足は行く 2
カナンに殴られた頭がまだ痺れていたが、メティは王様の部屋で姿勢正しくソファーに座っていた。彼女の頭についている真っ白な兎の耳はしおれていた。
「メティすごいじゃないか。ウンディーネ様を憑依出来るとは、さすが私の娘だ」
真っ白なあごひげを動かして、兎の国の王様はメティを褒めた。メティは嬉しくなって、赤いマントにくるまった王様の丸い体に抱き付いた。メティは王様が大好きだった。嫌なところと聞かれても、強いて言えば、王冠代わりの兎の耳が潰れているくらい。昔はもっと長くて立派だった。
カナンはソファーから立ち上がり、耳を震わせながら王様を指差す。
「王様、メティ様はそろそろ勉学に励まなければいけない時期です。怒らなくてはいけない時がありますよ! それに、ウンディーネ様を憑依出来たのは、慈悲深い御心で自らメティ様の元へと参られたからです! 協力というよりも、ウンディーネ様がメティ様を操っただけです」
人は魔法を使える生き物ではなく、神様から六種類の魔法を借りている。その中でも憑依という種類の魔法は、憑依する者とされる者の協力があってこそ成り立っていると、兎の国の子ども魔法教科書には書かれている。メティは頬を膨らました。ウンディーネさんが自分の中に入ってきてくれたのは、協力してくれたということではないか。最高の精霊を味方に出来たのだ、兎の国だけではない、世界中の国を力で統一することが出来るかもしれない。メティの欲深き想いが心臓の鼓動となって現れ、ついには荒い呼吸となって、カナンや王様に変な目で見られた。
王様の目の前でカナンに延々と説教されたメティは、耳を丸めて、背中も丸めてとぼとぼ回廊を進む。もしもこのまま赤い絨毯の続く回廊をずっと先へ進み、右に曲がって今度は左に曲がり、中庭を出てそのまま大きな坂を下れば、城を抜け出し、苦痛のない世界へと行ける。兎の国の城下町、クリスタルガーデンはいつも賑やかで仕事といった仕事もない、苦労を生み出すのに苦労するほど楽しいところなのだから。一日中遊んで暮らせる笑顔と自由の楽園、メティの楽園が待っている。
メティはため息をついた。この国のお姫様でいるには、遊んでいるわけにはいかず、遊んでしまえば火焔魔法と水流魔法を振りかざすカナンが追いかけてくるのだ。
勉強部屋に入り、扉を閉めた。ずっと遠くでカナンが見ていた。
この世界は十日に一度だけ、太陽の出てこない日があった。暗闇の日と呼ばれ、兎の国の人達は、松明などを掲げながら踊ったり歌ったり世間話をする。お祭り気分になれる大事な日だった。
メティはまだ小さい時、まだ生きていた母と一緒に暗闇の城下町を歩いたことがある。城の一番上から放たれる魔法の炎が、真っ暗闇の中でパラパラと光る。皆が喜び、踊る中を二人は手を繋いで散歩した。
王女は皺の多い老婆だった。メティは笑う。王女、トリティエラも微笑んだ。何もない夜空に火焔が何回も爆ぜた。
メティは密かに城から脱出する作戦を考えていた。城を抜け出して城下町まで出てしまえば、もう捕まる心配はない。メティは旅をしたかった。
「魔号と呼ばれる、六つの種類の魔法を覚えなさい。メティ様なら簡単ですよね。はい、どうぞ」
「火焔と水流、憑依、流星、再生、脱出」
「いいえ、脱出ではありません。最後は風神ですね。もう一度」
「火焔、水流、憑依、流星、再生、とんずら」
メティの頭の中は脱出と旅でいっぱいだった。朝が来れば旅がしたくなり、勉強の時間になると脱出をしたくなる。王様と一緒に夜ごはんを食べている時だけは、旅をしようと思っている自分が怖く思えてしまった。それでもまた朝が来れば、窓を越えて風に吹かれていたくなる。
メティの足が敏感に動き出したのはとある昼下がりだった。その日はひどい大雨が降り、兎の国の南に広がっているサラマンダー地方に洪水が発生していた。カナンは授業を途中で止めて、騎士としての役目を果たすためにサラマンダー地方へ向かった。彼女が使える水流の魔法さえあれば、多少は洪水の力をくい止める手助けが出来るだろう。
メティもカナンの後を追って助けに行かなければならない。しかし、細い足はカナンの背中を追えなかった。溜め込んでいた想いが外の窓から聞こえる雨音のように心臓を打って鳴らして、決意する暇もなくカナンとは反対方向の王様の部屋へと向かった。
王様の部屋では、眼鏡をかけた男が王様と一緒にチェスを楽しんでいる。王様のポーンが一つ倒れた。
チェスをしていた手を止めて、眼鏡の男がソファー越しにメティへ振り向いた。癖のある赤い髪をしていた。
王様は後ろで立っている娘に気付くと、ソファーから立ち上がり、その男を紹介した。彼は国に一人しかいない守護者だという。一つの国にたった一人しかいない、国の代表だ。
守護者になることはメティの夢だった。興奮するメティの目の前まで来た男は笑みを浮かべる。
「私はネオンデール国のチャルアと申します。良ければ今晩時間が空いているから、魔法の話でもしようか。君はどの魔号が使えるんだい? 私はね、火焔しか使えないんだ。不器用だからね」
メティは戸惑い、逃げ出した。胸が苦しい。王様は潰れた兎の耳をしぼませてチャルアに謝った。チャルアは笑ってチェスを再開しようと促した。
つんざく胸のまま、メティは走りに走ってついに城下町へと逃げた。最初は罪悪感があったが、自分なんていなくなっても困る人間はいないだろうと思うと気が楽になる。この国では悪いことなど起こらない、何かあってもカナンや他の騎士の人たちがいる、あんなに優しいお父様がいつも城からこの国を見守っている。女の子一人いなくなっても困らないのだ。
興奮しながら、赤い屋根に染まった城下町の店を回って、マントや短剣など、旅に必要そうな物を買っていった。店の主人が、メティは世界で一番可愛い、メティは世界で一番兎の耳が似合うと褒めてくれると、要らない物までつい買ってしまう。お金はポケットに手をいれれば泉のように出てくる。
城下町を囲っている大きな木製の門があり、そこを越えると王都クリスタルガーデンを出て、兎の国の広大な自然が待ち受けている。
メティは革の手袋を付けた手で拳を作った。着替えを済ませ、クリーム色のマントを羽織る彼女は、凛々しい顔で門より遥か上の大空を見つめる。
いざ出陣と心躍る中で宣言した時、メティを古くから知っているおばあちゃんがメティの背中に声をかけた。メティの兎の耳がピンと立つ。おばあちゃんだと分かるとほっと息をついた。
「メーテちゃんどっか行くのかあ? 久々に会えたんだがら、孫の水流魔法を見てかないかあ? メーテちゃんより上手くなっとるあ」
「私の名前はメティだよおばあちゃん。それよりおばあちゃん、私出掛けるから急いでるんだ! じゃね!」
「はんらあ、急いでるのかえメーテちゃん。でんもそっちはシルフィード様がお守りしてくんださるところじゃあ? 東はおおとりどりいるかんら、危ないぞ? いくんなら、ウンディーネ様んところの北が良いんどお……はんらあ、走ってっちゃったかん」
門を通り過ぎるメティの背中をひらひらと真新しいマントが付いていった。おばあちゃんはとても視力の良い瞳で、門に『東のシルフィード地方はオオトリドリがたくさんいるよ! 食べられるよ!』と書かれていることを確認した。おばあちゃんは曲った背中をまっすぐにさせて、去ったメティと野山の上に小さく見える兎の城を見上げた。




