1秘密の入り江で
「クソッ。」
雀斑だらけの、日に焼けた少年のような顔立ちの画家の少女―ライカは言った。日に焼けた手には描きかけのキャンパスを持っている。
また捨てられなかった、そう思って彼女は崖を後にした。キャンパスは彼女が描いた初めてのものである。思い通りに描けたものは、これしかなかった。あとのものは、全部捨ててしまった。
このキャンパスの絵は、年に一度開催される、コンテストに出品するために彼女が二年前から描いてきたものだった。
いや、二年かけても見つからなかった世界を彼女は描いていた。
さあっと海風がライカの頬を、後ろで纏めた、日に焼けて傷んでしまった焦げ茶色の短い髪を撫でて行く。水平線が彼女の薄茶色の瞳に映る。
嗚呼。美しいなあ。
遥か遠い水平線を見つめながら、ライカは思う。美しいものをライカは描けない。美しいものを見るたびに、他の作品を見るたびに、アタシが描く方がすごいんだ、という自尊心のような、慢心のような昏い気持ちに取り憑かれた。
やめだ、やめ。
ライカはそう思い、入り江に向かった。
入り江―「人魚の入り江」。
この街、マリーンの街ならず、この国全土から恐れられる人魚の入り江には、恐ろしい人魚が棲んでいるという。彼の人魚は人間を引き摺り込み、殺してしまう、というのだが、本当かどうかだれも知らない。
この街の海峡では潮が速く、水難事故が多い。
このことが、人魚の噂を引き立てたのではないか、と考えている人も多いが、その人達もまた、「人魚の入り江」には決して近づかなかった。
ライカは砂浜を歩いて行く。途中小さな子供達が波打ち際で遊んでいた。波から逃げたり、水を掛け合ったりしていた。
くすくすと誰かが入り江で話している。
誰だ、ここはアタシの所だ。アイツみたいに、アタシの所を奪って行くのか?
そう思い、ライカはくすくす笑いの主を入り江の入り口の影から覗いた。
そこには美しい少女がいた。
光るような白い肌を砂粒だらけにして、入り江の中の堆積した砂の浜に寝転がり、楽しそうにカモメに話しかけている。
ライカよりはいくらか―、二、三歳くらいの年下で、明るい茶色の髪をしていた。今ちょうど海から上がってきたのか、少女の髪はしっとりしている。
異国風の白い服を纏い、下半身は、蒼い鱗に覆われていた。
人魚だ!
ライカは高揚感を感じ、初めて見る人魚に釘付けになった。少女はとても美しい容姿をしている。
しかしながら、この入り江は自分の大切な場所。
どんなやつにも、たとえ人間を殺すような人魚でも、渡さない、とライカは決意していた。
ライカは、アンタのことなんて気付いていないぞ、というようにずかずかと入り江に入った。ライカは陸の上で有れば少女を返り討ちにできる自信があった。
少女は一瞬身を強張らせ、蒼い瞳に恐怖の光を灯らせた。ライカが少女を睨むと、少女は声にならないような掠れた悲鳴を上げ、海の中に飛び込んだ。カモメは驚き、どこかに飛んで行ってしまった。
「き、キャンパスが!」
ライカの持っているキャンパスが少女の水飛沫で濡れた。ライカを抜かりなく警戒していた少女はライカの大声に驚いたのか、またもや大きな水飛沫を上げて海の中に入ってしまった。
アイツ…。また出てきたら引っ叩いてやる。
しかしライカは自分より小さい子を叩こうなんて思った自分を少し嫌いになった。
「あーあ、疲れたなぁ。」
そう言ってライカは砂浜に寝転んだ。
疲れた、と言っても今日はほとんど何もしていない。しかし、彼女の心は疲れてしまっていた。心が疲れていると、体も疲れてしまうものだ。
画家を志し、家を飛び出したあの日から彼女はほとんど一人だった。一人で食べ、一人で眠り、一人で悩んで―。誰にも悩みを打ち明けずにいた。
一人でいる事に彼女は慣れていたが、それでも、「人間」として複雑、且つ繊細な心の造りを持っている彼女にとって独りは辛いものである。
ましてや十七の悩み多き時期に独りというのは、独りに慣れた彼女でも辛いもの。
だからだろう。心はすっかり疲れて、ライカは人と話すことも忘れてしまったような気がした。
チャポンと波の音ではない音が聞こえ、ライカは振り返る。
さっきの少女が、ライカを警戒しているような蒼い瞳で見つめていた。
少女は自分の聞こえない海の中で何か言っているような気がして、もどかしさにライカは苛立った。
「なんだ?」
ライカの口調はぶっきらぼうで、少女に怒っていると感じさせたのか少女は肩をびくつかせた。
もじもじ、びくびくとしている少女を見て、さらにライカは苛立った。
「なんだよ。言うことあるなら水から上がって言ってくれよ。聞こえない。」
「も、もうお、怒って、ない?」
少女はやっぱりびくびくしており、うまく言えないようだったが口を開いた。少女の容姿に似合うくらい透き通った声をしている。
ライカは少女のもどかしさに苛々していたが、キャンパスのことでは怒っていなかった。
「もう怒ってない。」
ライカは出来るだけ優しく返したつもりだったが、やっぱりいくらか怒っているような声になった。
少女は少し恐れたような、固まった表情で、しかし優雅にライカに泳ぎ寄った。
波打ち際近くまで少女は来て、浜に上がった。
人魚は陸に上がるとうまく動くことができない。少女はライカに危害を加えることはないと身体中で表していたが、ライカは知らない。
やはり少女はとても整った面持ちをしており、蒼い、どこまでも深い海のような蒼い瞳でライカを見つめていた。少女の下半身は見事な蒼い鱗に覆われており、耳は水の中での音を感知するためかヒレ状に大きく発達している。
整った、その白く可憐な顔で見つめられ、ライカはドキッとしてしまう。恐れたような表情が、少女の可憐さを引き出していた。
少女の服からはキラキラした何かが零れ落ちた。
少女は零れ落ちたキラキラを急いで拾った。少女の白い手は震えている。少女の白い片手いっぱいほどのキラキラがあった。
「あの、これ。あの…。」
少女は零れ落ちたキラキラを差し出して言った。ライカがよく見てみると、ピカピカに磨かれた古銭や貝殻、真珠や宝石なんかがどっさりあった。
「なんだよ。」
ライカは戸惑って、少女に聞いた。こんなもの貰うようなことをした覚えはライカにはない。
「あの…。それ。私…。あのっ。」
少女は少し泣きそうで、キャンパスを指さした。
お詫び、だろうか。
「あのっ。ごめんなさいっ。私、えっと、足りなかったらもっと持ってくるからっ。だからっ…。」
赦して…と小さく少女は言った。
「いらない。」
何をそんなに恐れているのかわからず、ライカは言った。
「え?」
少女はキョトンとした。
「もともとあれは捨てるつもりだった。だから…。これはアンタの宝物だろう?だったらもらえない。」
「…でっでも!」
少女はキャンパスに目を落とし、言った。少女の顔にはもう恐怖はなかった。
「でも、こんなにキレイなのに…?」
代わりに少女は、うっとりとした瞳で未完成のキャンパスを見つめた。少女の飛ばした水飛沫は乾き、代わり白い塩の結晶が付いていた。
「…欲しけりゃ、どうぞ。」
ライカは俯き、少女に顔が赤くなったことを悟らせぬよう、ぶっきらぼうに言った。
少女は微笑んで、キャンパスを見つめた。
ライカは初めて認められた気がした。少女が、絵を綺麗だと言ってくれたおかげでライカは救われた気がした。
綺麗だと言ってくれる人がいるならば。
まだ、夢を追いかけていてもいい気がした。
もう、少女を追い出そうなんて気はライカにはなかった。
代わりに―。
「あなたの名前は?」
少女が聞いた。ライカは自分から名乗るのが筋ではないかと思ったが、それは人間側の常識である。人魚の常識なんて知らないのだから。
「アタシはライカ。画家のライカだ。」
ライカは言った後になって才能がないのだから、画家を名乗ってよかったのか、わからなくなった。
「私、リュー。よろしくね。ライちゃん!」
「ら、ライちゃん?」
少女―もといリューは、輝くような笑顔をライカに向け、言った。
ライカは驚き、すっとんきょうな声をあげた。ライカは少し嬉しくて、恥ずかしくて、むず痒い気分になった。
ライカは、リューと友達になりたい、そう思った。
斯くして。
ライカとリューの物語は、始まった。
あとがきです。
間違えた!と言う人、誠に申し訳ございません。
ライカ視点より細かい描写にするため、神視点にしております。
ライカ視点の「人魚の水しぶき」のURLはこちらです。
https://ncode.syosetu.com/n3396gf/
ご迷惑、本当に申し訳ございません。