四
【久遠進】
「きゃぁ――っ!」
部屋に響く女性の声。目は一点を見つめて離せない。
それはどうした事だろうか。
どうして、何気なく手で触れてしまったのか。
どうして、何も考えず開けてしまったのか。
木造の部屋は他と変わりなく、作りも似ているので間違ってしまうのは無理も無い。
戸は何の抵抗も無く開いた。
しかし、だからと言って許されるものでもない。
禁断の地へと踏み入るは人の性。入るなと言われれば手を掛けたくなる本能。
背徳と理性を焼き切るような憎悪な感情が、体の内から湧き出してくる。天使の囁きなど、悪魔の魅力的な提案の前に意味は無い。もはや逃げ出す事も背く事も遅く、ただ、現状を傍観して立ち尽くすしかない。
恐ろしい。状況を次第に理解していくと共に、恐怖心が込み上がってくる。しかし、この刹那の光景に、溺れてていたいと願うもまた本心。
時間を止めたいとコレほどまでに願う事があっただろうか。願わくば時を止めて、この状況を推移させたくない、休日最後の時間、宿題を前に佇む子供のような心境であった。だが、時は止まらず、針は進む。
もはや諦めの境地で、この瞬間だけではこの目に焼き付けようと決心するのに、さして時間は必要としなかった。心を改めて見やる。
人として許されない行為を進んでやりたい奴など悪人だ、だが、僕は決して悪人ではない。なのに、良心を蝕みつつも、口元は微かに笑みの形に広がっていた。
やや薄暗い部屋の中央に、窓の外の雲間から微かに入る光に照らされて、彼女。木綿子さんが立っていた。着替えの途中で。
傍らに先ほど着ていた巫女の衣装が脱ぎ捨ててあり、代わりに仕事着を着ようとしている最中である事が容易に想像できる。丁度袖を通そうとしていたところで、風呂場でもお披露目された体に似合わず大きい二つの膨らみをさらしで押さえて、アバラから腰までの引き締まった線と、小さくみずみずしいお尻、そこから伸びる色白の細い足まで全て見えてしまう状況であった。
「み、見つめてないで、で、出ていって下さい!」
そういえば、その手があった。
「ご、ごめんなさい――」
「あ、謝るのは後にしてください!」
激しく扉が閉される。
後に残ったのは、桶を逆様にしたように降りかかる罪悪感と、とりあえず日記にでも書こうかと思う、一夏の思い出だけ。
ああ、いい思いした。
「ううぅ、二度も殿方に見られるなんて、もうお嫁にいけません――あぅ」
肩を落とす木綿子さんを先頭に、僕と神崎さんは廊下を歩く。
「まったく、この女泣かせめ、こんな結果ならアタシが行くんだったな、チッ惜しい事をした」
呟く神崎さんは、仕事用の和服に着替えている。ちなみにうちの事務所に制服は無いので、神崎さんが勝手にそう言っているだけでただの私服である。紺地に黒い花の絵等を細かくあしらったお気に入りの御所解を着て歩く。
そもそも、神崎さんが悪いのだ。早々に下調べを終えて宿に戻るも人気無し。誰か探して来いと言わなければ、僕だって木綿子さんの着替えを目撃する事もなかったのだ。全責任は神崎さんにある、そういう事にしてしまおう。
「ホント――すみません」
「あぁははは、適当な空き部屋で着替えていたのが悪いんです、横着した報いだと思います……」
何とか笑顔で誤魔化そうと作り笑い。
「そうだそうだ、次からはアタシにちゃんと着替える場所を言うんだぞ?」
「……そう言って覗きに行くんでしょうが」
神崎さんの思惑などお見通しだ。これ以上木綿子さんを汚させてたまるものか。そう、責任を勝手に胸に刻み込む。
「分かった、ちゃんとお前にも拝ませてやるから」
ちょっ! それではまるで僕が一噛みしているように聴こえてしまう。
「…………」
ああ、木綿子さんも僕を疑いの目で見てらっしゃる。この眼はアレだ、さては先ほどの乱入もわざとではと疑っているに違いない。
「い、いや、ホントさっきのは事故ですからね!」
慌てた僕を、今度ははにかむような笑顔で迎える。
「分かってますよ、冗談です」
はぁ……と一安心。何と心の広いお方でしょうか。酒のつまみを勝手に食われて激怒している神崎さんとは月とすっぽん、水溜りと海ほどの違いがある。
「それにしても、皆さんってそれほど専門家っぽくありませんね?」
木綿子さんの台詞には、遺憾ながら同感である。どう見ても旅行客か旅芸人にしか映らないのは、常日頃思い悩んでいる問題でもある。
「そうか?」
自覚症状がまったく見られない。アンタだよアンタ。アンタが一番そう見られてないって、いい加減気付いてくれないかなぁ。
「まぁ、皆今回の事に怯えていますし、実際のところは本物でも偽物でもいいんです」
「ふむ?」
どういう事かと、神崎さんが聞き返す。
「訳の分からない出来事に皆怯えているんです、だから騙されても安心したくて文をお送りしたようなものです」
偽薬効果という物があると、神崎さんは語る。曰く、専門家ないしは信頼の置ける人から貰った薬は、本物でなくても安心感から効果が得られるというものである。
要するに僕等は、原因不明の病を治すために投じられた偽薬なのだ。
「ですから、帰って貰っても構わないんです」
そう言って、木綿子さんは頭を下げる。
お金は払いますから、本当に危なくなる前にお帰りくださいという木綿子さんの頭に、神崎さんはやさしく手を置く。
「ま、理由だとか経緯はどうあれ、依頼された以上、アタシ等は仕事をするだけさ」
投げやりに言う。こういう事はよくある事らしい。そもそも、本当に超常である現象などごく僅かで、大半の依頼が気休めのお払いであるらしく、慣れていると言っていた。
「危ない事なんて何一つ無いさ、実はアタシ等で大仰に騙してるって事もあるだろう? お互い様さ」
神崎さんは大らかに笑う。
僕と木綿子さんはどうにも笑えなかった。
まさか、そんな事は無いだろうとは思うのだが……
「ま、しかし実際問題が起きているのも事実だしな、姿形無き者に、果てさて誰がカタチを与えたものか……」
急に頭を傾けて悩みだす。その表情は珍しくも仕事顔。公私混同は珍しい事ではないが、何時が遊びで何時が仕事か区別付けにくいのもこの人の特徴である。
「カタチですか……話しで大きいと」
木綿子さんも釣られて真面目顔で答える。
「何? 目撃情報があるのか!」
神崎さんが顔を上げて、木綿子さんに掴みかかる様に近づく。
「は、はい……」
態度の急変に、少し怯えた様子で答える。
「目撃情報がどうしたんですか?」
別に専門家なら鬼に角が一つ二つあった所で驚いたりはしないだろうに。
「姿形は重要だ、それで全てが決するといっていい」
伝承とは、長く人々が語り伝え、体系化したものであるという。即ち、様子や同行もまた、人が作ったものであり、怪異はその言い伝えに強く影響を受けるという。よってカタチを紐解けば、どういった伝承由来のものかが分かるらしい。それが分かれば、事件は解決したも同意だと、鬼の首を取ったかのように言う。
「そういう物ですか?」
「そういうモノだ」
神崎さんは頷く。
「名前はどうなんですか?」
よく、伝承や物語では、名前を知られるとマズイとかいう描写がある事を思い出して尋ねる。
「それは、忌み名という奴だな」
「名前とは違うんですか?」
「むぅ、一概にこの場合違うともいい切れはしないが……実名敬避俗と言う奴だ」
説明によると、その昔、本名を呼ぶ事は親や主君のみに許され、それ以外が実名を呼ぶ事はとても失礼な事だという習慣があったという。本名とはその人物と霊的なつながりがあると考えられたらしい。本名を知る事は、その人物を支配すると同義という話だ。
「名は体を表すとも言うしな、無論この場合も名前を知る事は重要だ、だがしかしな……」
神崎さんは困ったように額を掻く。
「元よりこの手の話は、歴史同様人の手によって常時変質して行くのが常だしな、だから、鬼という名と、鬼という姿形に大きな違いがある場合も多い」
鬼の姿を知る事と、名前を知る事の意味は違うらしい
「名前と姿、ですか」
「そうだ、形が変質しようとも本来の意味、鬼である事の理由は常に変らないが、名前が変ればその意味も変わり、本来の鬼とは別物となる」
つまり、名前の方が形より重要という事だろうか?
「いや、姿を見れば名も知れる、表裏一体だな」
まったく意味が分からない。
「ふぅむ、昔話の鬼は割りといい奴かと思いきや人を食ったり襲ったりといった具合に、どのように人間が話を捏造し、鬼がソレに従ったとしても、鬼自体の何かが大きく変る事は無い」
人の置き換えると分かりやすいという。あの人は凶暴だ悪人だと言われ続ければ、その人物は乱暴になるだろう、しかし、それは周りの反応からそう返しているだけで、その人そのモノが凶暴であったという事にはならない。また、背が高いからと言って悪人強いという訳も無く、背が低いからと言って必ずしも気が弱いという訳も無い。重要なのは周りを取り巻く環境であり、それが、姿形、名を成すと言う。
「光と影は同義、真実と虚実も同じ、須らく対極で相克だ、流れ回れば善となり、澱み滞れば悪と成る、結局表面的な部分というのは全て変質する、そしてあらゆる変化は、その本質に影響を与える事は無い」
その本質を、根、魂、真、源、性、地、本能、真性と言うのだという。
「それで御嬢ちゃん、どういったカタチだった?」
話は戻り、神崎さんは木綿子さんに向き直る。
「えっと、身の丈は人より大きくて」
「ふむふむ」
神崎さんが目を瞑って、造形を想像する。
「灰色で」
「なるほど」
僕も同様に目を瞑ってカタチを思い浮かべる。
「太っていて、ぴんと立った耳が特徴的で」
「ほお」
随分と特徴的な姿が思い浮かぶ。
「独楽に乗って空を飛んだり、月夜の晩にオカリナを吹いたり」
「ちょっ!」
何だろう、嫌な予感がビンビンだ。
「子供の時にだけアナタに訪れるらしいです」
「それ多分違う!」
うん、多分違うよそれ、間違っても鬼じゃないよ。
「ふむ、アタシが知っている鬼の特徴とは違うな、それではまるで、となりの」
「駄目です! 固有名詞は! 後ついでに時代的にも!」
危っなぁ。具体的に何が危ないかは分からないが。
間違えた事に気がついて、木綿子さんが頭を下げる。
「ああ、すみません、別のお化けと間違えました」
肝心の姿は、大きな影を霧の中見かけた程度の話しか聞かないらしい。
「コレだと、本当に鬼かも怪しいですね、正体見たり枯れ柳って言うですし」
古来より、怯える者、怖がる者に禍々しき怪異は姿を見せる。しかしてその実体は、風に靡くボロ布や柳の枝だったりするものだ。怖い怖いと感じれば、あらゆる物事が怖くなり、現実が見えなくなる。気の持ちようであらゆる物の怪、アヤカシは周囲に姿を現す。
「この世は魑魅魍魎が跳梁跋扈、何処に何が居ても文句は言えない」
信じれば、狸は葉を頭に載せ化けるだろうし、山奥の老婆は夜な夜な刃を研ぐ。
百年立てば、道具も魂を持ち、猫も尾を二つ持ち、人も姿を変える。
「ムジナって知ってるか?」
また唐突に神崎さんが尋ねる。
「アナグマの事ですか?」
「違う、小泉八雲の怪談のだ」
だっから、もうちょっと分かりやすい質問をして欲しい。
「ああ、のっぺらぼうですか」
獣が人を化かす目撃譚としては有名だ。
日が暮れ、誰も通らない道を歩いていると、若い女がしゃがみ込んで泣いている。心配して声を掛けると、振り向いた女の顔には目も鼻も口もついていないのっぺらぼう。驚いて逃げ出し、近くの蕎麦屋に逃げ込むと、後姿のままどうしましたと店の主人が尋ねるので、説明しようにも息も切れ切れで言葉にならない。すると主人は、こんな顔ですかい? と振り向く顔もまたのっぺらぼう、そのまま気を失うという話だ。
「……それがどうしました?」
その正体は狐や狸が人を化かした姿と云われている。確かに人を化かす狐狸の類は怪異であろう。
「それは、ムジナが化かしたのか? 人が化かしたのか?」
「意味が分かりませんが?」
もしかしたらあまりにも怖がって、女と主人をのっぺらぼうと思い込んで気を失った男が、後になってムジナの所為にしたのかもしれないと言う。
「……それは――昔話ですし」
竜が出ようが王子が出ようが構わないと思うが。
「つまり、人が人を騙す事もある訳だ」
そりゃ、そういう事もあるだろうに。人を騙すのは、怪異よりはむしろ同じ人の方が多い。同じ穴のムジナと言う様に、人にも色々あるモノだ。
「さて、そう言えば元から信頼などしておらず、形だけの払いで誤魔化そうとしていたとさっき言っていたな?」
神崎さんの鋭い瞳が、木綿子さんを貫く。
「あ、はい……」
急に話を振られてたじろぐ。
「それは誰が?」
一歩歩み寄る。
「ええっと……両親が」
ほう、神崎さんは呟く。
「御両親は事件を一任されていた?」
一歩近寄る。
「え、あ、はい……い、いえ。両親が、責任者にそうしましょうって相談を持ちかけて」
壁にぶつかるまで後退した木綿子さんに、覆い被さる様に神崎さん。
「じゃ、相談して村の総意で文を送ったと?」
一歩触れ込む。
「い、いえ。文を送った後に事後承諾を……」
ほぼ触れかねない位置で見つめられる。神崎さんの瞳には魔力が宿る。あの至近距離で見つめられると、訳が分からなくなる。理解が及ばなくなる。不思議な感覚に襲われる。本人曰く催眠術の一つと言っていた。瞳には力があるらしい。
「警察には?」
一歩踏み込む。
「……両親、が、大事にはしない方がいいと……言って」
木綿子さんが床に座り込む。双眸は見開かれたまま、見つめられる視線から離せずに居る。
「人が死んだのに?」
一歩入り込む。
「この、辺では……失踪は、よくある事で……」
ほうと、呟く。
うん、と頷く。
なるほど、と考える。
さて、と視る。
「三?」
指を三つ立てる。
「――三人、ですか?」
木綿子さんも釣られて、指を三つ立てる。
「四?」
神崎さんが折り畳まれた指を抓んで、一つ立てる。
「――人、ですか……?」
掠れた声で呟く。
「五?」
もう一本、指を立てさせる。
「――」
声にならない返事。
「六?」
尋ねると共に、自然と彼女の反対の手に指が立つ。
「…………」
気がつけば、木綿子さんは、神崎さんの瞳を射抜く様に凝視する。その様子を、神崎さんは至近距離で、怪しい笑みを浮かべて見つめる。
次の質問とも呼べない問い掛けを、神崎さんが呟きかけたところで、廊下を歩く足音が響いてくる。
「ああ――疲れたね」
「……こっちの方が疲れた気がします」
情報収集から、レイジーさんと奏が帰って来たようだった。
「お疲れ様」
神崎さんは、興味を失ったように木綿子さんから目を離す。
「何にも無かったよ」
さも得意げに答える。
「ああ、だろうとは思ったよ」
何故か、さも得意げに返事する。
「もう嫌、この人……」
奏は疲れ果てたような溜め息を吐く。
「……お疲れ様」
奏の表情から全てを察する。相変わらずレイジーさんは。話しかけても手応え無し、鏡とか蜃気楼に話しかけてるような錯覚を伴う違和感を受けるのだ。
廊下の一角に一同集った所で、木綿子さんが立ち上がる。
「皆さんお疲れのようですね、では、早めに御夕食の準備しちゃいますね」
視線から開放されて復調したようだ。何時もと変らぬ笑顔を振り撒いて、廊下の奥へと掛けていく。
「あ、両親お忙しくて居ないんでしょ? 手伝うわ」
奏がそう進言する。確かに神崎さんやレイジーさんと夕食まで過ごすよりも、何かお手伝いした方が疲れは取れるかもしれない。
「僕も手伝うよ」
一人でも厄介だというのに、同時に二人を相手に出来るわけも無い。僕も準備の手伝いに逃げる事にした。
「そんな……でも正直、助かります、丁度分けていただいた獣を捌こうと思っていたんです」
快く、木綿子さんは僕等の手伝いを了承してくれた。
「何だ? じゃあ、アタシ等の相手は誰がするって言うんだ?」
子供がごねる様に、上目使いでこちらを見やる神崎さん。表情をホント上手く使い分ける人だ。
「お二人で仲良く」
言われて、神崎さんとレイジーさん二人向き合う。
「ふん、仕方ない、二人で子作りに励むとするか?」
「ははは」
心底遠慮したいという意味を含んだ、乾いた笑いが木霊した。
正直笑い話で流してしまいたいと言った、心境が読み取れる悲鳴にも聴こえた。
女性は強いというが、見た目通り、レイジーさんより神崎さんの方が立場は上のようだ。ま、神崎さんなんて、ヤクザ相手にも啖呵切りそうだし、レイジーさんにいたっては、背は高いくせに子供に負けそうな物腰だし納得。
嵐は激しさを増す。祭囃子と笛の音に増長され、揺れる、騒ぐ、吠える、嘶く。
……ォン
鬼が哭く。
「きゃぁ――っ!」
部屋に響く女性の声。目は一点を見つめて離せない。
それはどうした事だろうか。
どうして、何気なく手で触れてしまったのか。
どうして、何も考えず開けてしまったのか。
木造の部屋は他と変わりなく、作りも似ているので間違ってしまうのは無理も無い。
戸は何の抵抗もなく開いた。
しかし、だからと言って許されるものでもない。
禁断の地へと踏み入るは人の性。入るなと言われれば手を掛けたくなる本能。
背徳と理性を焼ききるような憎悪な感情が、体の内から湧き出してくる。天使の囁きなど、悪魔の魅力的な提案の前に意味は無い。もはや逃げ出す事も背く事も遅く、ただ、現状を傍観して立ち尽くすしかない。
恐ろしい。状況を次第に理解していくと共に、恐怖心が込み上がってくる。しかし、この刹那の光景に、溺れていたいと願うもまた本心。
時間を止めたいとコレほどまでに願う事があっただろうか。願わくば時を止めて、この状況を推移させたくない、休日最後の時間、宿題を前に佇む子供のような心境であった。だが、時は止まらず、針は進む。
もはや、諦めの境地で、この瞬間だけはこの目に焼き付けようと決心するのに、少し時間を必要とした。心を改めて見やる。
人として許されない行為を進んでやりたい奴など悪人だ。だが、僕は決して悪人ではない。なのに、良心を蝕みつつも、口元は微かに笑みの形に広がっていた。
やや薄暗い部屋の中央に、窓の外の雲間から微かに入る光に照らされて、彼女。木綿子さんの知り合いらしき人物が二人倒れていた。血塗れで。
遺体は各所に刺し傷と切り傷が見えた。床は一面朱に染まり、この部屋の中だけ針を少し進めた夕焼け模様。大量出血が死因としては色濃い。衣服の上から縦横無尽に生々しく切り刻まれ解体されていた。丁度、鳥や獣に食い散らかされた動物の亡骸が言い表すなら近い。
「うそ……」
後ずさる様に、部屋から出て行く木綿子さん。そういえば、その手があった。怯えて後ろに下がればこの異常な光景から逃れられる。しかし、何かに当てられたのか、体が上手く動かない。
「にゃ」
白猫は、もう興味を失ったように、廊下へ出て行く。
「あまり子供が見るモンじゃないよ」
入れ代わりに聞こえてきた神崎さんの声に、はっと意識と体の歯が噛み合う。
声に寄せられて、皆が部屋に集まって来ていた。後ろ手に、これ以上来るなと奏を押しとめながら神崎さんとレイジーさん。
「おや、これはまぁ」
緊張感ない様子で、レイジーさんは抱きすくめるように木綿子さんを後ろから目隠しする。
「……これも、鬼の仕業ですか?」
二人の登場に、気が落ち着いたのか、何とか部屋から這い出て質問する。
「さぁてね」
動揺も緊張もせず、普段どおりの調子で答える。
「ま、しかし、無関係とは言えないか」
どこか愉快そうな笑みを浮かべて、彼女は義理を果たす。
「みぃーつけた」
夕食の支度途中、切れた食材を倉庫へ探しに行く途中の出来事だった。
何気なく気配を感じて、廊下突き当りを見やると、見知った白猫の姿を見かけた。
その猫の居た部屋の戸を何気なく開けたら、あの光景が広がっていたのだ。
酷く衝撃を受けた様子の木綿子さんは、奏に面倒を任せて、僕は廊下に出る。
廊下は煙に満ちていた。
「状況とか、僕の健康を少しは気遣ってください!」
香を焚くレイジーさんは、僕の方に手を振りながら尋ねる。
「様子はどうだった?」
「はぁ、混乱していましたが、今は随分と落ち着いていますね」
まったく、しっかりとした子だ。茫然としてはいたが、しっかり状況を認識していた。あんな光景、普通なら気を失ってもおかしくは無い。
「両親の敵をとってくれと頼まれましたね」
神崎さんは煙を吹かしながら、考え込みながら、僕の言葉に継ぎ足す。
「敵ね、討てればいいけど」
どうも、緊張感とか臨場感が無い人だ。
「あのですね! 新しく被害が出たんですよ! 何でそんなに落ち着いて」
「にゃ!」
僕の叱咤は、目の前に居た白猫が部屋を去る事で遮られる。しょうぐんは付き合いきれないといった様子で、廊下の先に消えて行った。
「えっとぉ……」
言葉を無くした僕に神崎さんは尋ねる。
「あの遺体二つは、彼女の両親で間違いないんだな?」
「え、あ、木綿子さんの言葉からそうだと思います」
この宿の主人と女将さんという事になる。死に顔が初対面とは何とも嫌な出会い方をしてしまった。
「そうか、ま、そうだろうな」
神崎さんは、再び考え込む。
辺りに煙が充満する。
「ああもう、もっと換気のいい場所で吹かしてくださいよ!」
煙を追い払うように、手で払う。
まったく、もやもやする。おかしさが篭る。不快感が増す。問題が募る。
ふと、煙草の灰が落ちると共に、神崎さんが呟く。
「そう……おかしい」
何がおかしいといえば、おかしい事だらけだ。今更何を言っているのか。
「アレですか? 僕等に手紙を送ったから、両親は鬼に殺されたんですか?」
尋ねても返事は無い。
そして、再び呟き。
「鬼は、一匹じゃないのか?」
嵐が来る。