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三回目の休憩でようやくスマートフォンをポケットにしまったままオータニは過ごした。
ゲームの体力を使い切ったのか知らないが、ぼんやり人の流れを眺めたり、思い出したようにスマートフォンを取り出して、何かを忘れてしまったようにスマートフォンを仕舞う。
俺は煙草を咥えて、箱をオータニに差し出した。
「吸うか」
「悪い、吸わない。気管支が弱いんだ」
「煙もダメか」
「そこまでじゃない」
俺は自分の煙草に火を付けた。「試したことはある?」
「無いよ。金はゲームに使ってるから」
慎ましい生活だ。
「ソシャゲって、そんなに楽しいの?」
「……昔は、楽しかったよ」
オータニは遠い目でぼんやり口を動かした。「スタミナが五分で一回復するなんて、二一歳には考えられないかもな。それでも五分間が待ち遠しかったよ。中学生の頃が一番ゲームが楽しい時期だった」
「ふーん」
煙草の煙を空に向かって吐いた。東京の星はひどく少ない。
「俺金は掛けられないからスマホのゲームは向いてないな」
オータニは小さく笑った。
「ゲームには向き不向きなんて無いのが普通だろ。きっかけさえあれば、お前だったハマってたかもしれない」
ようやくオータニから会話を振ってきた。やっぱり俺は暇つぶしはSNSのチャットより実際に話す方が好きだ。
「お前、趣味はあるか?」
オータニからの始めての質問だった。少し考えてみる。女と話すときは散々盛って話すけれど、その必要はない。
「全部浅く広く。昔は煙草に拘ってみたり、読書してみたり、格闘技もやったけど、今は全然」
「スマートフォンのゲームはやめとけよ」
オータニは先輩のような口調で言った。「やるなら、据え置きのゲームに限る。後はネットの対戦ゲームだ」
ゲームの話になると俺はついて行けない。進路変更。
「実家はどの辺」
「……うーん、まあ、関東だ」
訳ありか。「俺茨城なんだけど」
道の真ん中を歩いていた若者の集団がわっと割れた。ホースで水を撒くように、右から二人目の赤Tシャツの男の口から胃液の飛沫が散った。
「……何にも無いだろ、あの辺は」
その通り。年末無駄にライトアップされる牛久大仏か、大洗の海鮮の飯か。ゲロに救われる日が来るとは思わなかった。
見ていると酔っ払いは何処でも吐くのだと分かる。
繁華街の中心だと言うことを加味しても、汚い街だ。昔横浜に遊びに行った時はずいぶん綺麗だったが、それは行政の不断の努力の結果なのだ。俺はこのどんずまりの街で公務員と国の威力を思い知った。立川が高級都市に鞍替えしたら俺はどこかに逃げることになるだろうが、貧民には貧民の苦しさがある。
オータニは意外に嫌悪感を隠さないタイプだった。煙草一箱奢る条件で、俺は吐瀉物の始末を率先して受ける。三十分でずいぶん吸い殻もたまるし、ポイ捨ても多い。
そろそろ仕舞いにしよう、と思っていたら重低音のEDMが近づいてきた。カーステレオを改造したミニバンがのろのろ向かってくる(ああいう車はアンプでも積んでいるんだろうかと思うくらいの音量)。
間抜けを下げた俺とオータニの前を通り過ぎて、コンビニの前に停まる。慌てたように降りてきた男二人がバーの裏手に回って、ベルボトムのジーンズのジッパーを下ろす。
「おい、てめえら、やめろ」
自分の事を言われていると気がつかなかったらしい。若者二人が知らん顔をしているのに、オータニが二回目の怒号。
「てめえらだ」
俺はぼんやり思った。派手ではないが、遊び慣れている。目を剥いてにらみつけた前歯が折られたらしく差し歯でそこだけプラスチックのように白い。
「なんだよ、お前らには関係ねえだろうが」
わらわらとミニバンから人が降りてくる。怒るというより、困惑した。思い切って大事にすれば店の人間も気づくかも知れないが、俺たちが袋だたきにされる可能性の方が高い気がする。
「やめとけよ。俺たちは清掃業者だ」
こういうときに一歩踏み込めないせいで、俺はいつも苦労する。分かってはいるが、馬鹿になって殴り合える程理性が薄くないし、義に厚いわけでもない。
「ここで小便をするな、コンビニいけ」
「うるせえ」
殴られておいたほうが丸く収まるな、と思った。ぐっと顎を引いて、軽く握った拳で顎だけを守る。ごっという音と鈍い痛み。眉間のやや上。
先に手を出したのは相手だ。少しくらい殴り返しても良いんじゃないか――そんな誘惑が聞こえてきたところで、オータニの腐ったスニーカーの足の甲が宙を舞った。
驚くほど綺麗な上段回し蹴りの軌道。足下から振り上げるような円弧を描きながら靴先がガキの鳩尾に突き刺さる。空手の様に上足底で蹴る、足先まで鍛えた人間特有の蹴り。たちまちベルボトムのジーンズに失禁の跡が広がる。
困惑から、混乱。さて、どこまでやり返そう? 逃げた方が良いだろうか?
わん、と犬が吠えた。なぜかこんな時に、キーロフが足下で唸っていた。
ガキが騒ぎ出す。キーロフの鳴き声を皮切りに、俺は理性の一部を故意に捨てた。目の前のパンチパーマ。大ぶりの右フック。
中学生の頃、部活の文化祭の出し物で、『公開スパーリング』があった。一年生と三年生が闘う、嬲り殺しの見世物だ。実際に三年生になって分かる。初心者には特有の動きがある。殆ど無意識に初心者は左半身に構え、中途半端に重心を左足に移し、腰の入っていない大ぶりの右か、あるいはクソ真面目に左ジャブの連打の連打か。この場合は前者。
背中を丸め、両拳で頬を守りながら逆に飛び込んでいく。中途半端に顔を守ろうとしてガキが手を振り回したせいで俺の右拳は胸に当たった。突き飛ばすような形でパンチパーマが離れる。
怒号を上げてつかみかかってきた黒Yシャツの男を逆に掴んだ。相手の首の後ろに両腕を回して、しっかりと組む。相手の背骨が曲がるように押さえつけて、相手の眉間と自分の顎が触れあうくらい引きつけるのがムエタイ式の首相撲だと先輩から聞いた。
振り回して開いての踏ん張りが利かなくさせてから膝の内側で脇腹を抉るような蹴り。
視界の端でキーロフが大きくジャンプ。慌てて黒Yシャツの男を放り投げるように放すと特殊警棒の切っ先が頭を掠めた。飛びかかったキーロフの幻覚は牙を剥いていたがそのまま男の身体をすり抜けて落ちていった。
闇雲に振り回す警棒は腕で受けたくない。ボクシング出身の先輩が得意だったショルダーブロックは意外にストリートファイトで有効だ。腰を使い、肩甲骨を回して受ける。
奇声を上げながらオータニが突っ込んでくる。ボウリングのピンを倒すように豪快な跳び蹴りで集団が割れる。オータニはこのどんずまりの街で喧嘩をしているときも踊るように優雅な蹴りを打つのだ。
一際大柄なデブが飛び込んでくる。童顔のくせに無精髭を伸ばしていて、おまけに額が広い。女に困りそうな見た目だが、耳が丸まっているから柔道の経験者かもしれない――
四つに組むのは得策ではないと判断。牽制気味に左右の拳を振るう。
引いた右手を掴もうとデブが一歩踏み出す。指を骨折したら洒落にならない。失業保険なんて無い俺の将来が消えてしまう――コンクリートに投げられたらどうなるだろうか?
キーロフがデブの足に噛み付いている。とりあえず、キーロフに従う。オーバーヘッドフックの要領で左の掌底をデブの眉間に叩き付け、裏拳で鼻を打つ。デブの頭を掴んで顎に頭突きを見舞い、右足を振り上げて股間を蹴る。
「何やってんだ、てめえら」
本職の声は流石だった。下っ端でもヤクザはボイストレーニングでもやっているんだろうか。坊主頭のスーツのヤクザが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ウチの商売に文句あるんか、ワレ」
ヤクザにはやっぱり使うボキャブラリーがただの悪ガキとは違う気がする。血走った目のまま、ガキ八人とヤクザ二人が睨み合う。
オータニがサイケな柄のTシャツの汗で濡らせて、激しい呼吸を繰り返している。キーロフが走った後に舌を出してはあはあするみたいだ、と場違いな事を思った。
「かかってきいや日和佐組が相手になるわ」
ヤクザは関西弁が大好きだ。ガキが唾を吐いてから、ミニバンに引き上げていった。ほろ酔いのOLが足早に脇を抜けていった。ミニバンが発進して始めて、爆音のEDMが垂れ流しだった事に気づく。道理で野次馬が少ないわけだった。
車が走り出して、俺たちの事も目にくれずにヤクザの下っ端二人は店に引っ込んでいった。オータニとキーロフはまだはあはあ言いながら警戒している。
「オータニ、大丈夫か」
ちょっと頬が腫れている。少なくともあの柔道デブと正面からぶつからずに済んで良かった。
「……大丈夫だ」
オータニは地面に唾を吐いて、血が混じっていないことを確認した。
「あんた、蹴りが綺麗だな。何かやってたのか」
ようやく余裕が出てきたのか、オータニはにやりと笑う。
「テコンドーだ。黒帯がどうしても取れなくて赤帯で挫折したんだが、どうだ。絵になるだろう」