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恐ろしく手の込んだプロレスごっこだ。翌日ヤクザに話を通したら、快く受けてくれた。ガキの相手に面白がっていると言われたが、それで上手くいくならいいじゃないか。
沈痛な面持ちで俺たちは尋問室に入った。いつもと雰囲気の違う俺たちに、ヴァヒッドとアジータは表情を固くした。
パイプ椅子に座る。黙ったまま、一分、二分と時間が過ぎていく。
「……あのな」
オータニが少し演技掛かった口調で、ようやく切り出した。
「……お前ら、死にたいって、言ってたよな」
ヴァヒッドが小さく頷く。アジータは肯定の沈黙。
オータニはTシャツの下から、一丁の拳銃を取り出した。ヴァヒッドが息を呑む。アジータの喉が小さく鳴った。
「お前らが死にたいなら、殺してやるしかないんだ。そういう風に、命令を受けた」
「……どうして、何も言わずに撃ったりしないの」
アジータの発言は殆ど自問するようだった。
「撃ちたくないよ。子供だったら、なおさらだ」
俺が代わりに返事をする。「イスラム教だろうがバハーイー教だろうが、仏教だろうが、子供は殺す対象にはならない筈なんだ。そうだろ?」
「だけど、俺はこれ以上苦しむ子供を見たくないよ」
オータニは役者だった。
「まだ撃つと決まったわけじゃないだろ」
「だけど……どうなるんだよ。この子達は」
半分は、オータニの本音だった。「このまままともな人生が、待ってるとは俺は思えない」
オータニが唐突に椅子を蹴った。激しい金属音を立てて椅子が地面に転がる。
掴んだ拳銃の先に、アジータ。小さく悲鳴を上げる。
「やめろ」
俺はオータニに掴みかかる。拳銃を持って伸びきったオータニの手に、鋭いジャブを打ち込む。拳銃を取り落とし、地面を滑っていく。
オータニは即座に体勢を立て直す。鋭い上段の回し蹴りが飛ぶ。テコンドー特有の、重心の高い振りが早い蹴り。
俺はキックボクサーのように背中を丸めて、両腕で頭をガードする。衝撃はたいしたことはない。テコンドー出身のキックボクサーがぱっとしないように、あまり実戦向きではないのだ。
俺はボクシングをやっていた頃の左右のコンビネーションで反撃。ジャブ、ストレート、ジャブ、ジャブ、右フック。オータニは腕で円弧を描くようにしてそれを弾き、逸らす。
悲鳴と、アジータがヴァヒッドを抱きしめるところが視界の端に見えた。
キーロフは混乱しているのか、わんわん吠えている。オータニとも少しは付き合いがあるから、噛み付こうとはしなかった。優しい犬。
オータニの牽制の前蹴りが飛ぶ。俺はそれを腹に中心に食らって蹈鞴を踏んだ。距離を取ったところで、オータニが上段の横蹴り――
テコンドーで上段を狙うのは、殆ど想定の内だ。俺は身を低くして躱し、下段の蹴りでオータニの軸足を刈る。倒れたところで馬乗りになって、数発パンチを落とす――オータニは寝技は苦手らしい、と判断。
オータニは体勢を立て直そうとテーブルの足を掴んだ。上に乗っていたクリスタルの灰皿が揺れて地面に落ちて甲高い音を立てた。
オータニの意味ありげな視線。――もういいんじゃないか?
俺は小さく首を振って。鉄槌打ちとオータニの顔の中心に叩き付けた。鼻血を吹き、苦しそうな声を上げる。
「なにしとるか!」
坊主頭のヤクザが転がり込んでくる。「ワレ、日和佐組のシノギでなりやっとるんじゃ」
部下のヤクザ達が飛び出してきて、俺たちを袋だたきにした。少し殴ったところで、目で合図。両脇を抱えて、尋問室から運び出される。向かったのは開店前の表の店。バーカウンターに腰掛ける。
「ヤクザの王道だな、嫌いじゃないね」
坊主頭がにやりと笑った。「あんた、日和佐組に来ないか。殴られる役の部下はいつも足りないんだ」
「趣味に合ったようで何よりだよ」
オータニは鼻血を手の甲で拭った。「チクショウ、派手にやりやがって」
「ヤクザになるつもりはないんだ。すまない」
キーロフが困ったようにオータニの膝に前両脚をついて、オータニの匂いを嗅いでいた。
一時間ほど待って、今度はヤクザ三人を連れて尋問室に入る。坊主頭も一緒だ。オータニの唇の端がいつの間にか切れていたから、大げさに大きなバンドエイドを貼ってある。
「……なんとか、なるかもしれない」
俺がそう切り出す。「とりあえず、まだその年じゃ働けない。イランにも帰れない。なら日本で一応の教育は受ける必要がある」
ヤクザの一人がイラク政府のパスポートを差し出してテーブルに置いた。
「将来がないから殺すしかないなんて、俺が間違っていた」
オータニが頭を下げる。「偽造パスポートだ。日本で生活することになるが、アジータも、ヴァヒッドも、やり直せる」
「……どういうことですか?」
ゆっくりと坊主頭のヤクザが話し出した。
「お前たちを掠ったマフィアと対立するマフィアがある。そこが、お前ら二人の面倒を見てもいいと言ってる。どうだ。まだ死にたいか」
獰猛に坊主頭が笑うと、ヴァヒッドの身体が小さく震えた。
「意地悪を言ってやるなよ。ヴァヒッド、アジータ。よく聞いてくれ」
俺はアジータとヴァヒッドの表情を確認する。足下のキーロフはオータニと俺の間を行ったり来たりしている。
「悪いことかもしれない。犯罪かも知れないが、お前達には生きていて欲しいんだ。悪いことをやっても、心まで悪い人にならなければ神様だった怒らないさ。それこどヴァヒッドが言っていたように、通訳とか犯罪に関わらない仕事だってある。まずは……中学校を卒業する。お金を稼げば大学だって行ける。宗教的少数派なんて、日本だったから関係ないんだ」
「俺はあの子達に恨まれる気がするよ」
ヴァヒッドとアジータは結局イラン人グループに引き渡す方向で決定したし、本人たちの了解も得た。それでもオータニは不満げだった。
一八〇〇円の飲み放題で、俺は安ウイスキーを呷った。臭くて、スパイシーで、旨い。
「なんでだ」
「そのうち気づくだろ。あれがプロレスだったって。今は余裕がなかったから騙されたかも知れないが、俺たちがやったことが正しいとは思えない。そりゃ、あのままヤクザに埋められるよりはマシかも知れないけどさ……」
「いいじゃないか。親になった気分だ」
オータニが苦笑した。「お前は、冷静というより冷徹だな」
「そうか」
「死をちらつかせて言うことを聞かせるなんて、どっかでやっぱりおかしいよ」
「俺はそうされたから、何がダメなのか分からない」
キーロフが敏感に反応して、耳をピクリと反応させた。すぐに興味を失って、伏せの体勢でうとうとしだす。
「そうか」
「お前は?」
「勉強一辺倒だ。サムソン系列の会社に入れないと韓国ではどうしようもないんだ。金はあったが、愛はなかった。そういう意味でお前のところよりはマシかも知れないな」
人の苦労を評価するのは俺たち現代人の悪い癖だ。他称であって、自称ではない。マイノリティはラベルを貼られただけの一般人に過ぎない。
「だけど、あの子達に殺されるなら、まだマシだ。俺は自分の名前がどこにも残らないまま死ぬのが一番嫌だ」
「意外にオータニは自己顕示欲が強いんだな」
ふんとオータニが鼻をならした。ビールの追加注文。
「ところで、お前はなんでいつも地面を気にしてるんだ」
「……」
話すかどうか、迷った。
「お前と連絡先は交換したっけ」
「してないし、する必要も無いだろ」
「あー……ならいいか」
俺はウイスキーで喉を湿らせた。
「昔飼ってた犬が親に殺された。キーロフだ。キーロフの幻覚が、今でも見える。俺は困ったらキーロフの真似をする。今は心配するべきか、それとも放っておいて良いのか、分からなくなる事が多いんだ」
「なるほど。道理でお前がお節介になったり冷静になったり、一貫しないわけだ」
オータニはビールを一気に半分ほど呷った。
「気持ち悪いと思わないのか。オータニも変わってるな」
「まあ、別にいいんじゃないか。俺には見えないけれど。今もいるのか?」
「いるよ。足下で寝てる」
オータニはテーブルの下を覗きこんだ。「俺にはやっぱり見えない。お祓いでも受けたらどうだ」
「キーロフとお別れしたくない」
オータニは鼻で笑った。
「この数日間一緒に過ごして、お前の本音を聞いたのは初めてかも知れない」
キーロフが自分の事を呼ばれた気がしたのか、ぴょんと俺の隣の椅子に飛び乗った。シーザーサラダの匂いを嗅いで、興味がそそられなかったのか、顎をテーブルに乗せて憮然とした表情をしていた。
頼んでいたスモークサーモンが来て、俺は一枚箸で摘まんだ。口に運ぼう著したところで、ぽろりと落ちた。
キーロフが首を伸ばして、ぺろりと舐め取る。
「……?」
前のオータニを見た。目を丸くしている。
「いま、消えた?」
「いや、キーロフが食った」
「……」
オータニは自分のビールを見つめた。金色の水面。
ふーっとオータニが溜め息を着いた。いいじゃないか、守護霊だろうが怨霊だろうが。キーロフはそこにいるのだ。俺を導いてくれる。キーロフの真似でお節介と言われるなら本望だ。
「やっぱり、お前お祓い受けたほうがいいよ」
「キーロフとお別れしたくない」
(了)