〈5〉
それから毎日クロさんは鱗を剥がして血を分けてくれた。
クロさん印のブラッド・ウォーター。毎日飲んでたら、すごい勢いで怪我が回復していった。
ただその分、お腹の空きも尋常でなく。消化器官なんかの負担が大きそうだったので、飲むのは1日1回にしといてもらった。我ながら賢明。クロさんは気が焦るのか、しょっちゅう飲ませたがってたけども。
あ。ちなみに2日目からは、気恥ずかしいと感じるくらいには回復してたので、口移しは無しです。
鱗は、綺麗だと誉めたら、くれた。とりあえず枕元に並べておいてもらった。
クロさんは鱗自体は捨てるつもりだったみたい。適宜な量の血を得るためだけにブチッと剥がしとっていたようで。
たしかにあんな鱗が生えてるってことは、クロさんの皮膚は相当硬いんだろうしな。簡単には傷つけられないから、鱗を剥ぐ。……納得いくような、いかないような。
ヒトの姿では鱗は見えないし、触った感触もふつうの肌だ。ちょっと冷たくてひんやりしてるほかは。でも鱗がとれるってことは、目眩ましみたいなもの? なのに、器を持ったり、いろいろと人間らしいことが出来てるよね。口移しとか。あうぅ。
本質が残される的なことだとしても、重量なんかも変わってるっぽいんだけどなぁ。それでつじつま的にはいいのかなあ。
魔法のことはわかりません。
数日後、クロさんは約束通り、ふかふかの布団を用意してくれた。苔を集めたものだった。気になるような湿気もなく、いい匂い。
心配していたトイレのことや、食べ物、着替え、お風呂、その他、大体なんでも要望を聞いて叶えてくれた。
ヒマや退屈を解消できるような娯楽はちょっと無理だった。本だとかは。
代わりに、散歩くらいしたいという希望を受け入れて、自分がいっしょならと外に連れ出してくれた。
そこで初めて見たクロさんの真の姿は、やはりと言うしかないことに、ドラゴンでした。はい。漆黒のドラゴン。黒竜。
すっごくゴツくてでっかくて力強いトカゲ。トカゲ……爬虫類。恐竜。頭の先からおしりまでで、団地一棟よりやや小振りくらい。かな。羽だの尻尾だの入れたら、もっとありそう。
無理やり団地に喩えてはみたものの、スケールが大きすぎて自分でもピンとこない。
そんなどでかいクロさんに連れられてのお散歩。
うん。
クロさんといっしょじゃなかったら、ムリだわ、これ。
洞窟の周囲は見渡す限り広大な荒れ地だった。
よそへ行けば、森とかもあったけど。とてもわたしの足で行ける距離じゃない。クロさんの巨大な翼だから、ひとっ飛びできるんであって。
そのひとっ飛びもねえ。毛布にくるまって、クロさんに最大限気遣われつつ、わたし自身の胴体より太い鉤爪つきの指でつかまれて、なんだよね。毛布は、クロさんの鉤爪と握力でのうっかり防止と、防寒のためだった。
飛行中はすんっっっごい寒いのだ。高度と風のおかげで。
あと、クロさんによれば、この大陸は魔力が豊富な分、主な生息者が彼ら竜と魔物なのだそう。どちらもニンゲンとは相容れない存在で、とくに数の多い魔物たちはニンゲンが好物だから、ひとりでうろうろするのは命取りだと忠告された。
一方、竜はべつにニンゲンを好んでは食べないそうだ。
ああ、うん。好まないけど食べることはある。
竜は魔力の精髄である鉱石を主食としている。最初に遭ったところ、険しい山の洞窟の奥深く、あれが近頃のクロさんのメイン食卓。
だから、わたしを警戒したらしい。ヒトと悶着が起きるのは、大概、鉱石を食べる邪魔をされたとき。魔力を含有した鉱石はニンゲンにとっても有用な貴重品らしいのだ。
おうちの洞窟に帰ってから、クロさんはそんなこんなと色々話してくれた。なんか愚痴めいたことも言われた。クロさんはとにかくお喋りだと思う。
「そなたらヒトときたら、小さな形をして大した強欲よなあ。何でもかんでも独り占めにしたがる。石を食べなければ生きられぬわけでもないのだから、快く譲ればよかろうに」
クロさんの言い分は尤もなように聞こえた。ぱっと聞いた限りでは。
こっちのひとたちが鉱石をどう利用してるのかわからないから、わたしには判断が難しい。例えば、人間が好物だっていう魔物から身を守るために使ってるなら、食事として必要なクロさんたちほどじゃないにしても、絶対必要なものには違いないだろうし。
「そなたは異世界人ゆえ魔力が豊富に含まれておる。魔物にとってはまたとない馳走であろう。我ら竜には食い足らないが。ああ、子竜であれば腹もふくれるかの」
怖いんですけどそんな圧倒的な姿で言われたら怖いんですけど。いつもの仮の姿ニンゲンバージョンならともかく。
わたしが血の気のひくキモチで聞いてたら、それに気づいたらしく、クロさんはすまなさそうにした。
「いかん、いかん。これは余計なお喋りをしてしもうたな。そなたのことは我が護ってやる。子竜にも、成竜にも決して手出しはさせぬ。だから言うことを聞いて、勝手に我が寝ぐらより出ぬようにな」
そう聲を響かせながら、顔を近づけてきて――近づくと視界すべてが黒一色になるような巨大な頭を――ああ、これがぶつかってきたなら、そりゃあ吹き飛ぶし、潰されもする。
あまりに迫力に満ちあふれた画ヅラで、咄嗟に動けなかった。あの時の暗闇での事故(と言うしかないよねえ)の瞬間、覚えてないはずのそれが脳みそのどっかには入ってるのか、凄まじい恐怖に襲われて硬直した。あの記憶がなくたって、その後の痛みを考えたら、ぎょっとするのは当然だ。
寸前で、クロさんは動きを止めた。
「我から触れるのはまずかろうな……?」
ショボンとした聲だった。やたらと情けない響き。
あれ……、もしかしてこれはオモロイ状況なんでは。
じわじわきて恐怖の呪縛が解けた。
思い切って――よくそんな度胸があったものだと自分でも思うが、思い切って自分からクロさんの鼻ヅラに抱きついてみた。
つめたい。
なめらかな鱗の肌はマットな冷たさだった。刺さるような冷ややかさではなかった。
「……鼻先がくすぐったいのう。ちみっちゃくあったまってのう」
笑ってる雰囲気だった。周囲に鼻息がまきあがって、なんか凄い。生ぬるい空気がぼっふぁああああと吐き出されてくる換気孔……地下鉄のやつのとこにでもいるみたいだ。
ちみっちゃいから痒いと感じるなら、と。思い切りついでに、わしゃわしゃとそこいら一面撫でまわしてみた。全身をつかって。
クロさんはぶふぶふと鼻息をもらしてうれしそう。……トカゲって身体変化こんなに激しいもん? ドラゴンだから違うのかなぁ。
「くすぐったいぞ。ヒトよ」
そう言いつつも、嫌がる素振りは見せず、クロさんは上機嫌だった。
しばらくそうしてじゃれてみたが、相手が大きすぎる。全身つかう勢いだったので、すぐに疲れてしまった。いくら毎日クロさん印ウォーターを飲んでても、体力はまだ回復していなかった。
休憩せよ、とクロさんが機嫌よく提案してくれたので、苔布団に寝転んだ。
そうしてごろごろしていたら、ふとしたようにクロさんが尋ねてきた。
「そなたの呼び名は何と申す」
「え……」
反射的に頭のなかに自分の名まえが思い浮かぶ。
クロさんはひゅっと首をすくめた。
「おおお……」
なにやら震えている。
「しまった……。異世界では流儀が違うと思い及ばず……」
え? なに?
「意味もなく真名を聞いてしまうとは……!」
天を仰いだクロさんの額がピカッと光っていた。なんだなんだ。
「……ああ。こうとなっては是非もなし」
のろのろと下げられた頭には、ピカッと光った辺り、額の真ん中へんに小さな小さな淡い色の石がついていた。魔法か。魔法なんだな。
「ヤノハラミキ――矢野原未来よ。そなたは今より我の支配下に治まった」
はい?
「真名は支配を可能とする。そなたはたったふたつしか持たぬ名をすべて我に示した。よって、そなたは我のものとなったのだ」
……はあ……。
それってどういうこと? 今までのこの状況と、どう違ってくるの? 待遇が変わるのかな? 支配ってくらいだし、これからはおさんどんってヤツ? 竜のお世話って大変そうだなあ。体力もつかなあ。
正直すこし暗い気分になった。
「そなたが我の世話を?」
爆笑の気配があった。
「小さき者よ。無茶を申すな。そなたがいくら手を伸ばそうとも、我の何をもつかめまい」
ごもっともさま。