6. ゴルゴーンオオルリアゲハ
ルバート目線です。
それは、ある日の夕方のことだった。
その日は確か、高等部の試験期間中で、俺はアメリアが研究室に来ないと油断していた。
休憩時間に、研究室の自室の奥に隠してあった、それを取り出し、観察していたときのことだった。
「それは、何ですか?」
突然、後ろから声をかけられ、思わず箱を落としそうになる。
まずい!と思い、隠そうとした時には既に遅く、アメリアは箱の中を覗き込んでいた。
「珍しい虫ですね?何かの幼虫でしょうか?」
叫ぶか倒れるかするのではないかと身構えていたのだが、アメリアは全く動じず、むしろ身を乗り出して見ている。
「ご・・・ゴルゴーンオオルリアゲハの幼虫だ。お前、平気なのか?」
ゴルゴーンオオルリアゲハの幼虫は、ソフィアがこの世の醜悪の極みと評するほどの奇怪な見た目をしている。
以前、ソフィアの手伝いとして一時出入りしていたソフィアの友人は、これを見て卒倒したのだ。
あの強心臓のソフィアでさえ、これを初めて見た時は顔を青くしてブルブル震えていたし、今も、絶対に見えるところに置かないでと言われている。
「平気?というのは、どういう意味ですか?何か毒でもあるのでしょうか?」
アメリアは、この幼虫が特別な毒素でも吐き出しているのだと思ったようだった。
「いや、そういう意味じゃない。見た目が気持ち悪くないのか?という意味で言ったんだ。ちなみに、毒はあるが、直接触れなければ大丈夫だ。」
俺がそう言うと、アメリアは少しほっとしたような表情を浮かべた。
「実家が農園を経営しておりまして、収穫時期には毎年手伝っておりました。なので、虫などは見慣れているんです。でも、これは見たことがありません。随分と大きいですが、どのような蝶になるのでしょうか。」
気持ち悪いと言わないだけでなく、アメリアは虫に興味があるようだった。
「幼虫の時は、ちょっと・・・いや、かなり見た目が悪いんだが、成虫になると瑠璃色の美しい蝶になる。特に、サナギから蝶になるときが特別美しく、その時だけ発光する鱗粉を出すんだ。それが貴重な魔力を含んでいてだな・・・。」
と話し始めて、ふと止まる。
そういえば、ソフィアに虫のことになると夢中になって話しすぎるから、気をつけろとも言われていたことを思い出す。
ソフィア曰く、虫の話を聞きたがる女子はいないとのことだった。
だが、アメリアは違った。
「魔力を含む光る鱗粉ですか?どのような魔力なのでしょう。」
胸が躍るような気がした。
アメリアは怖がる様子もなく、ゴルゴーンオオルリアゲハの幼虫に見入っている。
話してもいいんだよな?と思い、続きを話す。
「ゴルゴーンオオルリアゲハは、王都から南に下ったベレヌス領の森が主な生息域なのだが、そこには天敵となるケルベロスオオトカゲなども多い。だから、サナギから蝶になる一番無防備なその瞬間、ゴルゴーンオオルリアゲハは非常に強い幻覚作用のある鱗粉を出して、周囲にいる敵を動けなくするんだ。俺もまだ見たことはなく、本で読んだだけなのだが、ゴルゴーンオオルリアゲハは夏至の夜に一斉に羽化するから、その時、ベレヌスの森は神々しい光に包まれるらしい。」
俺は饒舌に話し続けた。
けれど、アメリアが嫌がっているような様子はなかった。
「その幻覚は人にも作用するのですか?」
アメリアがこちらを見た。
少し緑がかった茶色の瞳だった。
そういえば、これまでアメリアの顔をこんなに近くで見たことがなかったなと気付く。
これまで見たアメリアは、いつも下を向いて書いていることが多かったからだ。
こんな瞳の色だったんだなと思い、妙な胸騒ぎがしたことを覚えている。
「ああ、人にも作用する。多くの鱗粉を浴びれば、酒に酔ったような状態になる。一匹くらいでは何も問題はないが、何万匹もの蝶が一斉に羽化するベレヌスの森では、幻覚を見て暴れるものもいることから、ベレヌス領ではその時期、騎士団が森を囲んで、侵入禁止にするらしいぞ。」
と続けると、アメリアはさらに驚いた顔をする。
「それは知りませんでした。この幼虫は、いつ頃羽化しますか?」
暦を見て、夏至の日を確認する。
「夏至は再来週だな。」
そう言うと、アメリアは信じられないことを言い出した。
「私も一緒に観察することはできますか?」
驚いて、アメリアを見る。
思ったより近くで見つめ合うことになってしまったことに気づき、気まずくなる。
「あー、俺はいいのだが、いくら研究の一環とはいえ、保護者なしで女子生徒を夜に連れ出すことはさすがに難しいかもしれんな。」
俺がそう答えると、アメリアはガッカリした顔をした。
もしアメリアが犬なら、その耳としっぽが垂れていただろう。
「そうですよね…。」
普段、あまり表情に出さないアメリアが心底残念そうにしている姿に、なんとかできないかと思案していた時、俺はこれまでずっと断って来た高等部からの依頼を思い出した。
「あー、あれだな。高等部の生徒全員に声をかけてみるか。ちょっとリドルに聞いてみよう。」
俺がそう言うと、「はい!」と弾んだ声で、アメリアが微笑んだ。
***
翌日、リドルにその件を伝えると、天変地異の訪れかと疑うような顔をした。
「はあ?お前、ずっと絶対にヤダって言ってたじゃないか!どういう風の吹き回しだよ!」
まあ、リドルの言うことはもっともだ。
大学に隣接する高等部は男子部と女子部に分かれているのだが、その講師たちは、フェリクス創設の眠り姫病研究室に付属校出身の学生を送り込むことに必死だった。
報奨金でも出ているのではないかと疑うほどだ。
だが、大学の眠り姫病研究室に入る学生は、付属校出身だからといって優遇されることはない。
そのため、創設時から、付属校の講師たちはぜひ高等部の学生たち向けに特別講義をしてほしいと、毎年しつこいくらい俺への依頼が来ていた。
特別講義で他の高等部出身の学生たちに差をつけたいと思っている、その魂胆が見え見えだったので、ずっと断って来たのだ。
門戸は広い方がいい。
付属校だからといって優遇する気はさらさらない。
「まあ、あれだな。アメリアを見てだな。高等部の学生に、もっといろいろな知見を与えられるのであれば貢献するべきではないかと思ってだな。」
と、そこまで俺が言うと、リドルは全てお見通しとばかりに口を挟む。
「っていうか、お前はアメリアちゃんが堂々と外出できる口実が欲しいだけだろ。」
分かっているなら聞くなよと思う。
もう、こいつとの付き合いは長い。
「まあ、なんでもいいから早く高等部の許可を取ってこい。」
***
夏至の晩、集まった高等部の学生たちと共に、ゴルゴーンオオルリアゲハの羽化を見守った。
アメリア以外の女子学生も数名いたのだが、サナギの姿を見ただけで、全員が離脱した。
高等部の講師たちが優秀だと推薦した男子学生の半数と、担任講師さえもが、羽化が始まった瞬間に吐き気を訴えて離脱。
結局、最後まで残ったのは10名にも満たなかった。
そんな中、羽化が始まり、まだ白いゴルゴーンオオルリアゲハの成虫がサナギの中から出てきた時、アメリアは息をするのも忘れて見つめていた。
リドルにこっそり指示して、他の学生が他の虫かごに行くよう誘導する。
そして、俺はアメリアと一緒に、一つのアゲハの羽化をじっくり確認することにした。
ゴルゴーンオオルリアゲハが、羽化と共に光る美しい鱗粉を撒き散らす。
その光と、月の光に照らされたアメリアの顔が、わずかに紅潮していた。
今思えば、息を呑んで、ゴルゴーンオオルリアゲハを見つめるアメリアのその横顔を見た時、俺はもう恋に落ちていたんだと思う。
けれど、当時の俺はアメリアとの身分差を考え、その感情には蓋をしようと決めていた。
アメリアのことは、ソフィアから預かった妹のようなものだと思い込もうとした。
いくらアメリアに想いを寄せても、俺の結婚は俺の思い通りにはならない。
親の庇護下にある以上、親の意向には逆らえないのは分かっていた。
今は眠り姫病研究という大義名分で数多の見合い話から逃げられていたものの、あと数年もすれば、父が持ってくる高位貴族の跡取り娘との婚姻は避けられないだろうと思っていた。
だから、大学を卒業するまででいい。
その間だけでも、アメリアともっとたくさんのことを共有したいと思った。
アメリアが辺境伯領出身と知ってからは、毎年アメリアの帰省に同行した。
それはアメリアが乗合馬車で往復していると耳にしたので、一緒にうちの馬車に乗った方が安全だし、楽だろうと思ってのことだ。
いくら平民には当たり前のことと知ってはいても、アメリアが3日も赤の他人と一緒に馬車に揺られているのを想像したくなかった。
それに、現在の辺境伯領主ウィルフレッド殿は、母の従兄弟であるため幼い頃より面識のある人物だ。
ウィルフレッド叔父は、大学で本格的に魔術を学んだ経験もあり、博識で、俺にとっては年の離れた兄のような存在だった。
辺境伯領を叙爵してからは縁遠くなっていたものの、王都で会うとき、いつも辺境伯領固有の動植物についての話を聞いていたので、いつかは行きたいと思っていたのだ。
実際、辺境伯領は素晴らしく、一度の訪問ですっかり魅了された俺は、それからも毎年アメリアの帰省に合わせて叔父上のところを訪れることになったのだった。
リドルやソフィアはいつも「無理矢理アメリアを同行させてる」と言っていたが、俺は一度だって辺境伯領内での同行をアメリアに強制したことはない。
ただ、アメリアはほとんどの採集、観察について来てくれた。
毎回強制ではないと伝えていたけれど、アメリアはいつも「行きます」と答えてくれたのだった。
だから、俺はアメリアも同じ気持ちだと思い込んでいたんだ。
次話もルバート目線の話が続きます。