足は行く
胸の鼓動は踊る。じりじりとした夕日のように、オオトリドリの羽毛のように、ブロージストの紫の電流のように、遠く高く底知れない彼方へ放り出される。
色々な言葉や理由を並べて、やはりメティに残っているものは旅なのだ。
「旅がしたい!」
「駄目です」
女性のきっちりとした声が後ろからして、メティは頬を膨らませる。丸い真っ青な机に体を向けたまま、眼の全ては窓の奥にある大樹に吸い込まれている。大樹を見ていると、メティは心がいつも動いてしまう。
「たまには魔法の授業してよ。魔法なら自信があるのに」
「お母様譲りですからね、それは否定しません。素晴らしいです」後ろの声が素直に褒めた。
メティは喜び、つい元気よく手を一振りする。
窓の奥で舞い落ちている大樹の葉が一枚、空中で止まった。緑に輝き、メティの右手の人差し指に合わせて踊り出す。
メティが笑顔で振り返ると、目を閉じて、眉間に皺を寄せた女性の姿。
「見てません、見てませんよ私は。早く憑依魔法を解いて勉強を再開してください」
「えー。じゃカナンちゃん魔法やってみて! ね! ね!」
カナンと言われた女性はため息をつき、メティの前に人差し指を差し出す。火焔というたったそれだけの言葉を心の中で呟いた。
カナンの人差し指の先に、ロウソクの光よりも小さな火が現れた。
メティは目を細くして見つめた。カナンは戦う時くらいでしか本気の炎を見せないのである。
「魔法とは神様からの贈り物ですよ、姫様。それを無闇に振りかざしてはいけません」
メティはその言葉を聞き、真面目な顔になって机に顔を向けた。勉強へと戻るメティの凛々しい後ろ姿に、カナンは何度も頷いて満足した。
メティは羽根ペンを動かす。カナンは輝く窓を見ている。しばらくすると、外からひらひらと木の葉が風に乗って部屋に入ってきて、その一つを見つめている間にもう一枚、十枚と葉っぱは増えてくる。気が付いた時には周りに無数の葉がカナンの周りを囲み渦を巻いていた。
「姫様やめなさい!!」
その声で、葉は全て部屋に落ちてしまう。葉に埋まってしまった机を掻き分けるが、メティはもう部屋を跳び出していた。
回廊を駆け抜け中庭へ跳び出す。メティは小回りの一つ一つが不規則で、紅茶を運んでいる侍女や、中庭で訓練をしている騎士が見つけて追いかけても捕まえられない。騎士の手をすり抜け、侍女のスカートを通り抜け、輝く中庭を何度も往復してから入ってきた回廊へ戻るが追ってきたカナンと真正面から会ってしまいもう一度中庭へ跳び込んだ。庭草が何度も倒れては戻るを繰り返す。
カナンが後ろで叫んだ。前を塞いでいた騎士達が逃げる。メティは思いっきりジャンプした。
地上に降りて前回りする。青空も回った。起きて振り返るとカナンが息を切らして睨んでいる。二人の間には、大量の水に叩かれた草が起き上がれずに倒れたままになっている。カナンが魔法を使ったのだ。
カナンは両手を持ち上げている。右手には静かに赤く光る炎が。左の手の平には湧き上がり零れる冷たい水が。
「庭で溺れるか、服だけを器用に燃やされるか。どちらか選ぶ?」
メティは震える。本当に恐ろしいのは、二つともカナンにやられたことがあるからだ。いつの日か、舞踏会を抜け出して半日ほど逃げ回っていたメティを捕まえた時である。
カナンは水の湧き上がっている左手をメティへ突き出す。水は丸い形を作り出すとどんどん膨らみ、メティの頭一つ分の球になる。
メティは震えた声で魔法の言葉を発した。水流というたったそれだけの言葉を。
自身の周りに水の壁を発生させた。直後に放たれた水弾が水の壁に当たり、飛沫が辺りに飛び散った。
続く二つ目、三つ目の水弾を受けて、水の壁は静かに崩壊した。メティの集中力が限界に来ていたからである。それでも攻撃は止まず、次にメティの視界を埋めたのはカナンの右手からほとばしる真っ赤な炎。
慌てて再び水流の魔法を使うが、湧き上がる水はカナンの炎に焼かれ、蒸発していく。カナンはそのまま炎を操り、渦をつくってメティを取り囲んだ。
熱気と轟音が心を撫でる。
メティは精霊世界へと行ってしまいそうな気分になった。もし死んでしまっても、精霊となっていつまでも楽しく暮らしていたい。その想いがあまりに強いために、風邪になった日でもカナンに怒られた時でもすぐに精霊世界へ想いをつのらせる悪い癖になっていた。
カナンは炎の渦の外で、あくびをしてメティが降参するのを待っている。そろそろ侍女を呼んで紅茶を飲みたい気持ちだった。しかしメティは降参など絶対にしないつもりだ。可愛い顔に似合わない、極悪な笑みを浮かべる。悪い癖のおかげで、素晴らしい考えが浮かんだのだ。
炎が空気を焼いている音の中、体を棒のように立たせたまま、心に真っ白な真空を作り出す。
真空の心は炎よりも熱く脈打ち、最大まで自分の胸が膨らんだ時、心のばかりに叫んだ。
「最大の精霊!! 最大の美貌!! 来てくださいウンディーネさん!」
カナンは炎の渦の外で、ウンディーネという名を聞く。あくびをしていた 顔を凍り付かせ、侍女が持ってきた紅茶のカップを素早く受け取り後ろに下がった。
大空を掴むような炎の渦が、内側から溢れ出てくる莫大な水と音に潰され、儚く消えてしまう。今までの熱気を押し上げ、身の震えてしまう冷たい水流が大波となって中庭を丸呑みにした。水の中で草たちが踊る。
中庭を水没させた水流は、一定のリズムで波紋を生み出し、小さな波を何度も何度も作る。波紋の中心で、メティは真っ白な冷気を纏いながら両手を青空に掲げていた。
次々とやってくる波にも負けずにカナンは立ち続け、怒鳴った。
「四精霊様を喧嘩に呼び出すなんて、何を考えてるんですか!! 今すぐに憑依魔法を解きなさい!」
「勝ったもん勝ちだよカナンちゃん!」
二人の声を聞いていた、メティの後ろで半透明に映っている巨人の美女――ウンディーネは、真っ白な肌を輝かせながら笑った。歌声のような笑い声だった。
水はウンディーネの半透明の体の中へと吸い込まれて消えていく。メティが慌てて、ウンディーネさん、ウンディーネさん、と問いかけるが、彼女は微笑むばかり。ついには彼女自身も消えて、メティを包んでいた冷気は無くなった。中庭の隅まで逃げていた騎士や侍女たちは恐怖のあまり泣いていた。
メティはため息をついて、北に広がる山々と川を見る。大きな北風が吹き、草花を巻き込み、城を支えている丸い野山を滑り落ちてメティの見渡す彼方へと吹いていった。遠く高く、まだウンディーネの笑い声が聞こえた。
目を一杯に開いている無表情のカナンが、メティの真後ろにいた。