5
その日から、リーディアはできる限り、「自分で自分の面倒を見る」ことを実行しなければならなくなった。
洗面や着替えはもちろん、ベッドメイキング、部屋の掃除、使った食器の片づけ、簡単な洗濯、その他にも細々とした、けれど快適に生活していく上で必要不可欠なこと。
今までのリーディアは日々の入浴を欠かさなかったが、薪で火を焚いて水を沸かすのはルイがやってくれたものの、身体を洗ったり拭いたりするのは断固として手伝ってくれなかったので、これも自分一人でやることになった。
慣れない労働は戸惑うことのほうが多い。物を運んだり持ち上げたりする時は、今まで使うことのなかった力が要るし、どうすれば効率的にできるか頭も使う。ルイは辛抱強く一から教えてくれるが、上手にやれないことも、失敗も、たくさんあった。
考えて、動いて、挑戦して。
そうしていると、以前は長くてたまらなかった一日が、あっという間に過ぎていく。
本を開いている暇もなくなった。
***
世話係と兵はあれっきり姿を見せないが、朝になると離れの建物の玄関前に肉や野菜などの食材が置かれるようになったので、完全に放置されているわけでもないらしい。
ルイによると、それらはどれも高級品か上質なものばかりということで、関わりたくはないが粗略にもできない、という複雑な心情が窺える。
国王はこの状態を知らないのか、それとも知っていて黙認しているのか不明だが、とりあえず今のところあちらからの連絡や干渉は一切なかった。
世間のことを知らないリーディアだから、それが何を意味しているのかは判らない。ルイはまったく気にしていないようなので、いいのだろうと思うことにした。
しかしとにかく提供されるのは材料だけであるから、魚をそのまま丸呑みする自信のないリーディアは、そちらも自分でなんとかせねばならない。だが料理はさすがにまだ難しいだろうということで、ほとんどすべての工程はルイが引き受けてくれた。
「とはいえ、パンは焼いたものが運ばれてくるし、肉は獣一頭とかじゃなくすでに捌いてあるしね、あとは煮たり焼いたりすればいいだけだから、楽なもんさ」
「ルイさまは、お肉は焼いたほうがお好みなのでしょうか」
「そうだね、血が滴るようなのよりは、こんがり焼いたほうが好きかな。種類によっては、よく火を通さないと害になるものもあるし」
「まあ……それは知識不足でした。わたくしてっきり、ルイさまは生肉を召し上がるのだとばかり。ではその際には、じっくり熱を入れてからお出しできるよう、考えないといけませんね。一人分丸焼きとなりますと、そこまで大きな石釜があるかどうか……」
「うん、いつものことだけど、話が通じてるようで通じてないね」
お喋りしている間にも、ルイの手はさくさく動いて食材が調理されていく。
白く硬い殻に覆われた卵や、ぶよぶよした赤い塊の肉や、図鑑に載っていたのと同じ形をした魚や、まだ土がついているような色とりどりの野菜が、割られ切られ形を変え味をまとい、まったく別のものに仕上がっていくのを見届けるのは、毎度のごとくリーディアにとって大変な衝撃だ。
今までは、テーブルの上に出されるものを、何も考えず口に入れるだけだった。味についても特に感想を抱いたことがない。リーディアにとって、毎日の食事もまた、単なる生命維持活動の一環でしかなかったからだ。
でもそれはきっと、よくないことだったのだろう。料理という労力を誰かが割いている以上、せめてそれに対して何かを思うくらいは、するべきだった。
動物も魚もこうして食材になる前は生きていて、ひとつの命であったのだから、リーディアはきちんとそれを理解した上で、咀嚼し飲み込まねばならなかったのだ。
ルイがリーディアを食べる時は、一瞬でもいいから何かが彼の頭を過ぎるといいなと思う。
何か。なんでもいいから、リーディアのことを。
そうでなければ……
「リーディア、厨房でぼんやりしない。火も使うんだから、危ないよ。そこの塩取って」
「あ、はい!」
ルイに注意されて、はっと我に返った。
いけない。今は料理の途中なのだった。包丁は危なっかしくて持たせられないと言われたリーディアだが、一日に三度ルイにくっついて見学していれば、多少はお手伝いできることもある。
「ルイさま、次に使うお鍋をこちらに出しておきますね」
「はい、いい子。リーディアは覚えが早いし勘もいいから、助かるよ」
「わたくしはもう十七歳なので、『いい子』ではありません」
「だったらリーディアは、どんな誉め言葉がいちばん嬉しいの?」
「そうですね、『美味しそう』でしょうか」
「俺の常識じゃ、女の子に向かって『君、美味しそうだね』なんて口説き文句を吐くやつは真正のドクズなんだけどな。……よし、一品終了」
器用なルイは、料理においても大体のことができる。
本人曰く「難しい料理は無理」とのことだが、包丁でするすると野菜の皮を剥いたり、卵を割ってほぐしてフライパンでくるっと引っくり返し黄金色のふわふわオムレツを作り上げたり、魚のお腹を開いて骨を取り除いたりする作業なんて、どれも目が釘付けになってしまうくらい見事なものばかりだった。
「俺の一族は『独立独歩』を信条としているからね。仕事ができるようになればもう一人前と見なされて、なんでも自分でしなきゃいけなくなる。働かざる者食うべからず。自分の食い扶持は自分で稼ぐのが基本。他者とは常に対等であれ。誰かから何かを得るなら自分の何かを差し出し、何かを出したからには引き換えに対価を得なければならない。仕事には誇りを持ち、労働に見合った分の報酬は必ず頂く。たとえ何年経とうとも」
「はい……」
リーディアは神妙にして、深く頷いた。
それで五十年前、ルイの祖父は影蜘蛛を一掃した正当な報酬として、ローザ・ラーザの王女を要求した、ということだ。「城内の影蜘蛛すべて」に対して「一国の王女の肉体」というのが魔物計算での適正価格なのだろう。
だがそれが適わなかったため、支払いが先へと延ばされた。上位魔物は決して盟約を忘れず、破らない。五十年分の利子をつけないだけ誠実だとも言える。
ルイはそれを祖父の代わりに受け取りに来たということか……と考えて、あら? とリーディアは首を捻った。
「あの、ルイさま」
「ん?」
「五十年前、この国においでになったお祖父さまは、今もご存命なのでしょうか」
「うん、うちは一族みんなけっこう長生きだからね。七十を越えた今でも元気だよ。さすがに一線は退いたけど」
「でしたらもしかして、わたくしはルイさまではなく、お祖父さまに捧げられるということに……」
だとしたら、ルイが頑なに自分を食べないのも納得できる。
ルイはただ単に、リーディアを受け取るため出向いてきただけで、持ち帰って祖父に渡すのを役目としていたのでは……?
「いやいや、なに言ってんの」
ルイはぎょっとしたように、包丁を持つ手を止めてリーディアのほうを向いた。
「じいさまはもうトシだから、今さら若い女なんて求めてないよ」
なるほど。魔物でも年を取ると歯や顎の力が弱り、若い女性の肉は噛み切れなくなったりするのだろう。
「それに、この国での仕事を終えてから、ちゃんと相手を見つけたからね。言ったろ? うちの一族は一途だって。もう死んじゃったけど、じいさまにとっての嫁はその一人だけだよ」
「そうですか……」
その言葉に、リーディアはほっとした。
本当に、心からほっとした。
なぜここまで安心しているのか不思議なくらい、よかったと思った。
どうしてだろう。ルイでもその祖父でも、魔物に食べられるという結果は同じのはずなのに。いやむしろ、五十年前に契約を交わした魔物当人に捧げられるのなら、そのほうが生贄としてはより正道であるとも言えるのに。
──もう死んじゃったけど、じいさまにとっての嫁はその一人だけ。
リーディアはルイの言葉を噛みしめるように心の中で復唱して、胸のところに持っていった手を拳にして握った。
……自分を食べた後、ルイは彼の祖父と同じように思ってくれるだろうか。
人間の捕食対象はただ一人。リーディアが死んで彼の血肉となっても、それ以降他の誰も食べないでいてくれるのだろうか。
どうしよう。ふわふわどころか、ドキドキしてきた。
「……ん? リーディア、顔が赤いけどどうかした? さっきからぼうっとしてるし、あまりにも一度にたくさんのことをやりすぎて、熱でも出たかな。大丈夫?」
「は……はい、もしかしたら、そうなのかも」
「だったら横になって休んでおいで。手伝いはもういいから」
「はい……」
素直に従って、リーディアはふらふらと厨房を出て、寝室に向かった。
本当に自分はどこか悪いのかもしれない。
だってこんなにも頬が火照って、心臓が大暴れして、胸が締めつけられるように痛くて、まともにルイの顔を見ることもできないのだから。
***
「なんだと?」
ローザ・ラーザ国王は、その報告を聞いて我が耳を疑った。
「あの魔物は、まだリーディアを喰っておらんだと?」
王の前には、細身で目つきの鋭い一人の男が跪いている。間諜の役目を担うこともあるその男は、気配を殺すのが抜群に上手く、姿を隠し情報収集をすることに最も長けた人物だった。
そのため、ひそかに離れの様子を偵察してくるよう、数日前から密命を下していたのだ。果たしてあれからどうなっているのかと。
男は「は」と頭を下げ、さらに言葉を続けた。
「魔物と生贄姫はあの建物の中で、普通に生活しているようで」
「ふ、普通に生活?」
「朝起きて夜眠り、食事も日に三度きっちりと、それはもう規則正しい毎日を」
「なんだと?」
「生贄姫は誰の手も借りず一人で着替えをし、入浴し、掃除までしている様子。厨房に立つ際は必ず二人で、魔物の指図によって生贄姫が不慣れながら野菜を洗ったり食器の用意をしているようです」
「厨房で料理しておるのか? 魔物が? 普通に、煮たり焼いたりして?」
「はい、ごく普通に。魔物が口にしているのは、今のところ生贄姫とまったく同じもの、つまり我々の通常の食事となんら変わりません。離れに運ぶ食材は、なるべく魔物が好みそうな、新鮮で大きな生肉の塊などを選んでいるのですが、あちらではわざわざそれを小さく切って加工しているようで」
王は茫然とした。
なんだそれは。耳で聞くだけなら、あの恐ろしい魔物がまるで人間のように思えてくるではないか。
世話役と兵が離れから引き揚げてから、そろそろ七日が経つ。
暴れるでも、こちらに襲いかかってくるでもなく、不気味な静けさを保っている魔物のことが気になって、おそるおそる偵察に向かわせてみれば、報告されるのは想像の埒外のことばかりだ。
あまりにも何も起こらないから、てっきり生贄を食べて満足し、もう魔物の国に帰ったのではないかと期待したのだが、まさかそんなことになっているとは。しかもどうやら、すっかりこちらに馴染んでいる様子だ。
「生贄姫と魔物は、一日に一度は外に出て、周囲の散策を楽しんでおります。その際は毎回二人でしっかり手を繋ぎ、身を寄せ合って、会話をしたり笑ったりと、それはもう仲睦まじく、まるで新婚の夫婦のようで……」
「は?!」
王は驚愕して大声を上げた。あまりのことに、玉座からも飛び上がる。
「なんだと?! そ、外に出ているだと?! 生贄姫どころか、あの魔物も?!」
「はい」
「世話係と兵が離れを出る際、間違いなく外から錠をかけたと申していたぞ! 頑丈な閂も下ろして、虫一匹あそこからは出てこられんように!」
「錠も閂も完膚なきまでに壊されておりました」
「壊されていた?! あの魔物の仕業か!」
「他に該当する者がおりません。魔物が腹を空かせて凶暴になったら困る、という理由で陛下に食材を持っていくよう命令された者も、はじめは嫌々ながらその時だけ錠を開けて中に放り込んでおこうとしたそうですが、それが壊れていたので、青くなって扉の前に放り投げるようにして逃げ帰ってきたと」
「そんなこと今はじめて聞いたぞ!」
「お訊ねにならなかったからでは?」
男に突っ込まれて、赤い顔で怒っていた王は二の句が継げない。離れに食い物を運んでおけ、と命じたのは自分だが、確かにそれについての報告は求めなかった。
聞きたくなかったし、知りたくなかったからである。できるだけ、あの魔物のことは考えたくもなかった。魔物を追い出すための有効な対策も解決方法も思いつかない以上、目を閉じ耳を塞いで、忘れたふりをしているしかなかったのだ。
そうでなければ、怖くて怖くて、おちおち寝てもいられない。
なのに、錠はもはや意味をなさず、魔物は好きに外をうろついているという。それでは、いつあの姿が目の前に現れるか判ったものではない、ということではないか。離れの中に押し込めてあるだけでも不安でたまらなかったのに。
王妃は幼い王子王女を連れて実家に帰ってしまった。第一王女は夫の領地に向かい、喧嘩をしていた第三王女もそれにくっついていった。城を離れるわけにはいかない王太子と宰相からは、早く事態の対処をするようにと連日の矢の催促。聖職者に至っては、「王女を贄に差し出した罪の報い、裁きの時を待ちましょう」とすっかり諦めの境地に至っている。
冗談ではない。それもこれも悪いのはすべて祖父王である。五十年前の罪を、なぜ今になって自分たちが贖わねばならない?
もしも何かあれば、兵は王である自分をちゃんと守ってくれるだろうか。魔物に剣や槍などの攻撃が効かないのは、影蜘蛛の例を見ても明らかだ。だったら、さらに上位の魔物を喚びだして喰ってもらうか? いやいや、まさか!
もしも自分まで食べられてしまったら──そう思うとゾッとして、背中が寒くなった。いても立ってもいられない気分で、玉座で身を縮めブルブルと震え上がる。
「一体あの魔物は、どういうつもりなのだ……」
国王は頭を抱えた。
こちらは契約通り、ちゃんと生贄を捧げたではないか。
なぜさっさと食べるなり持ち帰るなりしないのだ。どういう理由でこの城の敷地内に留まっているのだ。生贄姫と仲睦まじいだと? まさか魔物と人間の娘が情を交わしたとでもいうのだろうか。
まるで新婚の夫婦のようだって?
王はこれまでの所業を思い返して、血の気が引いた。
生まれたばかりの王女を離れに閉じ込め、贄として育てさせたのは間違いなく自分たちである。世話をする者がいなければすぐに死んでしまうくらい、一人では何もできないような状態で、十七年もの間、軟禁し続けた。
実の父親である王でさえ、地下室でのあれが初対面だった。憐憫はあったが、ずいぶん美しい娘に育っていて、これなら魔物も満足するだろうと安心もした。血は繋がっていても、関わりがなければ、それ以上の感慨など抱きようがない。
王にとって第二王女であるはずのリーディアとは、そういう存在でしかなかった。
しかし、あちらにしてみれば、どうだろう?
地下室に来た時のあの娘の態度に、怯えは見えなかった。そのように教育させたのだから当然だと思っていたが、実際のところはどうなのか判らない。いや、自分がこれから魔物の餌にされるという時に、真実なんとも思っていないなんてこと、本当にあるのだろうか。
あの娘は心の中では、自分をこんな境遇に追いやった者たちを恨んでいたのかもしれない。
国王である自分に、その他の王族に、このローザ・ラーザ王国に、そして民のすべてに対して、怒りと憎しみを募らせていたのかもしれない。
考えてみれば、当たり前の話だ。死ぬために生まれたなんて事実をあっさり受け入れられたら、そちらのほうがおかしいのだ。人間である以上、思考することを他者が禁じることはできず、感情が湧くことを止めさせることもできない。
もしも、リーディアが長年にわたって溜め込んできたその恨みつらみを、魔物に訴えたらどうなる。
復讐として、王族を皆殺しにし、ローザ・ラーザ王国を滅ぼしてくれと頼んだら。
そして、リーディアと情を交わした魔物が、それを了承したら?
国王は「ひっ……」と小さく悲鳴を上げた。
ものすごくあり得る。いや、自分がその立場だったら、迷うことなくそうする。
人間は皆、自分が可愛いものだ。
死にたくないと願うのも、生物としての本能だ。
自分を守るために他の者を攻撃するのも、普通のことだ。
国王にも民や家族を想う気持ちはあるが、もちろん自分自身だって可愛い。
死にたくない。
もしも他国に攻撃されれば、ありったけの武力を投入して戦う。
国と民と自分を守るために。
こんなことなら、いっそリーディアに教育すら施さず、動物のように育てさせればよかったのだろうか。いや、それはそれで、王女を要求した魔物が怒りだした可能性がある。いやいやしかし。
「あああああ、どうしたら、どうしたらいいのか……!」
国王は、混乱と動揺と焦慮で、ガクガクと身体を小刻みに揺らし、髪を掻きむしって呻いた。
その姿を呆れたように見ていた偵察役の男がぼそりと呟いた、
「……ていうか、あれ、ほんとに魔物なんですかね……」
という小さな声は、王の耳を完全に素通りしていった。