第8話 兄嫁エマ、山の暮らし改善を実感する。
山の暮らしが驚くほど良くなった。
男衆が汗を流せば流すほど村が潤っていく。
今まで口うるさいだけだと思っていた長老が的確な指示を出していた。
ここは根っこが張りすぎて土が脆く崩れやすいから株ごと引っこ抜けだとか。
ここは木を残せとか。
どうやら私たちが生まれる前の知らない昔にあった災いことをあれこれ思い出しながらの指示らしい。
そんな昔話を聞きながらダンさんが指揮を取る。
そうやって森が拓かれていき、農地が増えていく。
木を切る、石を掘る。
今までとやっていること自体は同じなんだけど、結果が全然違うのだ。
役人が定期的にやってきて、その木や石をちゃんとした値段で買い取ってくれる。
村はそのお金で食べ物を買い、布を買う。
種や苗も買う。
帝国で使われているらしい農具も買って畑を耕す。
果実が生る樹を植えて頑張って育てる。
そして村が豊かになっていく。
もちろん女衆もそれを支えるためにできる限りのことをする。
働く男衆のためにみんなで大騒ぎしながら飯を炊く。
服を洗い、破れたものは繕う。
その間、幼い子供の面倒は年寄りがしてくれることになっていた。
今までは誰かが抜け駆けして美味しい思いをしないように、お互い距離をとって顔色を窺っていたけれど、今はみんなで声を掛け合い助け合って暮らしている。
私自身も昔と比べて随分と話すようになったと言われた。
村によって色々違いはあるようだ。
この村は質のいい木材が豊富なので、最近では村のあちこちで新しい家が建ってきている。
ウチも先月、家が新しくなった。
以前の隙間風が入る寒い家で息子を育てるのは心配だったが、これで安心だ。
昔から冬山の寒さは子供を容赦なく奪っていくから……。
旦那は昔から手先が器用なので、家を造るのに引っ張りだこだ。
村の空き地には学校という物も建設中らしい。
何でも子供たちに読み書きを教えるところだとか。
大人も希望する者があれば別の時間で教えてくれるという。
以前都で役人をやっていて今は引退した人が先生をしてくれるらしい。
この学校というのは他の村でも作られているという話だ。
本当に子供を安心して育てられるようになった。
私たち夫婦は仕事があるから村に残ることを選んだけど、妹夫婦は新しい街道沿いの開拓村に引っ越すことに決めた。
この前会ったときは慣れない農作業で腰が痛いと嘆いていたが、国から与えられた農地を大事に耕しているという。
どうすればいい作物が採れるのか、帝国から来た先生がいろいろと教えに来てくれるらしい。
妹は今度会えるときはいっぱい出来たものを持ってくると言って笑顔で帰って行った。
きっとアリス様がこの村に現われたあの日から、私を取り巻く世界の全てが変わったんだと思う。
彼女が『未来』と口にした時のことを私は一生忘れないだろう。
夫もブラウンも気付いていなかったみたいだけど、彼女がその一言を口にしたあのとき、確かに息子のことを見つめていたのだ。
ウチの子供が『未来』なんだと言ってくれた。
そのとき、私の中で何かが生まれたような気がしたのだ。
だから私は彼女を信じようと思った。
その証として私は自分にできる限りのことをすると決めた。
一生懸命村のために働く。そして息子を立派に育てる。
それがいつの日かアリス様の力になるのだと信じている。
先日、こんな山奥の村にも戦争で勝ったとの一報が入った。
聖王国征伐に引き続きのお祝い事だ。
何でもエリーズという街を手に入れたとか。
どうやら元聖王国領では大変な騒ぎらしい。
山だから入ってくる情報も少ないが、それでも興奮の度合いは十分伝わった。
そしてその戦争の殊勲者としてブラウンの名前があった。
これも前回に引き続きの話だ。
今では不敗将軍として、国中で有名になっているらしい。
もちろんこの村でも大人気だ。
少年たちは木の枝を剣に真似て、ブラウンごっこなるものをしている。
男の子が生まれたらブラウンと名付けるとか、そんな話も出てきているようだ。
何故か兄嫁の私まで持て囃されるのが、少々気恥ずかしいような嬉しいような。
ブラウンのことをよく知らない若い娘たちが、仕事の休み時間に昔の彼はどんな感じだったのかを聞きに来るようになった。
彼女たちは彼のような男性と結婚したいと、少し夢見がちな可愛らしい笑顔を見せるのだ。
大人の女として、そんな彼女たちの夢を壊す訳にもいかない。
だから彼の好きだった食べ物だったり、子供の頃に好きだった女の子がどんな娘だったのかを教えてあげたり、おねしょを何日連続でしたかといった、当たり障りのない話しかできなかった。
そんな話でも彼女たちは嬉しそうに耳を傾けるのだ。
もうあの頃の見るに堪えない腐ったような彼は、どこかへ消えてしまったのだろう。
小さい頃のブラウンは甘えん坊だったけど、とても優秀な子だった。
彼の両親や兄である夫も期待していた。
字を覚えて、元役人だった爺さんの持っていた本を読み漁っていた。
本当に村で一番、いや近隣の村でも一番賢い子として有名だった。
末は都の役人、それも公の側近まで上り詰めるのではないかと、誰もがそう信じて疑わなかった。
その彼が両親の死をきっかけに、みるみる自堕落になっていった。
夫がどれだけ叱咤しても全く言うことを聞かなくなった。
私はそれが歯がゆくて、ついつい彼に冷たく当たる。
そして彼はそんな私を鬼を見るかのような目で見ていた。
結果として彼はまだ少年と呼べるような時期に家を飛び出し、転々とし、最後は野盗にまで成り下がったと聞いた。
その話を聞いた夫の落胆ぶりは凄まじく、表情から完全に生気が消えてしまった。
息子が生まれてようやく笑うようになったが、大好きだったあの頃の素敵な笑顔が戻ることはなかった。
もう少しブラウンの話を聞いておけばよかったのか、彼なりに何か思うところがあったのではないか。
そんな風に自分自身を責めることもあった。
だけどあれから十数年が経って、アリス様が彼を見つけてくれた。
彼の才能を見抜いて側に置き、今では女王国に無くてはならない存在になったと聞いている。
彼にとっては途轍もない遠回りだったかもしれないが、本当によかったと思う。
……心からそう思う。
「……ただいま、エマ」
夫が帰ってきたようだ。
彼は家に帰ると、真っ先に息子を抱きかかえる。
少女の頃の私が恋い焦がれていたあの素敵な笑顔で……。
「……おかえりなさい。御飯ができていますよ」
食卓に腕によりをかけた料理を並べていく。
以前よりもずっとに豪華になった夕食。
貴族様には遠く及ばないだろうけど……。
だけど愛する人の為に心を込めて作った料理だ。
それを夫は美味しいと頬張ってくれる。
そんな彼を見るのが幸せ過ぎて堪らないのだ。
「……なぁ、聞いたか?」
夫が嬉しそうに弾むような声で聞いてきた。
そういうときは大抵彼のことに決まっている。
「ブラウンのことでしょ?」
「あぁ、やっぱりアイツは大した奴だな」
そして笑顔になる。
本当にこの人は弟のことが好きなんだなぁって思う。
そんなところも大好きなのだけど。
息子を子供用の寝台に寝かせて、私も夫の晩酌に付き合う。
寝台は夫が少ない休みの日にコツコツ作った自慢の逸品だ。
寝返りをうっても転げ落ちないよう木枠で囲まれており、その辺りに息子への愛が溢れていた。
同じような年齢の子供を持つ仕事仲間が「是非ウチの子にも」と夫に頼み込んだので、同じものをいくつか作っていた。
それからだろうか、いつかいろんな家具を作って商売したいと言うようになった。
もちろん私も大賛成だ。
生気を無くしていた彼が、こうして『未来』の話をするようになったのが何よりも嬉しかった。
夫は最近酔いが回ってくると、よく息子の将来の話をするようになった。
学校の建設を手伝い始めてからというもの、何やら思うことがあるらしい。
息子は将来どんな大人になるのだろうか、それを熱く語るのだ。
私はそれに相槌を打ちながら耳を傾ける。
「この子はブラウンの小さい頃にそっくりだ。ダンのやつもそう言っていた」
大抵そこから始まる。
血の繋がった叔父と甥なのだから当然のことだ。
ましてやこの頃の顔なんて、みんな似たようなモノだと思う。
でもこの前それを言ったら、ちょっと悲しそうな顔をしたので、もう二度と言わないと心に決めた。
「ちゃんとした先生に教わったら、この子も立派な人間になれるはずだ」
彼が立派になったのは最近のことで、それまでは目も当てられない有様だったんだけど。
……まぁそれも言わない。
「アイツのように将軍になって国の為に命を懸けて戦うのも悪くないけど、俺は役人のように皆の生活を守る仕事に就いてほしい」
……アリス様が立ち上がるとき、夫も義勇兵として武器を手にした。
人を傷つけるのを嫌がる彼が、だ。
いつだったか、もう随分と前のことだけど、本当は誰にも剣を向けたくなかったと呟いた。
それでも私や息子の『未来』を思って彼女に自分の命を託したらしい。
たとえ戦死したとしても彼女なら私と息子のことを何とかしてくれると信じていたと……。
「そうだね。……でもこの子が大きくなる頃には、もう戦争なんて終わってるかもよ。そのためにブラウンも頑張ってくれてるんだし……ね?」
これは私のただの願望でしかない。
根拠なんて何もない。
でも、そう思いたいのだ。
アリス様やブラウンならできると、そう信じたいのだ。
「……あぁ。アイツにはこれからも頑張ってもらわないとな」
「……うん」
少し沈黙が続いた。
「……なぁ、話があるんだが、な……」
何やら神妙な顔をする夫。
買いたい物でもあるのだろうか。
「……なに?」
「……その、今はまだ忙しいから、ちょっと、だけどな。もう少し落ち着いたら、それこそ学校が出来たらな……。もう一人欲しいんだけど、……いいかな?」
私は何も答えずに、照れたように下を向く彼の手を強く握った。
どうか、いつまでもこの幸せが続きますように。
二人で寄り添いながら寝台で幸せそうに眠る我が子を眺め、私は毎晩そう願うのだ。