10. 魔法の蝶
少し長くなってしまいました。
アメリアが辺境伯領に帰ったと聞いた時、俺はまだ夢を見ているんじゃないかと思っていた。
けれど、何度起きても夢は醒めない。悪夢は終わらない。
アメリアが辺境伯領に到着したと思われる頃、俺は久しぶりに大学の研究室を訪れていた。
「ルバート様。アメリアさんが最後に餌をあげてくれたみたいですけど、俺、明日帰省するので、持って帰ってくださいね。」
到着するや否や、待ち構えていた一年生に箱を手渡された。
ゴルゴーンオオルリアゲハの幼虫が入っている飼育箱だ。
久しぶりに開けてみると、アメリアが入れてくれたであろう新鮮な青葉の下で蠢く幼虫達の姿があった。ゴルゴーンオオルリアゲハは幼虫の姿で越冬するのだ。
ソフィアに醜悪の極みと言わしめたその姿も、アメリアに言わせれば、気持ち悪いと可愛いを合わせた「きもかわいい」らしかった。
飼育の手伝いをするようになってからは「最近は可愛いが勝ってます」とのことで、こっそりと「ゴルちゃん」と呼んでいるのを見かけることもあった。
そんなアメリアの愛情ある世話のおかげでだいぶ数を増やしたゴルゴーンオオルリアゲハだが、今回の眠り姫病の治療に役立ったこともあり、大半は他の研究室や植物園へ寄贈されていた。
もう、手元に残ったのは、この一箱だけだ。
「お前たちもアメリアがいなくて淋しいか。」
馬鹿みたいに幼虫たちに話しかけてみる。
もちろん何も答えはしないが、ムシャムシャと音を立てて青葉を喰む音が非難の音のようにも聞こえてくる。
そして、去年の夏至の出来事を思い出す。
あの時、俺は迷っていた。
その2年前から取り組んでいたクロノスサバクネズミを使った眠り姫病治療薬の実験結果が思わしくなかったからだ。
クロノスサバクネズミは、大型のサボテンであるクロノスコリファンタに依存して生きる小さなネズミだ。
それは、クロノスコリファンタが枯れると、次の株が成長するまで、仮死状態のまま数年を生きることで知られていた。
クレア王女の症状を調べていくうち、眠り姫病の症状が、そのクロノスサバクネズミで起きている現象に近いことまでは分かったのだが、その治療方法については結論を出しきれずにいた。
眠り姫病は魔力欠乏症の一種だ。
魔力欠乏症の一番重篤な症状と言える。
生き物は皆、体内に魔力を巡らすことで生きている。
魔力欠乏症は何らかの理由で魔力のバランスが崩れた時、体のあちこちに支障をきたす病なのだが、眠り姫病では臓器などで魔力を消費させないよう、体が極限まで生命活動を制限していると考えられていた。
通常の魔力欠乏症は魔力を補ってやることで治るが、眠り姫病の患者は臓器が活動していないため、薬も受け付けなければ、注射をしても血が巡らないため魔力を補う方法が分からずにいた。
クロノスサバクネズミは、枯れたクロノスコリファンタの地下におり、何らかの方法でクロノスコリファンタから魔力を補って目を覚ますと思われていたが、姫を砂漠に埋めるわけにもいかない。
二年前に砂漠から掘り出したクロノスサバクネズミ数十匹を検体として、さまざまな実験を行ってきたが、魔力は多く補えばいいというわけではない。
少な過ぎれば効果はないし、多過ぎては魔力暴走を引き起こしかねない。
その時は、魔法薬を調合した水にクロノスサバクネズミを浸すことで、ちょうどいい濃度の薬の配分や時間を割り出そうとしていたのだが、ほんの数滴、数秒の違いでクロノスサバクネズミは魔力暴走を起こして死んでしまった。
姫は一人しかいない。失敗は許されない。
そんな俺の気の迷いが、あの夏の事件を引き起こしてしまったのだ。
***
あれは、数年に渡る交渉が実り、やっとベレヌス領へ行けることになった時のことだ。
後で理由を知ってからは納得したのだが、ベレヌス領主は何故か女性の同伴は認められないとの一点張りで、なかなか許可が出なかったのだ。
けれど、今や、ゴルゴーンオオルリアゲハの生態について、俺と並ぶほどの知識を持っているのはアメリアだ。
アメリアは俺にはない独自の観察眼を持っているので、連れて行かないという選択肢は俺にはなかった。
そこで、俺はフェリクスの伝手を使って、普段はあまり関係が良くない王立研究所の所長に頭を下げて、アメリアの推薦状を書いてもらったのだ。
ベレヌス領主が女性の同行を拒否した理由は、宿に着いたときに分かった。
宿に着いて、荷物の整理をしていたとき、突然ガチャと音がして、入り口ではない方の扉が開いた。
「え?」
と驚いた表情のアメリアがそこに立っていた。
アメリアはショックを受けたような顔をしている。
俺は、さっき宿の主人が妙にニヤついていた理由に思い当たり、すぐさま誤解を解いたのだが、アメリアのその表情は俺の中に残り続けた。
アメリアを愛人だと思わせてしまうなんて、最低だ。
俺の醜い心の内を見透かされた気がした。
俺は心のどこかで、姫を死なせるという危険を冒さなくても、アメリアといられるのなら今のままでもいいのではないかと思い始めていた。
このまま研究を続けて、ずっと一緒にいるのもいいじゃないかと。
けれど、それではダメだ。
仮にも俺は公爵家の人間だ。
俺がどんなにアメリアとの身分差を気にしていなくても、他の人間は違う。
俺のそばにいる限り、アメリアに醜聞が付き纏うのは明白だった。
今はアメリアが大学在学中だからまだいい。
けれど、アメリアが大学を卒業したら?
治療が間に合わずに姫が儚くなられてしまったら?
フェリクスが支援を打ち切って研究室が解散になってしまったら?
俺は一体、何という肩書きでアメリアをそばに置くつもりなのだろう。
最低だと思った。
恐れている場合ではない。
絶対に治療を成功させなければならないと、そう俺は心を決めた。
***
夏至の日の夕暮れが近づいてきたとき、宿の主人から聞いた忌まわしい風習からアメリアを守るため、俺は用意した虫除けの魔法薬を山ほどアメリアに振りかけた。
この時期、未婚の若い娘を持つこの村の親は、ゴルゴーンオオルリアゲハの鱗粉に惑わされた(もしくは惑わされたフリをした)不届き者たちから娘を守るため、娘を家から一歩も出さないのだという。
祭りの規模は小さくなっているものの、かつてあった伝統を根絶やしにするのは難しく、噂を聞きつけて近隣の村から祭りを目指してくる者たちもおり、ゴルゴーンオオルリアゲハが止まった止まらないに関わらず、若い娘に絡むものが後を立たないらしい。
「アメリア、絶対に俺の側を離れるなよ。」
何度目か分からない注意をアメリアに告げる。
研究室から連れてきたメンバーたちはアメリアに絡むことはないだろうが、魔力というのは何を引き起こすかは分からない。
騎士団の関係者に聞いたところ、魔力に酔って弱っている動物を狩るため、森の中に忍んでくる者もいるそうなので村を抜けたからと言って油断はできない。
と、その時だった。
茂みの中から、何かが飛び出してくるのが見えた。
咄嗟にアメリアを背に庇って立ち、飛び出してきたそれを蹴り飛ばし、殴りつける。
ドーンと音を立てて、倒れたものを見れば、それは体長3メートルを超えるほどのケルベロスオオトカゲだった。
こっちだったか、と思う。
そういえば、この森はケルベロスオオトカゲの生息域だったなと思い出す。
それもあって、警護のために騎士団の関係者に同行してもらっているのに、つい倒してしまった。
口の中に猛毒を持つケルベロスオオトカゲは、噛まれれば即死するほど危険な魔獣だ。
それを素手で倒してしまったのは、さすがにやりすぎだったとは思うが、あの時の俺は相当殺気立っていたのだと思う。
***
それから数時間後、森全体がだんだんと淡い光に包まれ始めた。
ゴルゴーンオオルリアゲハの一斉羽化が始まったのだ。
研究室で羽化する姿は何度も見たはずなのに、ベレヌスの森で見る羽化は全く違って見えた。
光が強いようだ。
心なしか、魔力も強くなっているのを感じる。
野生だからか?それとも、この森と関係あるのか・・・。
色々思案していると、アメリアがサラサラとメモを書いているのが見えた。
羽化するサナギの姿をスケッチして、そこにメモ書きを足している。
魔石を嵌め込んだルーペで辺りを見る。
やはり魔力が濃い。研究室で観察したよりも緑がかった銀色の光だ。
取れる限りのサンプルを採取し、調べられる限りのデータを取る。
少し気温が下がってきたなと思っていると、アメリアが両腕をさするようにするのが見えた。
上着を脱いで、肩にかけてやる。
「ありがとうございます」
上目遣いで振り返ったアメリアの表情に、心臓が飛び跳ねた。
なんて顔してるんだ・・・。
アメリアは魔力に当てられているのか、酒に酔ったような赤い顔をしていた。
そういえば、アメリアにはあまり中和薬を飲ませていないんだったと思い出す。
ほんのりと色づいた頬が愛らしく、とても直視できない。
こんな姿、絶対誰にも見せたくないと思った。
「アメリアが魔力酔いしているようだから、先に連れて帰る。悪いが、片付けを頼む。」
そう言い置いて、アメリアと森を出た。
森の外に出ると、村の方向が分からないくらい霧が出ていた。
なんとか道を見つけて、歩き出す。
村祭りの笛の音が聞こえてきたので、こちらの方角で良さそうだ。
歩き出してしばらくすると、アメリアが急に声を出して笑った。
大丈夫かと声をかけて、顔を覗き込むと、アメリアが見つめ返してきた。
普段はあまり目を合わせないアメリアが、じっとこちらを見ていて、息を止めた。
しばらくしてからアメリアは、ふにゃっと子供のような顔で笑い、
「ルバート様。私、魔力に当てられちゃったみたいです。」
と言った。
そして、その次の瞬間には転びそうになっている。
抱きとめると、アメリアの髪から、散々振りかけた魔法薬の香りがした。
かなり酔っているようだった。
抱きかかえて歩いても良かったのだが、それは最後の手段とすることにして、まずは手を引いて歩くことにした。
アメリアは繋いだ手を子供のようにブンブンと振って、軽くハミングしながら隣を歩いている。
「ずいぶん楽しそうだな。俺はあまり魔力に酔わないから、一度くらいは体験してみたいが、どんな感じだ?」
俺が問うと、アメリアはまた屈託のない笑顔を浮かべ、
「そうですね・・・。なんて言うんでしょうか、心の底からどんどん楽しくなってくるというか、この世界の全てが美しく輝いて見えて、踊り出したくなるような感じでしょうか。」
と答えた。
アメリアが楽しそうに微笑みながら、隣を歩いている。
冷たい小さな手を少し力を込めて握る。
ああ、このまま時が止まればいいのに。
「踊ろう」
俺がそう言ってアメリアの両手を取ると、アメリアは恥ずかしそうに微笑んで頷いた。
昔習ったことを思い出して、アメリアの腰に手を回す。
昔はダンスの練習なんて大嫌いだったのに、こんなに踊るのが楽しいなんて思わなかった。
俺もゴルゴーンオオルリアゲハの魔力に酔い始めていたのだろう。
アメリアが俺の腕の中にいて、俺を見つめている。
夢を見ているんじゃないかと思った。
ずっと踊っていたいと思った。
けれど、しばらく踊っていると、アメリアの足がもつれてくるのが分かった。
徹夜して疲れているだろうしと思い、踊るのをやめる。
アメリアは社交ダンスを踊るのは初めてだったとのことで、「結構疲れるんですね」と言って、笑った。
と、その時、ヒラヒラとゴルゴーンオオルリアゲハが飛んできた。
魔力を含んだ鱗粉をその身に纏い、朝靄の中を飛んできた蝶は、まるでそこを目指して飛んで来たかのように、アメリアの肩に止まった。
そこに止まっているのが当然とばかりに、アメリアの肩で羽を休めている。
アメリアがじっと蝶を見つめていた。
宿の主人の言葉が一瞬頭をかすめたが、気づかなかったフリをしようと思った時、アメリアが不意に俺の袖を掴んで、
「何か、お願い事をされないのですか?」
と聞いてきた。
下を向いていて、その表情は見えなかったが、耳まで真っ赤に染まっていた。
俺は少し躊躇ったものの、アメリアのしっとりと濡れた前髪に触れる。
そして、これからもずっと一緒にいられますようにと願いを込め、アメリアの額にそっと口付けた。
そんな俺たちを見届けたように、ゴルゴーンオオルリアゲハが飛び立つ羽音がした。
名残惜しく思いながらも、アメリアから離れた俺は、照れ隠しに自分の髪をかき上げた。
「あー、あれだな。霧は思ったより濡れるな。」
自分の髪も濡れていることに気づいて、そう言うと、アメリアもぎこちなく動き出し、
「そ、そうですね。うちの農園も霧が出るのですが、父が言うには、霧がコーヒーの実に少しずつ水分を与えてくれるから美味しくなるんだそうですよ。」
アメリアがうわずったような声で答えた。
確かに、一度訪れたアメリアの実家は霧が濃く出る場所だったなと思い出していると、突然、俺の頭の中に一つの考えが浮かんだ。
「霧だ。」
「あ、はい。霧ですね。」
真っ赤な顔をしているアメリアと目が合う。
思わず、アメリアを抱き上げる。
「アメリア!霧だ!クロノスサバクネズミは、クロノスコリファンタから霧を介して魔力を得ているんだ!」
空中に飛散されたクロノスコリファンタの魔力は霧となって地中に染み込み、そこに眠るクロノスサバクネズミに少しずつ注いでいるのではないか。
魔力と水は相性がいい。その可能性は高い。
確かに、クロノスコリファンタの開花を見届けたあの朝も霧が濃かった。
クロノスサバクネズミの覚醒が、開花から時間がかかった理由もこれで説明がつく。
そして今も、霧はゴルゴーンオオルリアゲハの魔力を取り込んで、森から離れたこの村にも魔力を漂わせているのだ。
それに、霧ならば姫の様子を確認しながら、少しずつ魔法薬の濃度を上げていくことも可能だ。
やはり、ゴルゴーンオオルリアゲハは幸運の蝶だと思った。
次回は、後半の前に幕間を挟んでみます。




