第3話 街娘リーザ、マストヴァル家の旗に狂喜する。
領都マーディラの地下には迷宮のように通路が張り巡らされていた。
マストヴァル家が王家だった頃から存在するもので、男の子とかはよくここで探検ごっこをしては、大人たちにこっぴどく叱られるのだ。
犯罪者が逃げ込む場所でもあるから、子供の頃に近づかないように徹底的に教え込まれる。
私は痛む脇腹を押えながらそこに逃げ込んだ。
あの女性の攻撃でしばらく気を失っていたらしく、意識を取り戻して周りを見渡せば仲間の死体だけが転がっていた。
私もそれらに紛れていたらしく、止めを刺されなかったのがせめてもの救いだった。
たとえ蛮族共がこの地下通路の存在に気付いたとしても、絶対に私たち程知り尽くしてはいない。
所々伏兵が配置されており、周到に罠も張り巡らされている。
むしろ私たちはここを主戦場に戦いたいぐらいだった。
……そうすればこれ以上大好きな街を壊されずに済むし。
私は都の区画と暗い地下通路とを、頭の中の地図に照らし合わせながら物音を立てずに進んでいく。
何度も歩いているのに、暗いせいでいまだに遠近感が掴めない。
それでも迷うことは無く、身体を引きずりながらようやく目当ての場所にたどり着いた。
まずは周りを見渡して誰にも付けられていないことを確認する。
そして、ただでさえ暗い通路なのに、更に目立たないよう細工された扉の前に立った。
当然ドアノブなんて目立つような物もつけられていない。
おそらく扉の向こうでは、私の気配を感じた番兵が息を殺して武器を構えていることだろう。
私は大きく深呼吸して、まずはノックを二つ。――領主アラン様の御子様二人。
少し間を空けてノックを三つ。――領旗にあしらわれた三色。
最後に一つ。……心を籠めて。――自分が最後の一人になっても戦い続けるという覚悟。
『――ヴァルグランで最も愛されている花の名は?』
ドア越しにくぐもった声が聞こえる。
合言葉だ。
「――ディアナ」
私がはっきりと告げると、扉がゆっくりと開いた。
「リーザ! 無事だったのか!」
その安堵の声でまだ帰ってきていない――つまり返り討ちに遭ってしまった仲間が多数出てしまったことを悟った。
暗い所を歩いてきたから、アジトの明かりが妙に眩しい。
ただ、みんなと合流できたことで、ようやく張りつめていた緊張が解かれてくるのを感じた。
ほっとして身体から力が抜けた瞬間、脇腹に強烈な痛みが走る。
服を巻き上げて覗き込むと、やっぱり青い痣ができていた。
見るんじゃなかった。……痛い。もう色からして痛い。
だけどこんなモノ。
殺されたり、剣で傷つけられた人たちに比べれば、全然大したことない。
……大丈夫、私はまだ戦える。
いまだ行方不明のカイル様のことを思えば、私は何度でも立ち上がることができる。
……カイル様。
ヴァルグランの次期領主、カイル=マストヴァル様。
私たち領民の最後の希望。
私は何度もお忍びの彼に逢っている。
彼が街を出歩くのはよくあることだった。
名目は若い頃のアラン様に倣って、愛すべき領民の実情を知ること。
だけど本当の目的は画材の物色だ。
領主の御子息だけれど、それに見合うだけのお小遣いはもらっていないらしく、いろんな店を覗いては値札を見比べ、出来るだけ質のいい物をと真剣な目で物色していた。
ヴァルグランの民ならば子供の頃に一度は通る道だ。
こうして画材に対する目が肥えてくるのだ。
街の皆もそんな彼に出来るだけ声を掛けないようにして、微笑ましく見守っていた。
私も戦争が始まる前までは実家の画材店で働いていた。
その店もレジスタンス共に滅茶苦茶にされてしまったけれど……。
ウチはあまり裕福だとは言えなかったが、売り物にならない筆や画材なら好きなだけ使ってもよかったので、子供の頃から絵を描く分には不自由はなかった。
そんな私の渾身の一作が城に飾られることになったとき、両親は大変喜んでくれたものだ。
飾り終わった絵がこちらに戻ってきてからも、父は誇らしげに大通りからも見える一番目立つところに飾ってくれた。
そしてその絵を見たカイル様が興奮気味に店内へ飛び込んできたのだ。
「あの、この絵は!」
たまたま店番をしていたのは私だけだったので、ちょっと困ったが正直に私が描いたと伝えた。
「僕、この絵が一番好きだったんです!」
彼の尊敬の籠った視線に見つめられ、私の身体が震えた。
その瞬間私はあっさりと恋に落ちたのだった。
五つも年下の少年だったのは分かっていたが、それでも。
好きなのは絵であって私ではない。それも分かっている。
――それでも。……恋をした。
「……僕に絵を教えてくれませんか?」
おずおずと、だけど意志の強そうな表情でカイル様が私の手を握った。
湯あたりになったときのように、顔中が熱くなったのを今でも覚えている。
一度はあまりに恐れ多くて断ったが、あまりにも熱心にお願いされたので、定期的に通っていただくことになった。
最初は私がお城に出向くつもりだったけれど、カイル様ができるだけ他の人に知られたくないとおっしゃったのだ。
それからは絵の練習の為に毎週のようにお会いした。
私にとってそれは至福の時間だった。
全ての領民に愛されているカイル様をこの瞬間だけは私が独り占め出来るのだ。
それだけに、汚れてもいいような服を着ているのが悔しくて仕方なかった。
もっと綺麗に着飾った私を見て欲しかった。
実はお忍びで何度かその練習風景を、お母様であられるディアナ様が見学されたこともあった。
カイル様に気づかれないように物陰からそっと。
そのお姿に両親が物凄く恐縮していたのを覚えている。
……ディアナ様のことを思うと今でも胸が痛む。
この痛みはおそらく一生忘れないだろう。
あの御方は私たち領民の憧れそのものだった。
領主アラン様に見初められた田舎娘の恋愛物語は、ヴァルグランに住まう全ての娘の胸に刻まれている。
私たちと同年代のアンジェラお嬢様は、母親のディアナに似てとても美しい御方だったけれど、どこか高貴な香りがして初めから手の届かないと諦めてしまう感じ。
――だけどディアナ様は違った。
魂が私たちに近いのだ。
一度ディアナ様とお話させて頂くことがあった。
そのとき彼女は仰ったのだ。
「貴女からは画材の匂いがするわね」と。
もし他の人から言われたならば、きっと侮辱されたと感じただろう。
だけどそのときの私は心の底から喜んだのだ。
そしてディアナ様はこうも仰った。
「私もまだ土の匂いがするでしょう?」と。――カイル様そっくりの笑顔で。
お風呂に入ったら、画材の匂いも土の匂いも取れる。
だけど魂に染み付いた匂いまでは取ることはできない。
これはその仕事に誇りを持っている証だ。
私はその言葉の意味を正確に受け取ることが出来たと思う。
ディアナ様はそんな私の笑みに頷くと、「どうか息子をよろしくお願いします」と丁寧に一礼し、軽やかな足取りでお城へと戻られたのだった。
私がもう二度と取り戻せない幸せな思い出に浸っていると、男の人が物凄い勢いで駆け込んできた。
もしかして地下通路が見つかったのだろうか?
皆も警戒感を露わにし、武器を握り腰を上げた。
私たちが彼が何を言うのか、どうするのか、何が起きたのかと固唾を飲んでいる間、彼は俯き何度も咳き込みながら呼吸を整えていた。
その時間がもどかしかった。
それでも黙って彼の様子を見つめていた。
彼は顔を上げると笑顔になった。
「……帝国軍と連絡がついた。……城を奪い返してくれるそうだ。……総大将は……カイル様だ!」
沈黙が続いた。
私も正直言っている意味が分からなかった。
総大将がカイル様ということは……。カイル様が生きておられたってこと?
男が反応できない私たちに対して、じれったそうに声を荒げる。
「帝国軍の総大将はカイル様! カイル=マストヴァル様だ! 俺たちの領主様がヴァルグラン奪還の為に戦場に立たれたのだ! ……さぁ、もう一度街で暴れるぞ! こちらに目を向けさせて帝国軍を援護するんだ! 俺たちのカイル様の初陣だぞ! 合図が来るまでに準備を済ませておけ!」
今度こそちゃんと理解できた。
誰かが吠え始めると、続々と皆が吠えた。
もちろん私も吠えた。……力の限り。
カイル様の指揮で仇が討てる。
アラン様の、アンジェラ様の……ディアナ様の。……街で平和に暮らしていた大好きな父さんと母さんの。
皆が何度も何度も吠えていた。
歓喜の涙を流しながら。
そこからはあまり覚えていない。
ひたすら戦った。死に物狂いだった。
……もう死んでもよかった。
私の流す血の一滴一滴がヴァルグランを取り戻す力になるのなら、喜んで全ての血を差し出せるとさえ思えた。
カイル様の為ならば何でも出来た。きっと皆も同じ思いだったに違いない。
一体どれぐらいの時が過ぎただろう。
街の至る所から歓声が上がり始めた。
何故か私は反射的に王城を仰ぎ見る。
そこには、……私たちの旗が揚がっていた!
三色に彩られた下地に鷲があしらわれたヴァルグランの領旗。
我が家でも祝日には必ず揚げていた旗。
私たち領民が見間違いようの無い旗。
それが意味するのは……。
私は無意識のうちに拳を突き上げていた。
この光景を目に焼き付けておこう。
雲ひとつない一面の真っ青な空。
緑鮮やかな山の稜線。
美しい白壁が映える歴史ある王城。
そして風を受けて、はためく領旗。
喜びに震える民衆。
沸き上がっている歓声まで聞こえてくるような、そんな魂を込めた絵を描いてみせる。
完成したらカイル様に見て頂くのだ。
「さぁ、あのクソッタレ共をこの都から追い出すぞ! もう一頑張りだ!」
「ここまで頑張ってきて死ぬのはただのマヌケだぞ! みんな生きて勝利を祝うんだ!」
「今夜は一晩中騒ぐからね!」
どこからともなく声が上がった。
そうだ。生きて勝利を味わうんだ。
絶対に死なない! カイル様に一目だけでも会いたい!
みんなで顔を合わせて頷き、鼓舞しあう。
もう少しで私たちは取り戻すことができる。
失われた命はもう戻らない。そんなことは百も承知。
だけど、……それでも、私たちは取り戻すことができる!
これまでとは違う力が私の身体を動かしていた。
やがて閉じられたままだった北の大門が大きな音を上げて開く。
そこから帝国軍が一気に雪崩れ込んだ。
その日、補領ヴァルグランは本来の主の元へと返された。




