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 お待たせいたしました、という言葉とともにお茶を運んできた世話係は、扉を開けて部屋に入ってからお茶一式を調え、そしてまた部屋を退出するまで、ずっと顔を俯かせたままだった。

 テーブルにカップを置く時も、手がぶるぶる震えすぎていて、カチャカチャと音が鳴り続けていたほどだ。それでもなんとか無事ルイの前に着地させることに成功したものの、カップの底がソーサーに零れたお茶に浸かっているような状態だった。

 四人いる世話係の中ではわりと年嵩で、リーディアともそれなりに長い付き合いであるベテランがその調子なのだから、おそらく他の三人も似たり寄ったりなのだろう。

 彼女たちは何をそんなに怖れているのかしら、とリーディアは不思議に思った。

 五十年前、この国の王が交わした約束の内容について、離れに勤める人間は全員知らされているはずだ。ルイはれっきとしたその契約相手で、召喚陣から現れた上位魔物と身元も確かである。なにも、正体不明の怪しげな不審者が入り込んだというわけでもあるまいに。

 そこまで考えて、はっとした。


 ──もしかして、ルイさまに食べられるのではないかと思っている、とか?


 まあ、ひどいわ、とリーディアは内心で憤慨した。

 彼のお腹の中に入るのは、生贄であるこの自分だけに与えられた権利だ。横入りなんて、許されることではない。もしも他の美味しそうな誰かがルイの目に留まって先に食べられてしまったら、と考えるだけで、嫉妬のあまり胃がキリキリしてきそうだ。


「ルイさま」


 リーディアがキッと表情を改めて正面を見据えると、底からお茶が滴っているのに文句も言わず、カップを口元に持っていったルイが「うん?」と首を傾げた。

「わたくしのすべては、ルイさまだけのものです」

 ぶっ、とルイが茶を噴いた。

「ルイさまも、わたくしだけを選んでくださいますか?」

 重ねて質問すると、さらに咽た。

「どうか、せめてこの城にご滞在の間だけでも、他の女性にお心を移すことのないよう、お約束いただけませんでしょうか」

 ここまで要求するのは生贄としての越権行為にあたるかもしれないが、リーディアは両手を組んで懇願した。

 そりゃあ魔物だって食事は不可欠なのだろうから、これからも多くの若い娘を口にするのだろう。しかしそれはリーディアを食べ終えて、またあの召喚陣を通り魔物の世界に帰ってから、あるいは他の国に行ってからにしてもらいたい。


 このローザ・ラーザ王国においては、リーディアだけがルイにとっての唯一でありたいのだ。

 そうでなければ、この十七年、生贄として英才教育を受けてきた自分の立つ瀬がないではないか。


「あ……あのね、リーディア」

 ゲホゲホと勢いよく咽ていたルイは、ようやく苦しそうに顔を上げて口を開いた。

「俺はそんなに軽い男じゃないし、ホイホイと女をつまみ食いするような悪癖もないから。むしろ女の子と付き合ったこともあんまり……いや、その、なんだ」

 まだ収まっていなかったのか何度か咳き込んでから、最後に一度大きくゴホンとして呼吸を整える。

 そして真面目な顔で、リーディアに向き直った。



「──とにかく、リーディアを貰い受けたら、それ以降、余所には決して見向きしません。俺の一族は、ものすごく一途なんだ。一度相手を決めたら、共に在るのは生涯その人だけだよ」



「まあ……」

 リーディアは感激して、自分の胸に手を当てた。

 なんという律義な魔物なのだろう。相手(捕食対象)を決めたら、共に在る(食べてひとつになる)のは生涯一人だけ、なんて。こんな生贄冥利に尽きることがあるだろうか。これはリーディアも心してかからねば。

 ええ、わたくし、ルイさまに食べられましたらその後は、あなたの血となり肉となって、身体の隅々まで栄養を行き渡らせて力になってみせますとも!

 リーディアは俄然やる気になって、ぐっと拳を握った。

 その途端、くらっと眩暈がした。


 ……あら?


「それでね、リーディア、ここからが大事な話なんだけど、君たちの言う『五十年前の契約』っていうのは根本的なところで齟齬が……リーディア?」

 ルイの声に不審げなものが混じった。眉を寄せ、ソファから腰を浮かしかけるその姿は、確かにリーディアの目に映っているはずなのに、奇妙に近くなったり遠くなったりしている。声も聞こえにくくなってきた。

「リーディア、急に顔色が」

「申し訳ございません、ルイさま。今になって思い出しました」

「あっ、なんかイヤな予感がする。何を思い出したって?」

「そういえばわたくし、昨夜から一切の飲食を断っていたのでした」

「は?!」

「食べられる時にお見苦しいことになってはいけないと……お腹を空っぽに」

 そこまで言ったところで、ぷつんと目の前が真っ暗になった。

 ルイが焦って自分の名前を何度も呼ぶ声を、リーディアは薄れゆく意識の中で聞いていた。



 誰かにこんなにも名を呼ばれたのは、生まれてはじめてではないかしら。

 なんだかとても、ふわふわした、いい気持ち……



          ***



 目覚めた時、リーディアはベッドに横になっていた。

「あ、起きた?」

 天井を背にして、前屈みになりこちらを覗き込んできたルイの顔が間近に迫る。


 彼は黙って口を閉じていれば冷たく見える容貌をしているが、こうして頼りなく眉を下げていたりすると、途端に雰囲気が柔らかくなる。

 黒い短髪は少し癖があるらしく、ところどころが跳ねているのにそのままになっていて、大らかな性質を感じさせた。

 頬から顎にかけての輪郭が、しっかりしていて鋭い。世話係の女性たちのような丸みには欠けるが、威圧感がないのはこちらに向けられるその黒い瞳がとても澄んで見えるからだろうか。

 こんなにもじっくりと人の顔を見る機会なんて、今までになかったことだ。

 だって、リーディアと正面から向き合ってくれる人は、一人もいなかったから。


 そんなことをぼんやりと考えてから、リーディアはようやくはっきりと覚醒した。

「まあ、申し訳ございません、わたくし……」

 急いで起き上がろうとしたのを、ルイに手で押さえて止められる。

「そんなに突然動いたら、また倒れるよ。ゆっくりね……この枕にもたれるようにして、うん、そう。気分はどうだい? 大丈夫?」

 上体を起こすのに手を貸しながら、枕を動かしたり毛布を掛け直したりして、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。非常に丁寧で、繊細な手つきだった。

「ルイさまがわたくしをここに運んでくださったのですか?」

「うん」

「申し訳ございません、重かったのでは?」

「軽すぎて心配になるくらいだったよ。大体ね、昨夜から飲まず食わずなんて無茶もいいところだ。そりゃぶっ倒れるに決まってる」

 憮然とした表情で苦言を呈して、ルイがベッド脇のカウンターテーブルの上にあった食膳を持ち上げ、静かにリーディアの前に置いた。


 膳には、グラスになみなみと入った水と、ホットミルクと、パンと、豆のスープが載っている。


「世話係に頼もうと思ったんだけど、みんな俺が声をかけようとすると悲鳴を上げて逃げていっちゃうんだ。しょうがないから勝手に厨房に入って、適当に見繕ってきた。でもあんまり材料がなくてね、これくらいしか用意できなかったよ」

 ルイは肩を竦めながらそう言って、傍らにあった椅子に腰を下ろした。

 リーディアはびっくりした。

 この離れはもう用済みになる予定だったのだから、厨房に材料がないのは当然である。そして同じ理由で、スープなども作ってあったはずがない。


「もしかして、この豆のスープはルイさまがお作りに?」

「うん。まあ、この国の料理がどんなもんだか知らないから、俺の流儀で作ったけどね。君の舌に合うかどうかも判らないけど、少なくとも毒にはならないから、ちょっとだけでも胃に入れておいたほうがいい」

「まあ……」

 リーディアは皿に入れられたそれにまじまじと見入ってから、スプーンを手に取って、口に入れてみた。



 いつも食べるものよりは多少塩気が強いような気がするものの、お腹と胸にしみじみと沁み入る優しい味だった。

 自然と、笑みがこぼれるような。



「とても美味しいです、ルイさま」

「そう? ならよかった」

 ルイの返事は素っ気なかったが、ぴんと立った尻尾が左右に大きくぶんぶんと揺れた。

「ルイさまは料理がお上手なのですね」

「まあ、仕事であちこちに出かけることが多いからね」

 魔物の仕事とはなんであろうか。影蜘蛛のような小さい魔物を従えることができるのだから、あちらの世界でも上下関係というのはあるのだろう。あちこちを飛び回り、下を取りまとめ、監視したり指導したり命令したりのお役目が課せられているのかもしれない。大変そうだ。よく判らないが。

「ルイさまもお豆を食べたりなさるのですか」

「食べるよ。豆類は栄養があるからね」

「そんな……豆よりもわたくしのほうが、ルイさまにとって、より良い栄養になれると思います」

「何を張り合ってるのかな。大体、そんな白っぽい顔色で栄養もへったくれもないでしょ」

「だってルイさまが早くわたくしを食べてくださらないから……いつになったらわたくしは、ルイさまとひとつになれるのでしょうか」

「ベッドの上で言う台詞じゃないね! いいから、さっさと食べて、ぐっすり寝る! 話は明日!」

 赤い顔でそう決めつけると、ルイは椅子から立ち上がり、部屋から出て行ってしまった。

 閉じる扉を見つめ、リーディアはもう一口スープを口に入れる。

 ほう、と唇から息が漏れた。


 ……美味しくて、温かい




          ***



 その頃、王城内の一部屋では、喧々諤々の議論が起こっていた。

 最も眉を逆立てていたのは、ローザ・ラーザ国の王太子だ。

「どういうことですか、父上! 聞いていた話とはまったく違うではありませんか!」

 噛みつくように言われて、彼の父親である国王もまた腹立たしげに顔をしかめた。

「うるさい! 私だって何がなんだか判らん! なにしろ五十年前の契約だぞ?! 書面で残っていたわけでもなく、口伝えで聞かされた話しか知らんのだ!」


 五十年前、魔物と契約を交わしたという当時のローザ・ラーザ国王、つまり現在の王の祖父にあたる人物は、もうとっくに故人となっている。

 彼の息子を通して、そのまた息子である現国王が聞いたのは、「約束の日」にやって来る魔物に、若く清らかな王女を贄として捧げよ、ということだけだった。

 だから、リーディアという二番目の王女をそのように育てさせたのだ。己が魔物に与えられることを知っても、拒むことなくその事実を受け入れるよう、特殊な教育も施した。はじめからそのつもりでつくられた娘だから、肉親である他の王族たちとは完全に一線を画して。


 いざという時、情が湧かないように。


 贄であるリーディアを引き渡せば、魔物はそれで満足してすぐに帰るのだろうと思っていた。そのまま喰われてしまうのか、魔物の国に連れていかれてしまうのかは判らないが、とにかく「約束の日」さえ終えてしまえば、この五十年もの間、自分たち王族の間で常にわだかまっていた鬱々とした懸念も解消される。

 犠牲になるリーディアという娘は不憫だが、国の安寧を図るのも王族としての義務だ。恨むのなら、五十年後に負債のツケを廻した祖父王を恨んでもらいたい。自分たちだって、決してこれまで安穏を貪っていたわけではない。不安もあったし、怖れもあった。


 そして、やって来た今日という日。


 五十年前からの厳重な言い伝えは確かだった。聞かされていたとおり、召喚陣から闇とともに魔物は現れ、影蜘蛛まで目の前で消し去ってみせた。

 国王はその時確かに、ほっとしたのだ。この場さえ乗り切ればすべて問題ない。もうこのような厄介な問題と一切関らずに済む。

 それが、なんだ。



 ……お嫁さん、だと?



「リーディアは魔物に食べられるのではなく、配偶者になるということなのですか?」

 そう訊ねたのはリーディアの姉である、第一王女だった。

 直系の王族の中で、五十年前の契約について知っているのは、国王と王妃の他には、リーディアよりも先に生まれた兄二人、そしてはじめての女の子だからと王妃が泣き喚いて抵抗したため難を逃れた第一王女、万が一の時のためのスペアとしての第三王女だけである。

 それ以外の王子王女は、もう一人の王女リーディアの名前どころか存在すら知らない。


「離れとはいえ、魔物が同じ敷地内にいるだなんて、考えるだけで恐ろしいわ。お父さま、あの魔物はわたくしたちを襲ってきたりはしないでしょうね?」

「む……」

 第三王女の詰問に、国王は渋い顔をして黙り込んだ。

「冗談ではありませんよ! 城の中にはまだ小さい王子と王女もいるのですよ! わたくしの愛する子どもたちに、何かあったらどうなさるのです?!」

 悲鳴のような甲高い声を上げたのは王妃である。彼女にとっての「愛する子どもたち」の中に、リーディアは含まれていない。生み落としてからすぐに引き離され、それっきり顔を見たこともなければ、声を聞いたこともないのだから、王妃にとって離れにいる娘は完全に他人も同じだ。

「お母さま、落ち着きになって。魔物もそこまで見境なしなことはしないはずよ。それだったら五十年前、手ぶらで引き下がることなんてしませんわ。魔物が求めるのは、あくまで王家の血を引く年頃の娘だけでしょう」

「なっ……冗談じゃないわよ! そうしたら、わたくしが狙われる可能性があるということじゃないの!」

 第一王女の言葉に、眉を吊り上げた第三王女が喰ってかかる。

「あら、そうと決まったわけじゃ……」

「なによ、魔物が純潔を求めるからって、さっさと男と通じてしまったお姉さまはいいわよね! わたくしは今日を迎えるまで、ずっと生きた心地がしなかったのよ! 生贄姫に何かあれば、次にそのお役目を押しつけられるのは、このわたくしなんだから!」

「キンキン声で叫ばないで! そんな文句ばかり言うのだったら、あなたも早く結婚でもすればよかったのよ!」

「わたくしはお姉さまと違って、男なら誰でもいいなんてふしだらで無節操なことはいたしませんの!」

「なんですって?!」

「なによ、いつも夫の身分が低いだの、ドレス一着満足に買えやしないだのと、お父さまにしつこくおねだりしてるくせに!」

 掴み合わんばかりに争う姉妹に、誰も仲裁に入れない。最初から贄としての対象外である王子たちはそれなりに後ろめたさがあるし、国王と王妃は言うに及ばずである。


 けんけんと罵り合う彼女たちを横目に、宰相がおそるおそるといった調子で国王に向かって切り出した。


「陛下……離れのほうより、世話係たちが抗議を申し出ております。恐ろしくて魔物の近くにはいられない、そもそも自分たちの役目はもう終わったはずだと……」

「うむ……」

 それも無理はない話だろうと国王は内心で思った。敷地内に魔物がいるというだけでも落ち着かないのに、さらにその魔物の面倒まで見なければならないとなれば、心理的な負担は大変なものだろう。

 なにしろ相手は魔物だ。何を考えているのか、行動の基準も判らない。こちらにとっては当たり前のことでも、あちらは烈火のごとく怒りだす可能性もある。そして怒らせたら、どんな災厄が降りかかってくるのか予想がつかない。

 地下室で相まみえた、人間によく似た青年の姿を頭に思い浮かべた。



 尖った耳に、不気味な真っ黒の髪と瞳、そしておぞましい形状の尻尾。

 得体の知れない笑みをたたえ、王を王とも思わぬ傲岸不遜な態度で、自分の要求を突きつけた、あの魔物。



「うむむむ……」

 王は口をぐっと曲げて、玉座の肘掛けの上に置いた拳を強く握りしめた。

「いやしかし、陛下、考えようによっては、これもまた好機かもしれません。現在、影蜘蛛がまた増えはじめてきたことでもありますし、あの魔物に交渉して、やつらをすべて消してもらうことも……」

 教会の最高位聖職者の言葉に、王がかっと目を見開く。

「バカを言うな! そうやってまたあの魔物に借りを作るつもりか?! 影蜘蛛を喰ってもらった後、今度は何を要求されるか判らんというのに!」

「そうよ! 次はわたくしを寄越せと言われるかもしれないわ!」

「父上、ここは慎重にご判断を!」

「早くあの魔物を追い出してくださいましな!」

「陛下!」

「ええい、うるさいうるさいうるさい! 私はもう知らん!!」

 ぎゃんぎゃんと責め立てられて、王は頭から湯気が立つくらい真っ赤になり、大音量で怒鳴った。



 とっぷりと夜が更けるまで、その不毛な言い合いは続いたが、結論も解決策も出なかった。

 そして、生贄姫と呼ばれるリーディアの身を案じる言葉もまた、誰の口からも出てこなかった。

 ただの一言も。





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[一言] 新作が、気づかない間に完結していて、慌てて読んでいます。 王家の面々の描写がとてもはな先生らしいなと感じ、途中ですが感想を書きにきました。 いい具合に身勝手で、その身勝手さを的確に表現されて…
[一言] 50年前自分達で呼び出して助けてもらっておいて本来感謝すべき所をこの態度…あまりの恩知らずぶりに呆然。もう契約は遂行されてますし後は国がどうなろうが放置で良いのでは?一度助けたのですし。さっ…
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