第10話 宰相ニール、動く。
「――せめて一矢報いることぐらいできただろう!」
私は怒りに任せて、おめおめと戻ってきたコール将軍の顔を殴りつけた。
……本当は分かっている。
大局を見れば彼の判断の方が正しいのだろう。
私が個人的にやりどころの無い感情をぶつけているだけの話だ。
だが彼は何かを言い返すこともなく、不条理な私の拳を何度も受け続けた。
私が殴り疲れてその場にしゃがみこんでしまうと、彼は静かにそして丁寧にこれまでの経緯を説明し始めた。
軍を率いていながら、味方を救うことはおろか戦うことすらできなかったと。
それを報告するのは惨めな気分だったに違いない。
それでも彼は職務に忠実だった。
余計な言い訳をすることもなく、淡々と事実のみを報告しそのまま退室していった。
扉の閉まる音でようやく私は我に返り、彼の報告の意味を理解することができた。
将軍は確かに全軍撤退の命令をしたが、信頼できる部隊に密命を与えていた。
その結果、彼らは誰に知られることもなく、行方不明だった息子のカイルを保護したという。
そのまま彼の指示でこの城ではなく、直接私の屋敷へ送り届けたという。――人目を避けさせて。
彼が生きていることを公表するのはいつでもできる。
それよりもまずカイルの心の安定を。
彼はそのように気を配ることのできる優秀な将軍だった。
感情に任せて殴ることしかできなかった自分とは大違いだ。
フリッツを呼び出し外出する旨を告げ、馬車を急がせ屋敷に戻ると執事が出迎えた。
主の許しも得ず、自分の判断で勝手にマストヴァル家の領主印をもった少年を家に迎え入れたと報告を受ける。
代々アンダーソン一族に仕える者たちだけあって、事情を察してくれたらしい。
用意された部屋の前まで行くと、屈強な兵士たちが直立不動でその場を守っていた。
彼らに交じって将軍もいる。
「心ばかりの礼だ。受け取ってほしい。これで美味い酒でも飲んでくれ」
私は無表情のまま、兵士の一人に報奨金の入った布袋を押し付ける。
彼はその重さに驚いたが、将軍が頷くと彼は深々と一礼して他の者たちを連れて屋敷を後にした。
まずは改めてコール将軍には謝罪しないといけない。
「……本当に申し訳なかった。恥ずかしい限りだ」
顔が腫れ上がっている風には見えなかったが、口の中をケガさせたかもしれない。
深々と頭を下げる。
「いいえ、軍人たるものこれぐらいはいつものことです」
私が顔を上げると彼は笑みを浮かべていた。
「そんなことよりも、宰相殿は人を殴り慣れておりませんな」
「あぁ、人を殴ったのは生まれて初めてのことだ。……そんなことも分かるのか?」
それを聞いてコール将軍は破顔する。
全く効かなかったそうだ。
むしろ私の手首のほうが心配だという。
彼は「もっと腰からこうです」と実演して見せてくれた。
「……次の機会までに覚えておこう」
私が頷くと、彼は声を上げて笑った。
彼はしばらく笑うと、気を取り直したように直立し神妙な顔を見せた。
「宰相殿がマストヴァル様のことを弟君のように大事に思われていたことは皆知っております。今回のことでどれほど心を痛めたのかも……。職務を果たせず弁解の言葉もございません」
今度は彼が身体を折るようにして深々と頭を下げる。
何を謝ることがあるというのだ。
向こうがこちらを出し抜いただけの話だ。
むしろそれを見抜けなかった上に癇癪を起した私こそ謝らなければならない。
「将軍はあの中でよく最善を尽くしてくれたと思う。おかげで未来の芽を摘まれずに済んだのだ。心よりの感謝を」
「……失礼だとは思いますが、宰相殿にも人の心があったのだと知ることが出来てホッとしております」
なかなかの言葉に思わず笑ってしまう。
彼はじっと私を見つめたかと思うと、いきなり膝を付いた。
「私は自らの意志で宰相殿に付いていくと決めております。――たとえ女王国から勧誘があったとしても、です。貴方が正しいと、そう判断したからです。どれだけ悪評が広がろうとも真実までは覆い隠せません。……ですから、何もかも全てを背負おうとせず、もう少し我々を頼ってください!」
そのような言葉をもらえる日が来るとは思っていなかった。
私は皆に嫌われているのだと、味方などほとんどいないのだと、そう思っていた。
余程私は呆けた顔をしていたのだろう。
コール将軍が噴き出すように笑った。
「そのような顔を他の者にもお見せください。そうすればきっと貴方のもとへ人は集まります。どうか肩の力を抜いてください」
それだけ言うと彼は一礼し、颯爽と立ち去って行った。
深呼吸して部屋に入ると、少年――カイル=マストヴァルが椅子に行儀よく背筋を伸ばして腰かけていた。
……しばらく見ないうちに随分と大きくなった。
彼は物音に気付いたのかこちらに視線を寄越す。
入ってきたのが顔見知りの私だと確認すると、彼の目に涙が盛り上がってきた。
私は無言で近付き抱きしめる。
今まで気丈に振舞っていたと将軍からも聞いていた。
もう大丈夫だ。無理しなくてもいい。
その想いを込めて、強く抱きしめた。
徐々に彼の身体から力が抜けていくのを感じる。
そして堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
カイルのそんな姿に、改めて彼らを失ったのだという現実を突き付けられた思いがした。
ようやく落ち着いたカイルから、皺だらけになった手紙を手渡された。
絶対に離すまいと、ずっと大切に握りしめてきたのだろう。
「……姉様からです」
彼の震える手から受け取り、開くとそこには短文が二行。
『どうか弟をよろしくお願いします』
『あなたを愛しています』
たったそれだけだった。
余程急いでいたのだろう、彼女らしくもない乱筆だった。
今まで何十通も彼女から手紙を受け取ってきた。
それこそ幼い頃からずっと、事あるごとに、だ。
こんなことがあった、これができるようになった、と他愛のない手紙。
だが子供ながらに何度も推敲し清書したであろう手紙。
どれだけ疲れていても彼女からの手紙を読むだけで、何とか心の平衡を保つことができた。
私だって人間だ。罵声を浴びせられると傷つく。
そんな私を彼女が癒してきたのだ。
「……アンジェラ……」
その愛しい名前を口にした瞬間、失ったモノの大きさを痛感する。
私はこんなにもあの娘に救われてきたのか。
――これが彼女から貰う最後の手紙。
私はその短い文を何度も何度も読み返した。
そこに込められた切なる想いを噛み締めながら。
「……姉様を守れなくて済みませんでした」
私のそんな姿を見てカイルが再び涙を零す。
マストヴァルの男として恥ずかしいと。
だが追い詰められた状況で、たかだか十を幾つか越えただけの少年に何が出来たというのだ。
それを言えば援軍の要請を受けておきながら、届けることが出来なかった私こそ――。
彼ら家族の中では、既に私と彼女の結婚は近い未来の話だったと聞いている。
もし彼女が年頃になって私の元へと押し掛けてきたのなら、喜んで妻として娶っていただろう。
だがそれも平和な日々が続くならばという条件がつく。
私は今まで何度も命を狙われ続けていた人間だ。きっとこれからもそうだろう。
そんな男に嫁いで幸せになれるとも思えない。
ましてやあの娘は母君のお腹の中にいる頃から知っている娘だ。
彼女には幸せになって貰いたい。私はそれだけを願っていた。
「……彼女はどんな顔をして君を見送っていた?」
「……とても晴れやかな笑顔でした」
「そうか」
きっと彼女は彼女らしく天に召されたのだろう。
父のように清らかで、母のように美しく。――まるであの麗しいヴァルグランの地そのもののように。
いつまでも引きずっている訳にもいかない。
私は大きく深呼吸して気を取り直した。
「ヴァルグランのことは聞いているか?」
「……はい」
カイルが悔しそうに顔を歪ませた。
そんな彼の視線に合わせてゆっくりとした言葉で伝える。
「私はヴァルグランを奪い返す」
その言葉で一瞬にして彼の目に光が戻った。
「私は今から城に戻り、君を領主に指名する為の書類を揃えるつもりだ。おそらく近日中には手続きも終わるだろう。……いや終わらせてみせる」
私の力を込めた言葉に頷くカイル。
「誰が何と言おうと君が正当な領主だ。領主印も持っている。君がヴァルグランの地に戻るのを阻む存在は名実ともに帝国の敵となる。……別にレジスタンス共は何とも思っていないだろうが、この状況を静観している者ならどちらに大義があるかは明らかだろう。正当性というのは立派な武器になる」
今はまだよく分からなくてもいい。
ただ彼が正当なヴァルグランの主だと自覚さえしてくれればそれでいい。
彼は私の目を見て逸らさず、私の言葉を一生懸命理解しようとしてくれていた。
「君を旗印として反転攻勢を仕掛けたいのだが、引き受けてくれるだろうか?」
「もちろんです」
カイルが即答する。
「君自身が帝国軍の旗になるのだぞ? 命を狙われることにも――」
「覚悟の上です」
私の言葉を遮ってまで返事するその態度に彼の並々ならぬ決意を感じる。
私は彼を利用しようとしていた。
……こんな幼い少年を。彼らの忘れ形見を。
本当なら絶対に危ない目に遭わせてはいけないのに。
それでも私は彼を戦場に立たせようとしている。
それが一番効果的だからだ。
私は本当に酷い男だ。
「……すまないな。君なら絶対に引き受けてくれると分かっていた上でのことなのだ」
「構いません。どうぞこんな私で宰相殿の力になれるのであれば、それに勝る光栄はございません」
そう言って晴れやかな笑顔を見せる。
……本当にこの親子は、何故こんなにも私を信頼してくれるのだろうか。
何故こんなにも私に温かいものを与えてくれるのだろうか。
今は亡き彼らを思い出して胸が痛む。
私は気を抜くと溢れ出しそうな涙をこらえながら、必要以上に厳しい顔を見せて彼に向き直った。
「ではそのように準備させてもらう。それまでは私の屋敷で体を休めてほしい。時が来たら存分に扱き使わせてもらう。覚悟しておいてほしい」
「はっ!」
カイルは真面目な顔で恭しく一礼してみせた。
その姿を生意気と取るか、それとも頼もしいと取るか。
彼が顔を上げると、ようやく子供らしい笑顔に戻っていた。
それを受けて、私も数か月ぶりに笑顔をつくることができた。
屋敷の者に彼をゆっくり休ませるように手配しておき、私は執務室に戻った。
急いで領主信任に必要な手続きや臨時議会の開会通達などの指示を出す。
それらが一段落し、ようやく冷静になった頭で思考を巡らせることが出来た。
――それにしても軍に対する工作とは随分と卑怯な手を使ってくるものだ。
もちろん戦争に綺麗も汚いもないことは知っているが……。
改めて提出されたコール将軍からの報告書を読み込む。
それによると、全ての輸送馬車の車軸に不可解な切れ込みなどの欠損があったという。
おそらく負荷の掛かりやすい山道などで壊れるように調整されていたのでは、とのこと。
さらに兵糧に眠り薬やら下し薬などが仕込まれていたとも。
他にも死者こそ出ていないものの進軍を遅らせる為の工作が多数仕込まれていたらしい。
それでも……いや、だからこそ、悪辣だった。
戦争という極限の状況にも関わらず、こんな相手を小馬鹿にし挑発するような一手を打てる人間など、私は一人しか知らない。
――メルティーナ。……これがお前の選んだ道なのか?
一族の誇り、両親から頂いた名前、ありとあらゆるモノを全て捨ててまでやりたかったことがコレなのか?
こんなことをしてまで手に入れたいものが、この内乱の先にあるとでもいうのか?
お前の作り上げたレジスタンスは本当にこれを良しとしているのか?
もしお前が人としての誇りまでも捨てたと言うならば、私は一族の者として――何より兄としての責任を持ってお前の首を刎ねよう。
後日全ての準備が完了したことを受けて、帝国臨時議会が開かれた。
議場に入るとやはり空席が目立つ。
レジスタンスに加わった貴族や、傍観を決め込み領地に引き籠った領主の席がそれだ。
招集に応じ、ここに揃っているいる面々は、皆私に近い者ばかりだ。
フリッツから小議場を使うよう提案されたが、あえてこれらの空席を目立たせるために本議場を使うと決めた。
「本日、皇帝陛下よりカイル=マストヴァルをヴァルグラン領主に指名するとの発議がございました」
私の言葉と同時に礼装した彼が入場し横に立つ。
背の高さは私の胸までしかない。
そんな彼を見て議場がどよめいた。
「「異議なし!」」
次々に賛同の声が上がり、全会一致で彼は領主として認められた。
カイルがそれを受け、壇上で一礼しヴァルグラン領主の席につく。
それを全員が拍手で迎え入れた。
議会に参加した皆もヴァルグランの状況は入っている。
自分の息子か孫のような年齢の彼が、健気に振舞っているのを見て、各々気持ちが引き締まったに違いない。
ようやく拍手が止み、落ち着いた議場で、フリッツがレジスタンスの近況報告を始めた。
ロゼッティアのホルスがポルトグランデを離れたという。
同じようにレジスタンスに肩入れしていた他の領主たちもそれに続いたらしい。
どうやら女王の差し金とのことだ。
最悪を避ける為のいい判断だと思う。敵ながらあっぱれだ。
女王国自身もレジスタンスから少し距離を置いている模様とのことだった。
私は満を持して方針演説の為に檀上に立った。
皆の視線がこちらに集まる。
「まずは敵味方の区別から始めなくてはならない。……敵とはこちらに向かって武器を振り上げる勢力のこと。私はそう定義する。味方はそれ以外だ」
中立の立場の領主や執政官は敵ではない。
むしろ敵の敵にすべき。
その為には決して彼らを刺激してはならない。
そして女王国はその最たるものだ。
「……女王国はあの古都での一戦以降出陣はしていない。少なくともヴァルグラン攻防戦には参加していない。彼らは元々レオナール殿下派の貴族共と反目している。そして今回の件でそれが決定的となったようだ」
レジスタンスは決起に際し、長兄殿下の皇帝即位の約束を反故にした。
そしてそれを主導したのが女王だと聞かされている。
それが原因でことあるごとに女王に突っかかっていたらしい。
「おそらくこれから始まるヴァルグラン奪還戦でも女王国は出てこない。少なくともレジスタンスが追い詰められて、女王国に対して頭を下げるような状況にならない限りは出さないだろう」
女王国はホルスたちを上手く使ってこの状況を利用し、最大限に自分たちの価値を高めにくるはず。
安売りはするまい。一番高値になる瞬間を見極めて動いてくるだろう。
逆に言えばその状況になるまでは、絶対に動かない。
レジスタンスを見捨てはしないだろう。……だが勝たせることもしない。
内乱に乗じて立場強化を企てる。
これは過去において帝国も使ってきた手だった。
「教会は風見鶏だから放っておけ。どうせレジスタンスの旗色が悪くなればすぐにこちらになびく。……そしてもう一つ」
やはり口にするのに躊躇いがある。
一呼吸おいて、私は告げる。
「ヴァルグラン奪還作戦の総大将はカイル=マストヴァル殿にお任せしたい」
議場がどよめいた。
だが当のカイルは平然とした顔をしている。
昨夜彼からどうしても自らの手でヴァルグランを取り戻したいと告げられたのだ。
その為に力が欲しいと。
彼を戦場に出すつもりではあったが、それはあくまで反転攻勢の象徴としてだ。
せっかく助かった命を何故とも思ったが、彼ら領主の想いは私たちに計り知れないものがあるということも知っていた。
だから了承した。
「皆もどうか彼に力を貸して欲しい。私はカイルに親の仇を取らせてやりたいのだ」
できるだけ冷静に告げる。
それでも皆は完全にその気になっていた。
この熱はポルトグランデにも伝わるだろう。
あちらもきっとこちらは全力でヴァルグランを奪還しにくると考えるはずだ。
だからそれを利用させてもらう。
「――だが、本命は―――――」
カイルにもそのことは伝えてある。
彼もそれを受け入れてくれた。
ならば、もう迷わない。
この機会を徹底的に利用してやる。
――それがアンダーソン一族のやり方だ。
「……皆が頼りだ。どうか協力をお願いしたい」
私は話し終わると丁寧に頭を下げた。
皆がそれに拍手で応えてくれる。
その光景を見渡しながら私も覚悟を決めた。
――さぁ、反撃開始だ。
これで8章は終了です。
物語の為に必要とはいえ、モヤモヤ感満載でお送りしました。
次章である程度のケリがつく予定です。
アリスがスカッとさせてくれるハズです。……たぶん。
それではこれからもよろしくお願いします。