には、そこに壁が存在する意味も事情も知る人は一人もいなくなっていた。なぜこんな邪魔な場所にと考えた誰かがいたのかもしれないし、戦時での混乱もあったかもしれない。とにかく、死霊を防ぐための壁は呆気なく壊されてしまった。

 それで行き場を見失い迷っていた死霊が、一気にこの地に押し寄せたのだ。

 結果として影蜘蛛が大量に増え、困ってしまった王の家臣たちは、「もしもの時のために」と城の奥深くに残されていた古文書を引っ張り出した。


「そうして呼ばれて、ここに来たのが俺のじいさま。じいさまは依頼に応じて、城内の死霊をすべて祓った。それが俺たち祓い屋一族の仕事だからね」

「祓い……屋?」


 リーディアはぽかんとして目を大きく見開いた。ルイはそれをちらっと見てから、話を続けた。


「俺の一族は滅多に女が生まれず、伴侶とすべき相手が常に不足している。それで余所から妻を娶らなきゃいけない。異界を渡り歩く俺たちは、あちこちの世界の別の種族から嫁を貰い受けるから、生まれる子どもの姿も様々なものになる。だけど別に構わないんだ。祓い屋としての血と能力を受け継ぎ、一族を存続していくことが、なにより重要だからね」


 血と能力を受け継ぎ、一族を存続。

 ……伴侶?


「で、では、五十年前、ルイさまのお祖父さまがお求めになられたのは……」

 リーディアの口から出る声は震えている。聞いてはだめ、ともう一人の自分が強く警鐘を鳴らしていた。


 聞きたくない、知りたくないの。

 今までどおり、何も考えず、無知なまま、生贄としての自分でいたいのに。


 しかしルイはリーディアがそうすることを許してはくれなかった。握る手に力を込め、顔を覗き込み、逃がすまいと正面から目を合わせてくる。強い視線は、まるでこちらを射貫くようだ。


「仕事を請け負い、それをやり遂げたじいさまは、報酬として、自分の妻となる女性が欲しい、とはっきり告げた。呼び出したのは他の誰かでも、影蜘蛛を消して欲しいと最終的に頼んできたのはローザ・ラーザ国王だ。だから依頼主の娘と婚姻を結べないかと持ち掛けた。だけど娘はもう人の妻だったから、じいさまは彼女を貰うのを諦めたんだよ」


 ルイの祖父は、ならば他のものを報酬にと言おうとしたのに、彼の異形の姿にすっかり怯えた国王は、これは魔物だ、断れば何をされるか判らないと思い込んだ。娘以外でと頼むことなど、頭を掠りもしない。真っ青になって、自分の娘は無理だから、いずれ生まれるであろうその娘、それが駄目ならさらにその娘でと懇願した。

 子や孫の代でも嫁探しには苦労するだろうことが予測できていたルイの祖父はそれを了承し、では五十年後に──ということで、交渉がまとまった。



「生贄なんて、誰も求めていなかった」

 ルイがまっすぐこちらを見据えて、きっぱりと言う。リーディアの震えは全身に廻った。



「影蜘蛛が魔物ではないように、俺の一族も魔物なんかじゃない。君を食べものとして見たことは一度もないし、これからもない。俺は本当に、君を自分の伴侶として貰い受けるため、ここに来たんだよ」

「だめ……!」


 気づいたら、悲鳴のような声を上げて遮っていた。

 動揺と混乱で、顔から血の気が抜ける。下の床が、泥地に変わっていくような感じがした。沈む、沈む、もう立ち上がれない。


 そんなことを理解してしまったら。


「リーディア、聞いて」

「だめ、だめです。ルイさまは、わたくしを食べてくださらないと」

「俺は人を食べない。ずっとそう言っていたはずだ。リーディアだって、そろそろ自分の強引すぎる解釈に破綻が生じはじめていることには、気づいていただろう?」

「こ、困ります」

「ごめんね。でもリーディアにいなくなられたら、俺も困るんだ」

「だって、ルイさまに食べてもらうために、わたくしはここにいるのですもの」

「だったらそれ以外に、君がここにいる理由と目的を見つければいい」

「無理です」

「無理じゃないよ、もちろん。リーディアも、本当は判ってるんだろ? 会った時からおかしなことばかり言っていたけど、君の瞳にはちゃんと理性の光が灯ってた。無理やり自分の目を背けるのは、もうやめてもいい頃だ」

「だっ……だって……」

 最近ようやく健康的になってきた頬を再び白くして、幼子のように何度も首を横に振った。



「だって、わたくしは、死ぬためにここにいるのに……!」

 悲痛な声でそう言うと同時に、リーディアの瞳から、ぽとりと大粒の涙が零れ落ちた。



 リーディアは生まれた時からずっと、そのためだけに生きてきた。「約束の日」を迎え、生贄として自分を捧げること、それだけを考えて、いやそれ以外を考えることは許されていなかった。

 たった一人この離れの中に閉じ込められ、外に出ることもできず、何かをなすこともさせてもらえずに。そんな生に一体なんの意味があろうか。リーディアはずっと、自分が死ぬことだけを夢見て生きてきたのだ。



 自ら生命を断つのは、生贄として育てられた自分自身のすべてを否定することになる。

 だから、「食べられる」という目的に縋りつき、固執した。

 早く自分を死なせて欲しい、この意味のない生から解放して欲しいという本音に、精一杯蓋をして。



「リーディアはもう自由だ。これからいくらでも、外の世界に出ていける」


 自由? 自由ってなんだ。リーディアは知らない。どうすればいいのかも判らない。誰もそんなもの、リーディアには見せてくれなかったし、教えてもくれなかった。

 死ぬことこそがリーディアが手に取ることのできる唯一のもので、それが自分にとっての幸福だと言われたから──リーディアに与えられたのはただそのひとつだけだったから、それを信じるしかなかった。


 リーディアには他に何もなかった。


 何人もいた世話係のうち名前を知る人は一人もいない。リーディアに少しでも同情的な素振りを見せた人間は、容赦なくすぐに別の誰かと入れ替えられた。万が一にも逃亡の手助けをするようなことがあってはならないと。


 情をかけても、かけられてもいけない。誰とも関わってはいけない。

 リーディアは、必ず死ななければならない存在だから。


 生贄として生を繋ぐこと。「約束の日」まで生きること。ただそれのみがリーディアにとっての存在意義だ。だから望むのはその日を迎えることだけだった。

 自分が死ぬこと、それだけだったのだ。


「──こ、怖い……怖いんです」

 ぽとぽとと涙を落としながら、小さく声を絞り出す。

「何が? 外に出ることが? 自由になることが?」

 ルイに問われて、首を横に振った。



「……希望を、持つことが」



 何かを期待することが。外の世界をもっと知りたいと思うようになることが。死ななくてもいいのかもしれないと考えることが。生に未練を持つことが。


 ほんのわずかでも希望を持って、それが打ち砕かれてしまうことを考えるのが、なにより怖かった。


 誰からも愛されず、誰かを愛することも叶わない。でもリーディアはやっぱり人間だった。何も感じない人形になることはできなかった。外から聞こえてくる声を耳にして、何も思わずにいることなんて、どうやっても無理だった。

 木々の向こう側にあるはずの、自分とはかけ離れた世界に住む人たちに与えられた「幸福」を、想像せずにいられなかった。

 泣き、笑い、互いの名前を呼ぶというのは、一体何を自分にもたらしてくれるのだろうかと。

 でも、ルイがやって来て、それがどういうものか判ってきて、かえって不安になった。



 新しく得た温もり。目覚めた感情。

 もしもこれが失くなったら、どうすればいい?

 喜びを知ると同時に怖くなり、誰かと触れ合う心地よさに慄いた。

 本当にルイに食べられて生を終えたら幸せなのではないかと思い、ふとした時に湧き上がるそれ以外の願いを強引に押し潰した。

 ……おそらく、リーディアのその暗い心が、影蜘蛛を引き寄せた。


 ルイはリーディアの両肩に手を置き、顔を上げさせた。こちらに向けられる眼差しが突き刺さり、痛いほどだった。

「リーディア。リーディアは今、アレの声を聞いただろう? どう思った?」

「か──可哀想、だと」


 苦しそうで、悲しそうで、もはや肉体もないのにこの世にあり続けて、声なき声で疑問を発し続けることしかできない、なんの救いもない哀れな亡者の魂。


「リーディアもああなりたいと思う?」

 その問いには、勢いよく首を横に振った。何かを強く拒絶したことのないリーディアだが、それだけは嫌だと思った。

 死してもなお、何もないなんて。

「じゃあ、どうしたいのか言って。正直に、素直に、今のリーディアが、心の底から望むことを」

 ルイの真剣な声に、とうとう我慢がならなくなった。

「い──」

 リーディアの目からどっと涙が溢れ出る。



「い……生きたい、です……!」

 迸る感情のまま、叫ぶように言葉が出た。



「死にたくない! 生きて、ルイさまともっと一緒にいたい! もっともっと、外の世界を見てみたい!」


 その瞬間、ルイの腕が伸びてきてぐっと引き寄せられた。

 そのまま強く抱きしめられる。


 うん、と優しい声が耳元で囁かれ、柔らかな感触が頬に落ちた。


「──それが、聞きたかった」






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