プロローグ★
パンジーは年々領土を減らしていた。
東の皇国、西のダリア、北のクレマチス。
その三国に挟まれた小国故の憂いだ。
パンジーの王は病床に伏しながら、そっとベッド脇の椅子に座っている王妃の手を握った。身重の彼女はいつ産気付いてもおかしくない時期だ。
「すまんな……、もう私はお前たちを愛する時間もないようだ」
眉根を寄せ、苦しげに呟く王に王妃はゆっくりと顔を彼の耳元へと近づける。
「何を弱気なことを言っているのです。大丈夫ですよ。それに先の戦いで、皇国との誤解は解けたではありませんか。全てクレマチスの陰謀でした」
「あぁ……だが、そのクレマチスとダリアは未だ攻めてくるではないか」
ゴホゴホと咳き込んだ王の背中を優しく撫でると、王妃は彼の額の汗を白い絹の手拭いで拭き取った。
「……協会に庇護を求めます」
「そうだな。私が死んだら……」
「えぇ。彼らは弱き者に手を差しのべるといいます。それが世界の混沌を生まないことだと」
王妃の言葉に王は彼女の考えを全て悟ったように、僅かばかり開いていた両目を閉じる。つぅっと王の目尻から涙が溢れ落ちたが、今度は王妃が拭うことはなかった。
「……私がいない方が、お前たちが幸せになるのか。それが弱き王に出来る唯一の……だがまさかお前だったとは」
「……ごめんなさい、貴方」
コトリと王妃が机に置いた青い瓶にはもう中身が入ってはいない。全て使いきってしまったのだ。
『この薬は毒ではございません。ただジワジワと体を弱らせ、骨を腐らせるだけ。相手に気付かれぬように、三十日間……一滴ずつ食事に混ぜるのです』
野良の魔法使いの言葉を王妃は思い出す。
国を、子供を守るためにはそうするしかなかった。
「大丈夫です。この子が生まれたら、私もすぐに後を追います。協会の同情を得るためには、赤子一人の方が良いでしょうから。手紙はもう書きました。……後はわかっていますね。モルフォ。よろしくお願い致しますよ」
「は、はひっ……っ!」
王妃が白髪混じりの恰幅のよい宰相に視線を向けると、部屋の隅っこで棒立ちしていた彼は涙を流しながら何度も縦に首を振っていた。
「う……!」
安心したように微笑んだ王妃の顔が歪む。
陣痛が襲ってきたのだ。
小波から大波。周期的にくるようになった痛みの波に、王妃は小さく唇の端を吊り上げた。
「貴方は賢くて勇敢で優しい子になるのよ。貴方の成長を願うために、貴方の成長が見れない両親を許して」
王妃は激痛に悲鳴のような叫び声を上げると、駆けつけてきた産婆の肩を強く掴む。
すぐ隣では王が息を引き取っていた。
これが名付けの義で『色なしパンジー』と呼ばれる少年王デルフトの出生時の出来事であった。