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ルイが作ってくれた食事をすべて胃に収めてから、リーディアは思った以上にたっぷりと寝込んでしまったらしい。
次に目を覚ました時にはもう明け方で、室内はまだ暗いが、窓の外は空が白みかけていた。
建物の中はしんと静まり返っている。ルイの姿は見えないから、空いている部屋で睡眠をとっているのだろうか。どうやって寝ているのだろう。あれからベッドは運ばれたのだろうか。いやそもそも魔物というのはきちんと夜間に眠るものなのか?
そんなことをつらつらと考えているうちに、どんどん時間ばかりが経過して、外もすっかり明るくなってきた。
しかし一向に、部屋の外から声がかからない。
リーディアはベッドの上で途方に暮れた。
いつもなら、決まった時刻になると、世話係が「お目覚めですか」と声をかけて部屋に入り、着替えから洗面から身支度まで、すべてをてきぱきと采配してくれるのだ。リーディアは彼女らに言われるがまま、腕を上げたり目を閉じたりじっとしたりするだけで、それを終えたら食堂まで足を運んで食事をとる。その際、料理を出すのも下げるのもお茶を淹れるのも、すべて世話係がしてくれていたので、リーディアがすることといえばフォークとナイフを動かすことくらいだった。
つまり、誰も部屋に来ないと、何もできることがないリーディアは、ベッドから動くこともままならない。
どうしよう、と困っていたら、コンコンと寝室の扉がノックされた。ほっとして、「はい」と返事をする。
「リーディア、起きたかい?」
かけられた声は、世話係のものではなかった。
「ルイさま? はい、起きております」
少々特殊な育ち方をし、ずっと何から何まで他人に面倒を見てもらっていたリーディアは、異性に寝起き姿を見られるのが恥ずかしいだとか、せめて身なりを整えようだとか、そういう発想とは縁がない。了解を得たつもりで扉を開けたルイのほうが、ベッドに身を起こしたままぼーっとしているリーディアを見て、ちょっと驚く顔をした。
「まだ気分が悪い?」
そう問われて、リーディアは首を横に振る。水分と食事、そして睡眠も十分にとったためか、体調はすっかり良くなっていた。頭を動かしても、もう目が廻ることもない。
「大丈夫なようなら、起きる? お腹も空いただろ?」
「はい、わたくしも起きたいのですが」
「が?」
「世話係が誰も来ないのです」
首を傾げてそう告げると、少しぽかんとした後で、ルイが噴き出した。
「ああ、そういう……そうか、いろいろと問題があるとはいえ、リーディアがお姫さま育ちであることに変わりはないもんな。お世話する人間がいないと、ベッドから起きることもできないんだ」
皮肉というよりは感心したようにそう言って、部屋に入ってきたルイがベッドまで近づいてくる。
枕元までやって来ると、上体を屈めてリーディアと目を合わせ、口元に笑みを浮かべた。
「あのね、リーディア」
「はい」
「世話係は、いなくなっちゃったんだ」
「いなくなっちゃった?」
繰り返して、リーディアはぱちぱちと目を瞬いた。意味がよく判らない。
ルイは姿勢をまっすぐにして、大げさに肩を竦めた。
「そ。君の世話係は全員、仕事を放棄したか、あるいは揃って辞職でも願い出たらしい。この離れにはもう、俺とリーディアしかいない。とはいえ、厨房の食糧はたっぷりと補充してあったし、君を飢えさせようという気はないようだ。自分たちは関わりたくないから勝手にやってくれ、って感じかな」
「まあ……」
リーディアは目を丸くした。
未だ食べられていないとはいえ、「約束の日」を越えたのだから、もうリーディアには生贄としての価値はなくなった、ということなのだろうか。贄となるべく生まれ育てられたからにはきっちりと食べものとしての役割を全うせねばならなかったのに、それが叶わなかったために見限られてしまったと。
この上ルイに見向きもされなくなったら、それこそリーディアがここに存在している意味がなくなる。それは困る。とても困る。
「ルイさま」
「ん?」
「わたくしの賞味期限はいつ頃までなのでしょうか」
「賞味期限?」
「できるだけ新鮮なうちに召し上がっていただきたかったのですが、こうなったら、わたくしが腐ってしまう前に一刻も早く」
「いや腐らないし。女の子に対して賞味期限が云々だなんて言う男は、最低のろくでなしだよ」
ルイはきっぱり言い切ってから、はあーと大きなため息をついた。
「……ま、その歪んだ価値観はおいおい矯正していくか……とにかくね、リーディア」
「はい」
「世話係がいなくなった今、君は自分で自分の面倒を見なきゃいけないってこと。とりあえずはベッドから降りて着替えようか。そういえば昨日のドレスのままだったね。着脱は一人でできそう?」
「あ、はい……たぶん」
リーディアは自信なげに眉を垂らして頷いた。
正直一度もやったことはないが、この純白のドレスはそもそも死装束だから極めてシンプルで飾りもないし、このまま食べても問題がないよう嵩もない。脱ぐのは一人でもできるはずだ。そして普段離れの中で着ているものも、同じように素朴なつくりの服ばかりである。外には出て行かないのだし、世話係以外と顔を合わせることもないのだから、華美にしたり凝った意匠を施す必要がなかったのが幸いした。
「そういえば、髪は食べる時に邪魔だから切ろうか、なんて言うわりに、服は邪魔だから脱ごうか、とはならないんだ」
にやりと唇の端を上げたルイに言われて、リーディアは目を見開いた。「なんてこと」というように自分の口に両手を当てる。
「まあっ、そうでしたね……! わたくしったら、考えが至りませんで……」
「ごめんなさい冗談です! 恥じらう姿を期待した俺が馬鹿でした! 待って、今はまだ服に手をかけないで! 俺が部屋を出てからにして! じゃあ、ちゃんと着替えてね! くれぐれも脱いだ状態で出てきたらダメだよ!」
慌てて止めてから、ルイは部屋から飛び出していった。
自分で着替えて、自分で顔を洗う。手を出す前は少しまごついたが、やってみれば案外スムーズにこなすことができた。できてしまえば、この程度のこと、他の誰かの手を借りるほどでもないと判る。今までそんなこと自体なんの疑問も抱かなかったリーディアのほうに、おそらく問題があるのだろう。
髪の毛を梳かしつけるのは、頼んだわけでもないのにルイが率先してやってくれた。
鏡台の前にリーディアを座らせて、鼻歌を歌いながら櫛を手にしている。鏡に映る彼の顔は非常に機嫌がよさそうだ。
「ほんと、リーディアの髪は綺麗だよねえ。銀色がキラキラしてるし」
「綺麗、ですか」
「そうだよ。艶があってサラサラでさ。性格そのまま素直でまっすぐだし。俺の理想を形にしたみたいだ。あ、そうだ、サイドを編んで後ろにまとめてみようか。きっと似合って可愛いよ」
「可愛い……」
繰り返して、リーディアは首を捻る。
綺麗だとか、可愛いだとか、単語の意味は知っているものの、理解ができない。リーディアは自分の外見について、食材としてどうか、という基準でしか考えたことがなかった。
こちらの当惑には構わずに、ルイは櫛を操ってするすると髪を編みはじめた。彼は手先がとても器用だ。素早く髪を分けたり組んだりする長い指の動きに見惚れそうになる。リーディアには到底真似できそうにない。
「俺さあ、こういうのが夢だったんだよねえ」
ルイが笑みをたたえてぽつりと言った。
「夢?」
「ほら、女の人って、気を許した相手じゃないと髪になんて触れさせてくれないでしょ? だから俺、お嫁さんが安心して自分の頭を預けられるような男になりたいと思っていてさ」
「はあ……」
自分の頭ならいくらでも触れても齧っても構わないが、ルイはよほど「生贄」という言葉を使いたくないのだな、とリーディアは思った。だったら自分もこれからは、「あなたへの生贄」ではなく「あなたのお嫁さん」と言い換えたほうがいいのだろうか。……う、うん? 何か、変な気がするのだけど。
「あっ、でも、他にもいろいろ夢はあるよ。親父に、嫁を貰ったらまず何をしたいかって聞かれたことがあって、その時にも答えたんだけど」
「お父上さまに?」
上位魔物の父……を想像してみようとしたが、まったく上手くいかなかった。
「一緒に出かけたり、手を繋いだり、抱っこしたり、膝枕をしてもらったり、『ルイルイ』って呼んでもらったり」
ルイルイ……?
「それでお父上さまは、なんと」
「何も。無言で、痛々しいものを見る目をされた。だけど、夢を見るのは勝手だと思わない? 甘えたり甘やかしたりしたいでしょ、そりゃ」
「夢……」
リーディアは小さな声で呟いた。
夢というものを語る時のルイの顔は、非常に穏やかだ。
自分の望みはルイに食べられること。それが自分にとっての「幸福」。
だけれどそれはきっと、ルイの言う「夢」とはまったく別のものなのだろう。
そんな気がする。
ルイが目を細めて、リーディアの頭をふわりと撫でる。
「慌てなくてもいいよ。ゆっくり考えて、ゆっくり決めていけばいいんだ。夢を抱くことに期限もなけりゃ、取っておいたところで腐りもしない。……よし、できた!」
最後に明るい声でそう言って、ルイは手の中の櫛をくるりと廻した。
サイドを編み込み後ろでまとめた分、顔の輪郭が露わになってすっきりとした見た目になったリーディアを鏡越しに眺め、満足げにうんうんと頷く。
「俺の腕、悪くないでしょ? どう? 思ったとおり、この髪型もすごく可愛い!」
リーディアは鏡の中の自分を見て、それからその上にあるルイの顔を見た。
「──はい、そうですね」
微笑んで、自分もゆっくりと頷いた。
可愛いというのは判らないが、ルイがにこにこしているのだから、きっとこれがいちばん良いのだろう。
胸がまた、ふわふわする。
***
朝食はルイが作ってくれた。簡単なものだよと本人は言うが、もともとリーディアは少食なので、量を必要としない。パンとスープを食べたら、それでもうお腹がいっぱいになってしまった。
ちなみにルイも食べた。それはもう、もりもり食べた。誰かと食事を共にしたことがないリーディアには信じられないくらい、たくさん食べた。そんなに空腹なら、なぜリーディアを食べてくれないのか、不思議でしょうがない。
「デザートに、わたくしの目玉などいかがでしょう」
「ケーキをいかがでしょう、みたいな口調で言わない。リーディアはもう食べないの?」
「十分にいただきました」
「少な……ははあ、運動をしないから腹が減らないんだな」
顎を手で撫でながらルイにそう言われたが、その意見には承服できない。ちゃんと身体は動かしている、とリーディアは反論した。
食事も運動も、生命を維持していくためには必要不可欠だ。美味しく食べてもらうため、リーディアには最低限、健康を保つ義務がある。一日の大半を読書に費やしていることは否定しないが。
「大事なのは、たくさん陽に当たることだよ。リーディアは真っ白だし、頬もあまり健康的な色とは言えない。今日はいい天気だし、後片づけをしたら、外に出て散歩をしよう」
「えっ?」
至ってあっさりとした調子で言われて、リーディアは声を上げた。今日は朝から驚くことばかりだ。
「でもわたくしは、外に出ることを禁じられています」
「誰にかな」
「えっ……と、それはやっぱり、こ、国王陛下、でしょうか?」
ルイに冷静に訊ねられて、答えに詰まった。誰の命令によってそうされているかなど、一度も考えたことがない。生まれた時からそのように決まっていて、それが当然だったからだ。
「誰が決めたにしろ、外に出たらいけなかったのは、『約束の日』まで。そうだろ? だから昨日、リーディアはここを出て、あの地下室へと向かった。それ以降のことは、くだらない命令の管轄外だ。君はもう檻の中にい続ける必要はない」
「で、でも、扉には外から錠が下りて」
「すべて外したよ」
「えっ、でも、警備兵に止められて」
「連中も全員撤退した。さっきも言ったけど、この離れにいるのは、正真正銘俺と君だけだ。出入りは自由、何をしようがどこへ行こうが自由。兵たちは今頃、別のところで見張りでもしているんじゃないの。……警備に囲まれて、箱の中に閉じこもり、怯えて外に一歩も出られないのは、今度はあちらのほうさ」
後半の台詞は、低く抑えられた声で呟かれた。ルイが浮かべている笑いは、リーディアに向けられる陽気なものではなく、どこか冷ややかに醒めたものだ。
「……でも」
リーディアが逡巡して目を伏せると、ルイは片眉を上げた。
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、真面目な表情でリーディアに向かって手を差し伸べる。
「──うん、決めた。片づけは後回しにして、先に散歩をしよう。さあ、行くよ、リーディア」
昨日地下室で王にそうした時のように、否を許さない言い方だった。リーディアはしばしためらってから、差し出されたルイの手を取った。
***
扉の錠は、外されているというより、完全に破壊されていた。厳重に下りていたのであろう閂も、見事にぼっきりと真っ二つに折られている。誰がやったのか、リーディアは考えないことにした。
ルイに手を取られて外に出ると、途端に眩しい光が自分に向かって注がれた。暗い中からいきなり明るい場所に出て、視界が白く染まる。
リーディアはぎゅっと目を閉じて、下を向いた。ルイの手を握る自分の手に、知らず力が入る。
「……リーディア、目を開けて、ちゃんと周りを見て」
ふるふると首を横に振る。子どもが嫌々をするように。
「無理です……眩しすぎて、くらくらします」
「これが外だよ。リーディアは昨日、宰相に先導されてここに来る時も、ずっと下を向いていたよね。もしかしたら、ここを出て城の地下室に向かう時もそんな感じだったんじゃないの?」
「…………」
その通りだ。リーディアは最初から最後まで下を向いたまま、その場所へと案内をする世話係の足元だけを見て、同じように自分も足を動かしていただけ。だからここに戻る時も、道順なんてまったく判らなかった。
「──怖いの?」
ルイの静かな問いかけに、ぴくりと肩が揺れた。
「何が怖い? 何を恐れる? 自分の身を差し出すことすら、恐怖も躊躇もない君が。影蜘蛛と呼ばれるアレを見ても、召喚陣から現れた俺を見ても、リーディアは顔色ひとつ変えなかった。……なのに、その君が今はほら、こんなに震えてる」
縋るようにルイの手を掴んでいた手を、ぐっと握り返された。震えているのはそこだけではない。足も、身体もだ。
「顔を上げて、リーディア」
ルイの柔らかな声に背中を押され、リーディアはようやく決心して目を開け、顔を上げた。
すぐ前に、ルイが微笑んで立っている。
彼の後ろには、鮮やかな緑の葉を茂らせた背の高い木々が、ずらりと囲むようにして並んでいた。
ふわっと吹く風がリーディアの髪を揺らし、頬を撫でていく。建物の中よりも、空気がずっと暖かい。靴の裏からは、小石のでこぼこした感触が伝わった。
どこもかしこも陽が反射して、まるで白い輝きが踊っているよう。
頭上には、紺碧の空が果てしなく広がっている。
どくどくと血液が巡る。青白い頬に熱がのぼった。
なんて──綺麗。
「建物の周りをゆっくり歩こうか。最初から張り切りすぎて、また倒れたりしたらいけないからね」
ルイがリーディアの手を握ったまま歩きだす。どこか覚束ない足取りで、リーディアも彼に従い歩を進めた。
生まれた時から住んでいた離れとはいえ、実際にこの目で見ると、中と外とではまったく印象が異なっていた。建物の裏手に乱雑に荷物が置かれているのを見てびっくりしたし、井戸があるのも知らなかった。いつも窓から見えていた景色は、小さな四角に切り取られただけの、本当にごく一部でしかなかったのだと痛感した。
ルイは歩きながらずっと他愛ない話をしている。空を指差して鳥が飛んでいると教えてくれたり、地面を示して小さな花が咲いていると見せてくれたり。
「どう? リーディア。外は楽しいかい?」
楽しい──楽しい? リーディアは自分の胸に手を当てて考えた。
楽しいって、どういうことなのか判らない。けれど今までに感じたことのない鼓動の高鳴り、弾むようなこの気持ちを、「楽しい」と呼ぶのなら、きっとそうなのだろうと思う。
「ルイさまは?」
「俺? 俺はそりゃもう、楽しいよ! だってさ、『一緒にお出かけして』『手を繋ぐ』、ふたつも同時に夢が叶ったからね!」
その返事とともに、尻尾がパタパタパタパタッと跳ねるように振られた。
鞭のような外見のその尻尾は、ルイの感情に合わせて大変柔軟な動きを見せる。そしてたまに、鏃に似た先端部分が、お辞儀をするかのようにぴょこぴょこと曲がったりもする。まるでそれ自体が、小さな生き物のようだ。
ムズムズするものを押さえ込むのに、ちょっと苦労した。
「……ルイさま」
「ん?」
「わたくし、『可愛い』というものが、少し理解できた気がします」
「うん……? それはよかった」
よく判らない、という顔をしながらも、ルイが言う。
「──ふふっ」
リーディアは口元を綻ばせて、笑った。
これからも、彼の夢がいくつも叶うことを、願わずにいられない。




