忘却の君
『あなたの書く小説のお題だしてみたー(http://shindanmaker.com/150203)』より、『春』『ねこ』『夢』のお題をいただき執筆しました。
軽度ながらボーイズラブを匂わせる表現がありますので、閲覧は自己責任でお願いいたします。
鈴の音がする。
そう思って目を開けると真っ暗だった。
一瞬何が起こったのかわからなくて、数度目を瞬かせる。瞬くたびに視界がクリアになっていって、結果俺の視界に浮かび上がったのは別段おかしなところはない己の部屋だった。
ただし、実家の。
目を、瞬かせる。
はて、いつ実家に帰っていたのだったか。ゼミの飲み会で潰されたのは朧な記憶にあるが、そこから電車で数時間の道のりを経て実家に帰ったとは思えないのだが。
どうも記憶がはっきりしない。霞みがかっているというか、ぼやけてよく見えないというか。ともかくなぜ自分がここにいるのかわからなくて、でも考えるもの億劫で、ただ布団の上でぼんやりとしていた。
鈴の音がする。
それがただ不思議で、不明瞭な頭をなんとかかんとか働かせた。
ちりん、ちりりんと音がする。
特に何の脈絡も法則もなく音がする。一定だったかと思えば急に速度を変えて、かと思えば決まったリズムを刻んだりして、なんとも自由気ままな音がする。
近付いてくるでもなく、遠ざかるでもなく、ただ音がする。
不思議と、恐怖心はなかった。警戒することもなく、疑問を抱くこともなく、俺はおもむろに窓を開いた。
鈴の音がする。
いつの間にか、玉砂利の上に立っていた。どこだ、とは思わない。見知った家の庭だった。
目の前に猫がいて、その猫の首輪に鈴が付いていた。
「ああ、なんだ。お前が呼んでたのか」
「なぁん」
まだらの頭を撫でてやれば、甘えるように手のひらへとすり寄られる。
猫の喉が鳴る。にぃ、と鳴く声は可愛らしくて、なんでこんなに可愛い声で鳴くのに雄なんだと憤慨した幼い頃を思い出した。
猫は雌より雄の方が可愛い声で鳴くんだよ。なんでだと思う?
そう言って笑っていたのは誰だったか。声は覚えているのに姿を忘れてしまった。
ああ、彼は何と言ったのだったか。まだ幼い声が可笑しそうに笑う声ばかり思い出して、言葉を忘れてしまった。頭を撫でる手があたたかくて、ほのかに香る沈丁花の香りが心地よくて、記憶に溶けて忘れてしまった。
「すまんなぁ、まだいけないんだよなぁ」
「んー」
口をつむったまま鳴く猫は、なぜだか抗議の声を上げている気がしてちょっと笑えた。
「すまんなぁ。あんなに好きだったのに、名前も、顔も、忘れてしまったんだ。ちゃんと思い出すから、ずっと覚えておくから、そんなに心配しないでくれよ」
ぐるぐると喉を鳴らす猫は、ご満悦で目を細めている。ぐってりと伸びて液状化した猫を抱え持てば、記憶のままの温かさがじんわりと腹を満たしていく。
「待っててくれよ、お願いだから。忘れていた俺が言っても仕様がないが、そういうものなんだから仕方がないだろう。なあ、振り向いちゃいけないのはわかってるんだ。声だけでも聞かせてくれないのか」
「……そういう言い方は、反則じみてやしないか」
言い方が苦々しくて思わず笑った。腕の中の猫は、俺の見えない背後を一瞥してくぁあとあくびをしている。お前はいいよな、気儘で。
「なぁ、まだいけないのか。俺はもう充分だと思っているんだが」
「何を言うか、学生が。そういうものは嫁をもらって子をもって、孫に囲まれて言うものだ」
「そんなにかかるのか」
「それでも短いくらいだ」
げきおこだ、なんて真面目な声で言うものだから、声を上げて笑ってしまった。
沈丁花が香る。ああそうか、そんな季節だったか。そんなことも忘れていたのか。
「……そのままでも、よかったのに」
「おれはよくない」
よくない。そう繰り返す手のひらが背中に触れた。
じんわりと広がる体温に、無性に泣きたくなった。
そうか。まだいけないのか。忘れるなと、そう言うのか。
「…なぁ。抱きしめてくれよ。そうしたら、しばらくは覚えていられそうだから」
「………本当に、そういう言い方はずるいと思う」
沈丁花が香る。記憶にあるより低い体温が、背中からゆっくりと俺のからだを覆ってゆく。
目を、閉じる。いつの間にか腕の中の猫はいなくなっていた。
背中を、肩を、胸を、腹を、確かめるように抱きすくめるこいつの顔を思い出せない。
「……忘れたくないなぁ…」
ぽつりとこぼした声に、腹に巻き付いた腕の力が強まった。
「…ずっと、覚えててくれ」
肩口で声がする。記憶にあるものより幾分低くなった声が、か細く震えて言葉を紡ぐ。
息のかかる首の根元があつい。首筋に擦り寄る髪の毛の色ももう思い出せなくなっているのに、それでも「覚えていて」と懇願されるのがくすぐったい。
沈丁花の香りがする。
きつく目を閉じたまま、抱きつかれた腕を、肩を、頭を撫でる。
「ああ、忘れてないよ。まだ覚えてる。色は忘れてしまったけど、この手触りは忘れてない」
吐息が、漏れる。
名前を呼ばれた。何度も、何度も、呼ばれた。
「なぁ、覚えていてくれ。忘れた頃に、会いに来るから。だからずっと覚えていてくれ。もうおれが、会いに来なくてもいいように」
「それは承服しかねるなぁ」
「…それでも、覚えててくれ。忘れてもいいから」
「承諾しかねるなぁ」
忘れたくないよ。そう吐息にのせれば、より一層肌が密着した。
「なんで御前は、そうも俺に会いたくないのかねぇ」
「なんでキミは、そうもおれに会いたいんだ」
好きだからね。己のからだを背後の君に明け渡して、笑う。
鈴の音がする。記憶の中で彼が笑ったけれど、やっぱり顔は覚えていなかった。
「ねえ、覚えてるよ。忘れないように、覚えてるよ。だから御前も、待っててくれよ」
「承服しかねる。待っていたら、キミ、すぐに来てしまうだろ」
堪え性がないから、なんて言うから、反論せずに笑っておいた。
「ほら、もう帰れよ。もう充分だろ」
「そうだなぁ、御前が、キスの一つでもしてくれたら——」
目を、開いた。
外はまだ真っ暗で、枕元の携帯を探って見れば午前4時を回った頃だった。
見知った、アパートの一室だ。こんな時間にもかかわらず車の通る音が聞こえる、一人暮らしの一室だ。
ひとしきり自分の置かれた現状を把握して、俺は、まだ感覚の残る唇に指を乗せた。
「————本当にするとは、思ってなかったなぁ」
まだ彼の髪が触れた感覚の残る頬に一筋、涙が伝う。
「ああ、これじゃあ、覚えているしか、ないじゃないか」
両の手で顔を覆う。
だんだんと冷めていく身体が、毀れ落ちていく体温が、とても、とても、かなしかった。
春の宵に、君を待つ。
忘れた頃に会いに来る君を、ひとり、待つ。
覚えていてくれと懇願する君の想いを、けれど、けれど、どうしても、汲んでやることができない。
「ああ———どうして」
春眠暁を覚えず。なら、俺も、どうかこのまま。
「つれていってくれても、いいじゃないか」
忘れた時に迎えに来る御前を、俺は、ずっと、覚えている。
沈丁花の花言葉:「栄光」「不死」「不滅」「永遠」など