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【鬼】


 それ何時まで続くのだろうか。

 娘は、また人知れぬ森の中に入り込む。

 今日も待ち受ける男達の影。

 娘の表情が歪む。

 木々の陰に連れ込まれる。娘は無抵抗で、されるがままに押さえつけられる。

 何度か抵抗し、その度に酷い暴行を受けてからは、次第にその目、顔、体からは一切の感情が消えていた。

 着物の内側に複数の手が入り込む。

 しばらく体を弄られて、服が脱がされる。

 川のせせらぎ、木の葉のざわめき、鳥の声。そういった類に娘の意識は向いているようだった。

 押し倒され、圧し掛かられても、何も言わずにされるままであった。

 瞳は何も映さず、耳も閉す。意識そのものを消失させたように、心を閉す。

 無論、そんな事男達には関係ないようだった。用は最低限、身体の反応と、口から呻き声さえ漏らせば、何だっていいのだ。

 体を這い回る手も、過敏な部位をなぞる舌も、穴に這入り込む刺激も、慣れた様子で忘れ、娘の中での意味を無くしていく。

 その程度を我慢するだけ。

 そういった毎日の繰り返し。

 彼女はかわいそうなのか?

 関わりあえないので、目元を流れる涙の意味を考えることは出来ない。

 そういった行為の繰り返しが続くものと思っていた。

 見ているこっちは、正直飽き飽きとしていた行為の繰り返し、だが、男連中も同じ心境だったと思える。

 通常の行為にくわえて、過激な暴行を与え始めた。慣れない暴力に、単調になりつつあった娘の新しい反応に、男連中は喜び過剰になっていった。

 このままでは殺されかねないと感じたのか、娘はたまらず駆け出した。

 男連中は追いかける。

 激しい行いに、娘の足取りはとてもじゃないが山道を行くにはふらつき過ぎて、足を踏み外す。

 谷底の川へ落ちるように、娘の姿は消えて行った。


 しばらくして、娘の遺体が川下の川原にて見つかった。


【久遠進】


「ふぅむ……」

 惨殺死体のある部屋で、神崎さんの声が聞こえる。僕はその戸の前で、部屋の中に背を向けて立つ。

「何か分かりましたか?」

 一応死体検証を行っているらしい神崎さんに成果を聞いてみる。

「いや、その手の専門家じゃないからな、何も分からんよ」

 単なる趣味で死体を調べるとは、理解しかねる。

「何時まで居る気ですか?」

 レイジーさんと奏は、神崎さんの指示で仕事の準備を進めている。木綿子さんは、この事を村に知らせると走って行った。

「さてと、もう終えるよ」

 そう言って部屋を出てきた。部屋中真っ赤に染まっていたはずなのに、何故か着物には染み一つついていない。

「そうだ、暇ならこの宿の娘を呼んでこい、少し聞きたい事が出来た」

「はぁ、まぁ、暇ですけどね」

 僕の主な仕事は荷物持ちなので、目的地に辿り着いた時点で仕事は終わってると言ってもいい。それに、彼女の様子はやはり気になるので、ここは雑用に借り出されるのもいいだろう。

「ついでに手紙とか電報でさ、社長と連絡取れないか聞いてきてくれ」

 後始末やら法的手続きは社長達に任せる事になるので、事態が変った事を報告する必要があるのだ。こういう場合の伝令役も僕の仕事だ。

「了解」

 窓が激しく揺れている。空模様は完全に、走り回るのに支障をきたす程に壊れている。

 降り始めた雨。傘をさして外へ駆け出す。

 ……ォン

 黙れ鬼。

 今はそれ所じゃない。


 電報は村役場に行けば出せるだろうと、村の中央付近を走っていると、目的の後姿を見かけて、足を止めた。

「木綿子さん!」

 雨に負けない程度の声を掛け、近寄る。

「…………」

 傘に阻まれて表情は読み取れないが、雨の中立ち尽くす姿は普通の状態とは思えなかった。

「大丈夫ですか?」

 隣に寄って、再び声を掛けるが、やはり返事は無い。

 ざーざーと雨を耳に、時間が流されていく様子を暫し眺める。

 びゅうびゅうと風は強さを増す。あまりこうしている訳にも行かなくなった頃合で、ようやく木綿子さんは口を開いた。

「……私が、発見したんです……」

 祭りの準備も形無しの豪雨の中、ゆっくりと彼女の取り留めの無い告白を僕は聞く。雨音に遮られず、彼女の声はよく届いた。

「姉の遺体は、下流の川原で発見されました」

 彼女には姉が居たらしい。その事実は、村を回っている最中に何度か聞いて知っていた。

「酷い有り様で……」

 噂話では、彼女の姉は、村の若い男達に暴行を受けていたらしい。それも何度も。話の中には、その男連中が殺して川に流し、事故に見せかけたという話も聞く。

「――実は私、知っていたんです」

 搾り出すように、彼女の告白は続く。彼女の涙を代理する様に、雨は続く。

「両親は、死んだ男連中と繋がっていました」

 雨音が激しさを増す。だが、不思議と風は感じなくなった。

「両親は、姉をお金で村の男達に売っていたんです」

 それは、何というか、言葉が出ない。

「私思うんです、姉は殺されて、鬼になったんじゃないかって、鬼になって、それで復讐したんじゃないかって……」

 か細く、しかし力強く彼女はそう提言する。専門家じゃないし、そもそも鬼など信じていない僕にはどう言えばいいのか見当も付かない。

「もし、そうなら……復讐は終わったよって、姉に教えてあげないといけません」

 そう呟いて、彼女は、僕の袖を取る。

「付き添って貰えませんか?」

 今にも倒れそうな、弱弱しい言葉。今の僕に出来る事など、この程度だ。だけど、何も出来ないよりはましかも知れない。神崎さんは言った、信頼足りえる人物からの治療は、例え本物でなくとも効果はあると。偽薬でも構わない、彼女の気が楽になるなら、僕は頷いていた。

 ……ォン

 静まれ鬼。

 お前に構っている暇は無い。


【水仙寺奏】


「なるほど!」

 唐突な声は神崎さん。

 そう言えば、夕飯途中に事故が起こったため皆夕食抜きになりかねないので、勝手に借りた台所で、私が適当に具材を詰め込んでおにぎりを握り、それをふらりとやって来た神崎さんが、これまた勝手につまみ食いをしている最中の事である。

「分かったぞ、社程度で肝っ玉の小さい奴だとは思ったが、他に要因があるなら納得がいく」

 そう言って、両手に持ったおにぎりを一口ほおばる。

「ん? うぇ……しいたけ嫌い……」

 そう言って、しいたけの佃煮の入ったおにぎりを丁寧に机に置く。

「で、何が分かったんですって?」

 口直しにと麦茶を一気飲みする神崎さんを、話に戻す。

「ん、ああ。事のあらまし」

 呟きながら、もう片方のおにぎりに喰らい付く。

「あらましって、社が壊れて怒ってるんじゃ?」

 そういう話で依頼が来ていた訳だし、実際この大嵐は鬼の怒りだというし。

「社とは言うがね、実際は封印の祠だ、壊れて激怒する代物じゃないな」

 早くも食い終えて、指についたご飯粒を食べる。

「でも、三……木綿子さんの両親も含めると五人も死んで」

「それは鬼の仕業じゃない」

 神崎さんは実にあっさりと言い放った。

「え、どういう?」

 神崎さんの言葉を理解するには、もう少し時間が必要であった。

 神崎さんは次のおにぎりに手を伸ばそうとするが、私が咄嗟におにぎりの乗ったお盆を下げたため、神崎さんの手は空振る。

 椅子にふんぞり返って、手を拭きながら神崎さんは続ける。

「まだ確信には到っては居ないが、もしかしたら鬼はまだ、誰も殺しちゃいないのかもな」

 ここでようやく、神崎さんの仰ってる言葉の意味を理解し始める。

「え、じゃ、じゃあ最初の三人と、木綿子さんの両親を殺した犯人が別に居るって言うんですか?」

「別にって言うか、鬼の仕業じゃないのは判っていたからな、居るんじゃないか?」

 最初は、犯人に仕立て上げられた事に対する怒りかとも疑っていたらしいが、それにしては大人し過ぎると神崎さんは言う。

「は、犯人は誰なんですか!?」

 つまり、この村に、五人を殺した殺人鬼が居るという事では無いだろうか?

「ま、消去法的には残った人間が犯人となるな」

 神崎さんは付け合せの漬物を口に運びながら気侭に言う。

「この場合、ボク等を除いた、木綿子ちゃんを含めた村人全員が容疑者って事だね」

 ここで、味噌汁を作っていたレイジーさんが口を開く。

「うむ、ちなみに一番怪しいのはこの宿の娘だがな」

 さらっと、とんでもない推測を発表した。

 私は先ほどから嫌な汗をかいている。

「ど、どうしてですか?」

「ん? 別に理由なんて無いよ、単純に考えて可能であり、一番関与しているからそう思っただけだ」

 言い方が実にさっぱりしている。

「可能って……最初の死体はバラバラだったり上半身が別々だったり……」

 到底人間業には思えない惨殺死体が脳裏に過ぎって、声は続かなかった。

「村の中央にあった櫓なぁ、約四メートルの二本の柱に、間に鉄板を紐でつるしてある」

コレで鉄板が40キロ程度で下部分が刃状に研いであれば、立派なギロチンの完成だと、神崎さんは語る。

「知ってるかなギロチン? 西洋じゃ有名な処刑道具なんだけどね」

 レイジーさんが注釈を加える。苦しまず首を刎ねる為のモノらしいが、別に首が切れるなら手だろうが足だろうが切れるらしい。もっとも腹切介錯が主流の日本じゃ知らない人の方が多いけどねと、笑顔で説明。

「和洋折衷とはよく言ったものだな、落下音が祭囃子によく似ているから、明朝の謎の音も解決される」

 他にも人体を切断する方法が無い訳でも無いが、と言葉を続ける神崎さん。

「誰だって時間を掛ければ、ばらした大人の一人や二人、山奥に遺棄出来る」

 人の殺し方なんて、やりようはいくらでもあると言い切る。確かに、これで木綿子さんにも可能となった。

「……でも、動機は?」

 彼女が犯人の訳が無い。彼女が殺人鬼だなんて到底思える訳が無い。人が人を簡単に殺せる訳が無い。

「復讐だろうね」

 味噌汁が出来上がったのか、レイジーさんが前掛けを外して会話に参加する。

「復讐……ですか?」

 もっとも動機として使われるであろう単語であり、私が知る限り、彼女には似つかわしくない単語である。

「噂では、彼女は死んだ男三人に姉を殺されているらしいね」

「そんな……!?」

 あくまで噂話を総合して推測するにはだけどね、とレイジーさんは言う。

「ついでに両親を殺したのも彼女だな、あの遺体は今日死んだモノじゃない」

「そんなっ!?」

 それはありえない。絶対に間違っている。それは、あまりに邪推過ぎる。

「しかし、ここに来てから両親の姿を見た事があったか? アタシ等が来る前から死んでいたとしたら納得がいく」

「で、でも……動」

 言葉が続けられない。神崎さんは面白いように笑みを浮かべている。

「動機だと? さぁな、それこそどうでもいい」

 興味なさげに吐き棄てる。ここまで人の動向が気にならないのは人としてどうかと思う。

「噂では、姉の件を両親は黙認していたと聞くけど」

 ここには悪意が満ちている。

「どうかな? アタシ等に払う報酬でもめただけかも知れないぞ?」

 何を言っているのだろう? 何を話しているのだろう? まったく理解が及ばない。

「まだ納得がいかないか?」

 再び麦茶を一息に飲み干す。

「それもそうだな、ならば娘が帰ってきたら尋ねてみるがいいさ、真相とやらを」

 そう言い棄てて、神崎さんは席を立つ。

「……何処へ、行くんですか?」

 レイジーさんも立ち上がる。今は一人になりたくなかった。落ち込む体に鞭を討って立ち上がる。

「仕事の時間だ」

 暗くて気がつかなかったが、夕暮れの時刻が来ていた。


 ……ォン

 風は本格的に吹き始め、外の注連縄が大きく揺らされる。

 締め切った窓を激しく叩く。

 熱気と湿気の篭る部屋に、神秘的に抽象的に煙が漂う。

 神崎さんは、煙草を置き、平皿にお神酒を注ぐ。

「もう、すぐそこまで来ているな」

 事態は佳境につき、大舞台は整った。場所は、最初に通された北の部屋。締め切った戸には読めない文字で書かれた符が、目張りのように張られ、異質な緊張感に支配されている。

 他にも自分で飾り付けしておいて何だが、名前の知らないお守りっぽいものやら飾り付けが、無数に部屋の雰囲気を作り上げる。

 神聖にして荘厳、白亜にして黄金、幾つもの蝋燭に、眩いほど照らされ、部屋は異質な世界を作り出す。

 神崎さんはいつの間にか白装束に身を包み、意識を集中させている。

 この時ばかりは専門家らしく、文句の挟む余地など無い。

 白紙のような肌、長い黒髪は、儀式場と化した部屋の中で主役足りえる存在感を持つ。

「ん? 小僧は何処行った?」

 部屋を軽く見渡すも、その姿は見つからない。

「そういえば、彼を見かけないね」

 確かに夕食時から姿を見ていない。

「んん、娘を迎えに寄越したままか、何時まで掛かってるんだ? ったく、肝心な時に役に立たない」

 レイジーさんは、廊下側の戸の右側を押さえている。左の戸を進が押さえる予定だったらしいが、代わりに私が押さえる役割を承った。

「生贄役が居なくなったが、ま、その程度は許容範囲か」

 流れからすると、その生贄役とは私の事だろう、危なかった。なにやらされるか検討は付かないが、あまり気持ちのいい響きでは無い事は確かだ。

 ……ォン

 もし結界と言う物が実在するなら、それを突き破りかねない勢いで、風が吹く。

「しょうがない、このまま続行する」

 音だけの感覚が、やがて宿全体を揺らす振動に変っていく。しかし、実際にこんな振動を受けては建物が無事ではあるまい。音や蝋燭、そして意識が揺れているのだ。

 ……ォン

 一際大きく、風が鳴く。その一瞬で、先ほどまで揺れていた部屋に恐ろしいほどの静寂が訪れる。否、窓は相変わらず揺れているし、嵐は続く、感覚が、世界が離れていっている。意識がずれ始める。緊張と恐怖による幻感覚。鬼が騙しているのか、神崎さんが騙しているのか。理解の及ばない領域に入っていく。

 ただ神崎さんの笑みだけは本物と信じる事が出来る。

 陶酔し恍惚した笑みで、はっきりと告げる。

「よし、鬼が掛かった」


 表鬼門に柊、裏鬼門に南天。

 全員禊は済ませており、白く清潔な衣服に身を包む。

 上座に酒と団子と餅。

 全員手には大豆と、鰯の頭を持つ。

 ……ォン

「少しかじった陰陽道が役に立ったな」

 神崎さんが部屋の中央に立ち、ジグザクな千鳥足で、部屋を回り九字を切る。

「臨」

 ……ォン

「本職じゃなくても、九字は便利だよね」

 震える戸を押さえながら、緊張感なくレイジーさんは呟く。

「そうなんですか?」

 と、いうかこういう状況で気軽に話していいモノだろうか?

「簡易な結界の呪文と思えばいいよ」

 神崎さんは集中しており、私達の会話などまったく耳に入っていない様子で、作業を続けている。普段の姿を知っている身としては、まったく別人に様に見えた。

「兵」

 ……ォン

「今何してるんですか?」

「上座にお供えを置いて鬼をこの部屋に呼んだのさ」

 三つの団子は三つ目を、上位の鬼を現し、餅は私の代わりの生贄だという。

「闘」

 ……ォン

 その他にも、部屋には弦楽器。聞くと弓を意図しているという。

「進大丈夫かな?」

 この嵐の中、いったい何処に居るというのだろうか。

「心配ないんじゃないかい?」

 どうして、この人たちは、こうも無責任に楽天的なのだろうか。

「者」

 ……ォン

 次第に揺れが、押さえるのも疲れるほどに激しくなる。

「でも、あの推理が合ってるなら、殺人鬼と一緒って事に」

 あくまで、推理が合って要ればの話ですが。

「彼が殺される理由が無いよ」

 一人殺すなら、全員殺す必要があるし、食事に毒を入れる機会もあったし、その時殺さないなら、今度は逆に殺せなくなるらしい。

「どうしてですか?」

「だって、社長たちが居るじゃないか、他に仲間が居るのに、中途半端に殺しても自分の首を絞めるだけだしね」

 逃げるだけなら、一人の方が身軽でいいはずと言う。逆に全員の口を封じるにしても元々、ここに宿泊するはずだった社長達は、山を降りたところで待機している。木綿子さんはその事を知っているはずだ。

「だから人質として大事に扱われているさ」

 殺人事件を黙認しろと脅すためにね、とレイジーさんがにこやかに言う。確かにそれなら今進を殺す理由は無い。

「って! それ今大丈夫でも後々無事で居られなくなるじゃないですか!」

「ほらほら儀式の最中だよ、しー」

 はぐらかされてしまう。不安だ。心配だ。しかし、こちらの様子などお構い無しに儀式は進む。

「皆」

 ……ォン

「もうすぐか終わるよ、おびき寄せた鬼を結界によって閉じ込めるのさ」

 それが今回の儀式の全貌であるらしい。しかし、戸は微動だにしていないはずなのに、弾き飛ばされそうな感覚で揺れる。

「陣」

 ……ォン

 踏ん張る。しかし、自身でも着ているほどに激しく五月蝿く戸は叩かれる。

「そう言えば! 犯人が別に要るなら、なんで鬼を呼んでるんですか!」

 別に鬼が誰も殺していないなら、この事件に鬼は関係ないのでは無いだろうか?

「そりゃ、今回の仕事は鬼退治だからね」

 依頼された仕事をこなすのみという事らしい。

「それに、怒っている理由を聞いとかないとね」

 レイジーさんの口調に疲労の色は感じ取れない。だが、余裕では無い様だ、普段より口数は少なくなっている。

「列」

 ……ォン

 表情に苦悶が浮ぶ。何をしているのか理解できなくなる。夢に魘される感覚。目の前の出来事が信じられなくなっていく。

「在」

 ……ォン

 振動に必死に抵抗している横で、神崎さんが切り札の日本刀を抜くのが伺える。

「前」

 ……ォン

「さて、鬼門が開くぞ! 急急如律令!」

 神崎さんが押さえている戸に向かって刀を向ける。蝋燭の火が一斉に消える。

「扉を開けろぉ! 鬼のお出ましだ!」

 言われるまでもなく、両の手は限界で戸から離せば、後は勢いで自然と戸は開く。

 パァン……と、乾いた音。


 気がつけば嵐など何処にも無く、風も雨も止み、綺麗な夜が広がる。

「え?」

 声が漏れる。おかしい。何かがおかしい。そもそも戸の向こう側は廊下ではなかったか?

 夜とは、こんなにも灰色にはっきりと風景が見えただろうか?

 ……ォン

 色調の反転した異界の地に、一人の女性が立つ。遠目から見ても美人で、どこかで見たことのある面影を持つ女性は、こちらを一目見る。

「……あれが、鬼?」

 ……ォン

 刹那、鳴き声と質量の無い衝撃と共に、女性の後ろに人の身の倍はあろう巨体が立つ。

 角を生やした一つ目の影は、こちらを見て笑みを浮かべた。女性はこちらから興味を失ったように彼方を見やる。

「しまった!」

 そこで、神崎さんの叫びが広がる。

 ……ォン

 影は女性を抱えて、跳躍する。空の彼方へ。そこで扉が急に閉まった。

 私は思わずその場に座り込む。今一瞬見えた光景は何だったのだろう? 蝋燭は消えておらず、明るく部屋を照らす。嵐も相変わらず宿を揺らしている。しかし、先程とは決定的に何かが違っていた。

「チッ、逃した!」

 言うや否や、神崎さんは部屋の戸を破りかねない勢いで飛び出していた。

「どうやら、目的は別にあったみたいだね」

 素早く、レイジーさんも駆け出していた。相変わらず笑みを浮かべて。

遅れまいと私も廊下を掛ける。廊下の先でやり取りが聞こえてくる。

「一応神様と敬意を払ってはやったが、あの野郎、言うに事欠いてアタシをカタチ作りの踏み台にしていきやがった!」

 神崎さんが、畜生と吐き捨てる。思い通りに行かず悔しそうだ。

「腐っても神様って所だね」

 神崎さんは傘も指さずに外へ飛び出る。しかし、嵐の夜。鬼の行方など分かるはずも無い。

「くそ、やっぱ俄か仕込みの陰陽道の結界じゃ効果が無いか。レイジー、こうなってはお前の特技が頼りだ!」

 神崎さんがレイジーさんを指差す。

「了解」

 そう言って徐に、懐から携帯用の香炉を取り出して香を焚く。

「こんな時に何を!」

「しっ!」

 私の至極真っ当な文句は、神崎さんに遮られる。やがて、雨と風に煽られているのに、不思議な事に香の煙は焼き上がる。

 そして、レイジーさんは懐から香炉に、紫、黄色、白い花をくわえる。

「菖蒲(吉報)、錨草(あなたを捕らえる)、実葛(再会)」

 呪文の様に呟き。周りに花の香りが纏わり付く。

 煙は意思でもある様に、レイジーさん同様に自由気侭に漂い遊ぶ。

「さぁ、可愛い可愛いお嬢さん達、何処へ行ったか教えておくれ」

 煙はまるで会話に答えるように、何処かへと霧散し流れていく。その様子を見てレイジーさんは山の一点の方向を指す。

「うん、あっちだね」

 指差すのは、村の出口の方角。

 いつの間にか神崎さんはその方角へと走っていた。いったい何が起こったのか分からないが、すでに息も切れ切れになりながらも、とりあえず必死にその後を追いかける。

「姿無き香は、同じく姿無きモノとの会話なのさ」

 神崎さんの呟きが耳に届く、どうやら私に何かの説明をしているらしい。

「例えば妖精とかな」

 生憎妖精という存在を私は信じていない。


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