第9話 ドーティ、アリスとの別れを惜しむ。
「――そんな! もっとゆっくりしていってもいいんだぞ?」
晩飯の最中、いきなりアリスが明日の昼にはここを出るなんてことを言いだした。
確かに数日間の滞在という約束ではあったが、あまりにも急な話だった。
「お客さんの数も落ち着いたし、もう私がいなくても大丈夫でしょ」
俺の心の内も知らずに、彼女はいつもの笑顔でそんなことを言うのだ。
そしてその言葉で俺は、男として見てもらえていないという現実に晒される。
「……別に急いで出て行かなくてもいいじゃないか? 宿代はもう十分貰っているし、給料だって今まで通り出す」
女々しいかもしれないが、ここにいつまでも居てくれてもいいと伝えた。
「……うん、ありがとね。でも私、やらなくちゃいけないことがあるから……」
「そうなのか?」
「うん。だから、ごめんね」
「……いや、俺こそ引き留めるようなマネをして悪かったな」
「それは全然。……うれしいよ」
さっきとは少し違う悲しそうな笑顔を見せるアリスに、どうしようもなく惹かれている自分を自覚した。
「また、この町に来てくれるよな。それとも、もう会えないのか?」
「……いつになるかは判らないけど、私たちはそう遠くない未来で会えると思うよ」
「……そうか、それならいいんだ。……そうだな、今度会うときは剣の打ち方でも教えてくれよ」
照れ隠しでこんな言い方しかできないから、俺はいつまでたっても結婚できない。
分かっている。
でも俺はどうしようもないヘタレなんだよ!
「それなら、明日の開店前に教えよっか? ドーティは基本は完璧だからあとはコツさえつかめば私ぐらいの剣、すぐに打てるようになるよ」
……いや、そういう意味ではないのだが。
ただ約束が欲しかったというか、何というか。
まぁ確かに一人の職人として剣の打ち方は教えて貰えるのなら有難いが。
……まぁ、それでもいいか。
二人の思い出を出来るだけ沢山作っておこう。
翌朝、俺たちは二人していつもより早い時間に起きて剣を打ち始めた。
俺が振るハンマーにアリスの細い指が添えられる。
「……あと、ほんの少しだけ力を抜いて」
耳元で囁かれる甘い声にゾクゾクする。
「……もっと熱を入れて」
「――ここから一気に冷ます」
彼女の真剣な顔つきを間近で見ながら、打ち続ける。
慣れない呼吸なので最初は戸惑ったが、徐々に彼女の言葉の意味を理解できるようになってきた。
あとは彼女を信じてひたすら打つ。
するといつもと違う音が響くようになってきた。
……これでいいのか?
そう尋ねるような目で視線を合わすと、彼女もこちらを見つめ返し黙って頷いた。
その表情に手ごたえを感じ、再び魂を込めて打ちこんだ。
ただ少しばかり問題もあった。
この技術継承は、アリスが俺を背中から抱え込むという密着した姿勢で行われた為、たびたび集中力が阻害されてしまったのだ。
まぁ、その、何というか、例の何とも言えない乙女の膨らみが背中に当たる。
彼女の顔から滴り落ちる汗が俺に降り注ぐ。
あの愛らしい声が耳元で囁かれる。
仄かに香る美少女のニオイ。
それら全てが俺の劣情を呼び起こした。
アリスが真面目に、俺の技術向上の助けになるよう、教えてくれているというのに。
本当に情けない話だ。
年長者としても申し訳ない限りだ。
俺は本当になんて浅ましい男なのだ!
現れては消え、そしてまた再び現れる煩悩。
それら全てを剣に流し込むように打ち続けた。
アリスの指導は開店作業直前まで続き、ようやく一本の剣が形になった。
「うん! いいんじゃない?」
汗を光らせながらアリスがいい笑顔を見せた。
まだまだ細かい作業が残っているが、あとは自分で何とか出来る。
俺はこの剣を秘かに煩悩剣と呼ぶことにした。
開店したものの今日はいつもより暇だった。
ようやくこの町も落ち着いてきたということか。
今日の俺は気が付くとアリスを目で追いかけているような状態だった。
どれだけ女々しいのだか。……情けない。
彼女は店の掃除が終わってから、作業台で細工に没頭していた。
売り場から冒険者用ナイフを三本ほど持っていって、それらに溝を掘っていた。
「……何やってんだ。売りモンだぞ?」
「……ん、心配しないで。ちゃんと買い取るから」
会話をしながらも彼女の目はナイフに注がれたまま、微動だにしない。
そんな心配をしている訳ではない。もし欲しいならナイフの十本や二十本くれてやる。
もし嫁に来てくれるなら店ごと全部だ!
「……刃にキズを付けてどうすんだ? 強度下がって使いモンにならねぇぞ」
「大丈夫。そこまで深い傷を付けていないから」
「……何に使うんだ?」
「ちょっとした小道具だよ」
小道具ってなんだよ、って本当は聞きたかったけど、あまりしつこい男は嫌われるからやめておいた。
最後の最後で気まずくなるのは避けたいという、俺の傷つきやすい男心が思い留まらせた。
結局その後も作業を続ける彼女と当たり障りのない世間話に花を咲かせた。
昼になり、アリスとの夢のような時間は終わりを告げる。
「……大変お世話になりました」
妙に畏まった仕草でアリスは礼を告げた。
良家の子女だと言われても納得してしまう風格さえ感じる。
もしかしたら本当に貴族の娘だったりするのかもしれない。
あの剣はもしかしたら家宝か何かだったのでは?
だけどモンスターの襲撃で家族全員……。
それならば、やっぱり俺がアリスの新しい家族に――。
この期に及んで俺はまだそんなことを考えてしまう。
「……大したことしてねぇんだから、そんなお礼なんていらねぇよ」
彼女の顔を直視できずに答える俺。
彼女は黙ったままだった。
沈黙が怖くて恐る恐る顔を見るとアリスは微笑んでいた。
全て分かっているから、と言いたげな顔で。
そしてゆっくりと近づいてくる。
「いっぱい、いっぱいありがとうね……」
アリスが顔を俺の胸に押し付けるようにして抱きついてきた。
あまりにも衝撃的な展開に声も出ない。
こんな状況は生まれて初めてだから身動き一つ取ることも出来ない。
「……腕、鈍らせたら承知しないからね」
「……あぁ」
「あの感覚、忘れないでね」
その言葉で一瞬にして思い出される朝の感触。
少しだけ下半身が熱くなりかける。
「……あぁ」
俺も出来るだけ優しく抱きしめた。
一生覚えておこう。――今日のことを。
死ぬまで忘れないでおこう。――この彼女の温もりを。
陳腐な言い回しだと判っているが、時間が止まればいいのにと心から思ってしまう。
実際は数秒のことだったのだろうが、俺にとって今までの人生の中で一番満ち足りた時間だった。
やがて俺たちはどちらからともなく、ゆっくりと離れた。
「……またね」
「……おう、またな」
手を振り、彼女は歩き出す。
こちらを一度も振り向くことなく。
しっかりとした足取りで。
俺はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
彼女が去った後、俺は店内で一人煙草を吸いながら呆けていた。
……こんなにも広かったっけ、この店。
……こんなに地味だったっけ、俺の店。
妙な感傷に浸っていても客は来る。
さぁ、仕事でもすっか。
「……いらっしゃい」
「あれ、嬢チャンは?」
顔なじみの冒険者は俺に視線もくれず、当然のように店の奥を覗いた。
店に出ていなければ奥にいる。
ここ最近の常連ならば、彼女がどこにいるのか知っていた。
「……旅に出たよ」
「マジかよ。……せっかくアリスちゃんに会いに来たのによぉ」
「……あの娘にもいろいろやらなけりゃいけないことがあるんだろうよ」
「……そっか、そうだよな。……なんか急にこの町もさみしくなっちまったなぁ。例の勇者様も明日、洞窟のモンスター退治にアタックするって言ってたし。その足で直接王都まで行くんだと」
武器屋の看板娘が去り、勇者一行も明日旅立つ。
モンスター襲撃によって、住んでいる場所を追われた人々のための仮設住宅も、少しずつ完成してきた。
彼らもようやくこの町で一息つくことができるだろう。
慌ただしい日々はあっという間に過ぎ去り、またマインズに日常が戻ってくるのだ。