二
【久遠進】
「中国に龍、ヨーロッパに妖精、インドに象、日本に鬼と言う様に、鬼ほど有名な怪異は無いね」
「それらを同列にまとめていいんですか……?」
部屋に涼しげな風が流れる。元より避暑地として訪れる場所なので、仕事が本格的に開始されるまで、こうのんびり過ごすのも悪くは無いと思える。
「同じさ同じ、元より信仰があるならば、それは霊的な価値観を持つのさ、信仰は長い時間を掛けて神がかる、古書も高齢も古木も骨董も本質は同じさ」
女性陣が来るのを待つ間、特にすることも無いので、大広間で鈴の音を耳にしながら、取り留めの無い会話を流す。とは言っても、レイジーさんは基本嘘と出任せを嗜むので、あまり有用な時間の使い方とは言いがたいが。
「ま、同じとしておくとして……何なんですか? 長生きは偉いって事ですか?」
レイジーさんは、部屋の隅で香を焚く。これがこの人の本職であるらしい。
自前の香炉から、香りのついた煙が上がる。微かな隙間風に滞空し流動する、深みある匂い。
「ははは、ただ長く生きただけじゃ無意味さ。曲がらず真っ直ぐに生きていかなきゃね、より上を目指すように天高くね」
夏の日差しと風鈴の音に導かれ、香の煙は大きく開いた窓から、地上を離れ雲へと変わる。
「それは、幻想的ですね」
煙を操るレイジーさんも、この夏場の穏やかな空間的観点から言わせれば、雲みたいなモノだ。掴み図らい、高見から見下ろすように茶化すクモ。もしくは獲物が網目に掛かるのを待つ方のクモかも知れないが。
「そう、美しいのさ」
香は、部屋の気流に沿って、文様を描くように漂い消える。幾重にも重なった煙が描く、幻想図は、匂いと重なって、得も言えぬ落ち着きを生み出す。
「香が好きなんですね」
「嫌いなら毎日焚かないよ」
神崎さんの煙好きとはまた趣向が異なるが、彼の煙と香りを扱う様子は、実に様になっていた。
「毎日違う香って言ってますけど、そんなに種類ってあるモノなんですか?」
興が乗ったので、この煙の部屋に馴染んでみようと思った。僕が香に興味を持ったことに、嬉しそうな笑みを返す。
「そうだね、色々あるよ、例えば……」
レイジーさんは、壁に掛けた上着の懐から、小さな紙片を幾つか取り出してみせる。
「甘い香りを放つ、一般的な香木の白壇」
この部屋に満ちている香りの正体であるらしい。
「へぇ……」
使われ方としては、線香が有名と教わる。
「虫除け効果のある、栴檀」
これは香りよりも、炊く事によって出る効果が重要で、他の強い香などと合わせて使うらしい。
「あと、日本ではまだあまり知られていないかな、落ち着く香りの各種ハーブ、これは食べる事でも効果が得られるんだよ」
そう言って、レイジーさんは、魔女が使うような葉っぱを幾つか並べる。これはちょっと知ってるな、所謂薬草って奴だ。
「そして鎮静効果のある、安息香」
咳止めの効果があるので、そう呼ばれていると説明。
「香りを嗅げば死ぬ、夾竹桃」
へぇ、嗅いだら死ぬのか……
「……冗談ですよね?」
「本当だよ」
笑顔で物騒な物を取り出すとは、なんて危ない人だ。
「嗅いだ人を好きにさせる、惚れ香」
「是非下さい」
まったく何て危ない、責任を持って処分しないと、でも本当かどうか二、三回試してからしっかり処分しないとね、本当だよ?
「コレは冗談だけどね」
「うぉっとぉ!」
危っねぇ、危うく信じるところだった。いや、興味は無いんだけどね。だいたい薬に頼るという心意気がそもそもいけない、ちぇ。
「でも、香水を一種の惚れ香とする考えもあるよね」
「はぁ」
入浴の習慣がある日本では、香水はあまり一般的では無いが、人為的な体臭と言うのも、相手に印象つけるという意味では効果的だと、レイジーさんが説明をつける。
「色々あるんですね」
机に並べられた数々の包み、コレでも今所持している一部らしい。
「香十徳その十、常用無障、常に用いて障り無しってね」
「香道ですか……」
香りを楽しみ、日常を離れた集中と静寂の世界に遊ぶ芸道である。西洋かぶれしている割には、古風を重んじる人だ。
「そう、香道では、香りを聞くと言うんだよ」
「へぇ」
そこまで興味がある訳では無いので、聞き流しを再開する。
「香りはね、人知れぬ誰かの声なのさ、そしてこちらもまた香りで会話できるのさ」
鳥の囀り、祭り前の微かな喧騒。天に栄える雲と天井の煙。なぞる畳の感触と、服の内で体を伝う汗。夏の感触だ。
「姿無き香りはね、便利なのさ、姿無きモノとの会話とかね」
散らかした包みを丁寧にしまいながら、芸細かく微笑に陰りを入れたりしている。
「例えば……鬼とかですか?」
中国とかでは、幽霊とかを鬼と表現するとか言うし、日本でも死ぬ事を鬼籍に入ると言う。鬼と言っても、昔話の化け物ばかりではないのだ。
「さぁね」
レイジーさんは、雲のように実体を持たない。回答を用いない。主義を持たない。故に伸ばした手は、虚空をすり抜ける。神崎さんも不思議な人だが、やはりこの人も、変人集まる事務所の社員だけあって、納得の行く不思議さを備えている。
「そういえば、鬼って角があって赤くて、金棒持って虎柄パンツのですかね?」
やはり一般的に鬼といえば、昔話に出てくるような、桃侍やお爺さんに上手い事丸め込まれる絵面を日本人なら思い浮かべるだろう。僕も最初はそういう類の鬼退治を予想していたのだが。
「ああ、ソレは間違った認識だ、仏教の羅刹が混ざってごっちゃだ」
唐突に襖が開き、傍若無人な声が響く。髪を結わえ、浴衣に着替えた神崎さんの御乱入だ。
早くも講師状態で、部屋の中央に、肌蹴る浴衣も気にせず大股で入る。
「鬼はね、隠ぬと本来言うのさ、元よりカタチの無いモノの事を指していたのを、後々に偶像崇拝主義者共が好き勝手に想像して後世に残したに過ぎない」
普段は全くやる気が見られないのに、こういう話の時だけは意気揚々ってどうだろうか。
「日本の信仰は元来自然崇拝でな、カタチ無い物を八百万……どうした、入らなきゃ見てもらえないぞ?」
講釈の途中で、神崎さんが一向に部屋に入ろうとしない奏を連れに入口に舞い戻る。そして奏の手を引いて再び部屋に入りなおそうとするも、奏が入口で踏ん張る。
「ちょっ……な、見て貰うって……別に見せるために着た訳じゃ」
「ああもう五月蝿い五月蝿い、鶏が先か卵が先かなんてどうでもいい、ホラしっかり見てもらえ、んで感想でも貰っておけ」
そう言って、突き放すように部屋へと奏を引っ張り込む。力では神崎さんが劣るものの、浴衣が肌蹴るのを気にしてか、奏は力を十分に発揮できなかったようだ。この場合、女らしさという点においては羞恥心ある奏に軍配が上がるのは言うまでも無い。
「……おぉ」
祭りが近い事やら時期的な事も相まって、清涼感溢れる浴衣がお座敷の部屋に似合う。
「にゃ」
「うおっお前いたのか!」
いつの間にか足元に、今朝方あった文を携えた白い猫。しょうぐんが纏わり付いていた。ま、どうでもいいからこの際無視しよう。今はそれよりも奏の浴衣姿。
結ばれた髪から覗くうなじ、胸元に見える鎖骨、衣服の隙間からあふれ出す女性的な魅力に、思わず言葉がつっかえる。
「……何よ」
やや火照った頬が、細くて白い奏の肌を強調している。浴衣は恐らく神崎さんが着せたのだろう。高まる気持ちと、感謝の意の表現として、僕は神崎さんに親指を立てる。
「どうだ、似合うだろう?」
奏の横に並んで胸を張る神崎さん。勿論この人は和服に限っては問答無用に似合うので特に言う事も無い。しかし、二人並んで、同じ浴衣に同じ髪型だと、まるで姉妹、勿論背とか胸とかの大きさの違いでどちらが姉妹かははっきりと分かるのだが。
「おいおい、その言い方は発展途上のお嬢さんに失礼だろう」
全く持って余計な読心術で、僕の胸中を言い当てる神崎さん。
「だいたい、この歳にしては結構胸大きいぞ」
「ちょっ、何揉んでるんですか!」
こんな姉妹っぽいやり取りは日常茶飯事なので、僕とレイジーさんが止めに入るのは野暮な事なのだ。決してもっと鑑賞して居たいわけでは無い。
「はいはい、似合ってますよ二人とも」
角を立てない褒め言葉で僕は場を納める。
「別に、褒められたって何も出ないから」
奏はそっぽを向く。
「ふん、アタシに似合わないなら、それはもう着物じゃないさ」
謎の自信を持つ神崎さんは一層、奏よりも豊かな胸を張る。
「にゃ」
「痛って!」
何故かしょうぐんに足を引っかかれた。何だお前も見て欲しいってか? ええっと、猫、全身白い、以上。
レイジーさんは特に観想を言わず、ただ微笑を浮かべて部屋の隅に立つ。
時刻はまだまだ正午手前で、少々雲行きは悪くとも、穏やかな空気が流れる中、レイジーさんが僕等に言伝の話を振る。
「やっぱり、土砂崩れで車道は駄目になってるみたいだよ」
村の周辺を見回っていた時聞いた話によると、乗用車が通れるような道は一本しかなく、その道は先月に起こった崖崩れに巻き込まれ、現在通行不可であるらしい。
「じゃあ、社長達は来れないんですかね?」
僕等以外にも、ここには他の社員が来る予定だった。他の仕事やら準備らやらに手間取るとの事なので、僕等だけ鉄道と徒歩で一足お先に宿を取っていたのである。
「あのフォードじゃ、土砂越えは無理だろうね」
レイジーさんも首肯する。社長が愛用している四角い車体に幌を張った、ツーリングカーを思い浮かべてみる。確かに無理そうだ。
「何だ、じゃあ、真面目に準備する事なんて無かったな」
畳に寝そべって、大の字で仰向けに寝る。
「さぁ、遊ぼうぜ、鬼の居ぬ間に洗濯だ」
「仕事中ですよ」
奏の注意も耳には届かず、神崎さんは気の抜けた声を出す。
「社長が居ないのに気張ってもしょうがない」
神崎さんは、子供っぽい理屈をこねて仕事を後回しにしだす悪い癖をお持ちだ。
「で、どうするんですか?」
神崎さんが仕事を放棄したので、レイジーさんに尋ねると、少し微笑みを曇らせて答える。
「社長達は多分明日以降の合流になるだろうからね、ボク等だけでとなると参ったな、正攻法が使えなくなったね」
「正攻法?」
奏の疑問に神崎さんが寝そべりながら回答。
「社長はアタシ等潜りと違って本業だからな、所謂穏便な手って奴が得意なのさ」
「ああ、交渉とかですか?」
物腰が穏やかそうな社長なら判る気がする。そうか、そういう専門の人だとは知らなかった。
「詐欺、契約、恐喝、買収、色々さ」
不穏な単語が幾つか追加された。一応、どれも交渉の一つではある。
「じゃ、社長と合流するまで待機ですか?」
僕がそう提案すると、珍しい事に神崎さんが首を振って否定する。
「外を見てみろ、今宵は荒れるぞ」
窓からの景色は、いつの間にか厚い雲に覆われて、移ろい行く。
「それじゃ、準備だけでも終えておくかい?」
レイジーさんが立ち上がって尋ねる。
「それじゃ間に合わん、今夜決着だ」
眸が妖しげな光を放つ。視線は彼方の何処かへ。何を視ているやら。
「だが、その前にやる事がある」
そう言って立ち上がり、僕等に視線を送る。
ザブーンと湯船に波が生まれ消える。山奥の秘湯を引いているらしく、効能には定評があるらしい。
「これが、仕事前にやるべき事ですか」
檜作りの浴槽に声が響く。
「まぁまぁ、こういった仕事は、事前に身を清めるのが通例だよ」
男湯なのでどうしようもないが、レイジーさんと肩を並べて浸かる湯は、いい塩梅なのだが釈然としない。
「こんなのんびりしててこの先大丈夫かな」
「ハハハ、来年の事を言うと鬼が笑うって言うよね」
駄目だ、社員がこんな調子じゃこの先不安でしょうがない。
カコーンと体を洗って再び湯船に浸かると、ほど良い温度が体に染み渡ってくるのが分かる。今朝はいきなり登山だったからな。
「ああ、疲れた」
「昨日から移動しっぱなしだったからね、今の内に疲れを落としておくと良いよ」
確かに、列車を乗り継いでの登山は体に堪える。あのまま休み無しだったら倒れてもおかしくは無いかもしれない。
ザザーンと湯が流れる。男湯をまじまじと凝視しても何も面白いところが無い。
「レイジーさん」
湯船に肩まで浸かり、気が落ち着いたからか、それとも男の本能か、僕は半覚醒状態で傍らにぼんやりと尋ねる。
「何だい?」
浴槽の中でも平時と変らない表情で聞き返す。
「お約束とかしないんですか?」
決して望んでいるわけではない。所謂交流として聞いてみただけで、女湯を覗きたいだなんて決して……はい、そうです、覗きは犯罪です、いけない事です。
「流石のボクも、久しぶりの重労働でお疲れさ」
疲れた様子には見えないが、レイジーさんは苦笑して答える。だろうな、うん、分かっていたよと、僕は表情で返す。と、その時、唐突に戸が開く。
「だと思って逆に来てやったぞ、覗きにな!」
覗きという淫靡な響きとは裏腹に堂々と、出入口から神崎さんが現れる。
「ちょ! 手拭くらい巻いてください!?」
続いて、手拭の布一枚姿で奏が入ってくる。って神崎さん素っ裸で入ってきてるし! でも、何でだろう、全然興奮しない。
「レイジーさん、何故か嬉しくないです」
「ま、アレだね。裸で生活する先住民族とかに近い感覚がするよね」
二人してうんうんと頷く。何事にも恥じらいは大事だねって事で。むしろ手拭一枚の奏の方が扇情的と言えよう。
「お前等……人が折角奉仕してやってるのに何だその言い方は!」
どうやら湯船でちょっと引っ掛けていたらしい、脱ぎ上戸な神崎さんが赤い顔で喚く。早く出て行ってくれないかなぁ。
「よぉし、分かったそこまで言うならお前等に天国を拝ませてやる!」
そう言うや否や奏の身に纏っている布に手を掛ける。
「きゃあ!」
「ほら、特と見、っておや?」
ハラリと手拭が落ち、露になったのは、もう一枚布地を身に纏った奏であった。
「ああ、ボクの御土産、着てくれたんだね」
レイジーさんの海外土産の競泳水着を着用した奏は、全裸ではないものの、水を弾く肌にピッタリと張り付いた紺色の布が、体の形を慎ましく強調し、これはこれで。
「ちっ、準備の良い」
憎憎しげに神崎さんが呻く。
「まったく、この人は予想を裏切りませんね……」
呆れた様子で、奏が神崎さんに手拭を掛ける。
「にゃ」
今日は珍客というか、何で男湯に一同揃わなければいけないのか、足並みを控えめに、しょうぐんまでも男湯に乱入してきた。
それと同時に再び戸が開き、今朝方会った仲居さんが顔を覗かせる。
「お客さーん、お背中をお流しに……って、ここは混浴じゃありませんよ!?」
神崎さんと奏に向かって忠告する。
「何だ、良いだろう、別にアタシ等しか客は居ないんだし、そういう口を聞く奴は脱がしてやる!」
そう言って、今度は仲居さんの浴衣を脱がしに掛かる。
「あわわ、ちょっと何なんですかこの人はぁ!?」
抵抗力の無い仲居さんの肌着が素早く脱がされる。
「ちょ、神崎さん部外者は駄目ですって!」
「こらこら、他所さんに迷惑をかけてはいけないよ」
「仲居さん! 逃げてぇ!」
「しゃー」
何故かまたしょうぐんに引っ掻かれた。
「ああ、良い湯だったな」
こっちの苦労も知らず、大広間にて神崎さんは大いに寛ぐ。
豪勢な昼食が人数分並び、一同席に着く。しょうぐんは猫なので、座敷の上に余った材料で猫まんまを作ってもらった。
「それでわ、ごゆっくりどうぞ……ぐすん」
やや涙目に仲居さんが御酌をする。
「本当すみません」
「いえ……酔っ払いの相手も仕事の内ですから……」
健気に微笑み返す仲居さん。着痩せするらしく、風呂場で見せた姿は御淑やかな衣服の中に隠れてしまっている。
「良いモン持ってんだから、もっと露出すりゃいいのにさ」
様々な手法で調理された山菜が、色鮮やかに盛られる善を、早くも箸でつつきながら神崎さんが余計な一言を述べる。
「そういうお店じゃないから……」
奏も御酌に回りながら、神崎さんに突っ込みを入れる。
鬼を模した屏風、欄間もそれに型抜きされ、夜叉、般若の鬼面に掛け軸と鬼尽くしの部屋に、民家から祭囃子の練習が届く。曇った空が水面のように、涼しげな空気と、穏やかな時間を波寄せる。
郷土料理を口に運びながら眺める山と村は、仄かに祭りの熱気を帯び、弾ける時を今か今かと待ちわびているように見えた。
「ほう、御嬢ちゃん、木綿子って言うのかい?」
酌ついでに仲居さんに先刻の無礼などまったく気にせず――この人にとっては軽い挨拶程度なのだろう――語りかける神崎さん。
「はい、元々はもっと麓の方の生まれなんです」
それに丁寧に対応する仲居、木綿子さん、良い子だ。
「ご両親は?」
レイジーさんも会話に加わる。巧みな箸捌き、やっぱこの人日本人だ。
「今、祭りの準備が忙しくて、殆ど私がやってるんです」
確かにここに来てから、女将さんとか他の従業員を見ていない。
「え、じゃあこの料理も?」
「殆どの下拵えはして貰いましたけど、はい、私が」
すごーいと驚愕しながら、箸を進める奏。
「ふぅむ、なるほどなるほど、ご兄弟姉妹は」
この人にしては珍しくただの人間に興味があるのか、神崎さんはさらに質問を重ねる。
「……いませんよ」
やはり他に客は居ないらしく、木綿子さんはこの部屋に居っきりである。話も弾んでいるようで、特に話題に飢えてはいない僕等男陣は食事も終え、暇そうに時間を抓み食う。
「確かに、そうですね」
「だろう? だからこの国ももっと西洋を取り入れるべきなのさね」
思いっきり日本の伝承の専門家が、奏に外国の良し悪しについて語る。どの立場がそう言えるのかなどと思ってはいけない。この人の言動挙動一々問題にしていたら、到底一日じゃ解決しきれない。
「特に衣服に関しては秀逸だな、この下着が流行れば、日本全土の女性の貞操概念や露出度に革命が起こるのさね」
神崎さんが、レイジーさんの海外土産の一つ、外国の肌着を取り出して、見せびらかす。
「いや、でもコレはさすがに衣服としては布地が少なすぎます……」
会話にどっぷりと参加している木綿子さんが、一般的な見解で答える。
「フフフ、確かに大事な部分は隠すべきだ、しかしこうは考えられないか? 大事な部分以外なら別に見せても構わない、とさ!」
「いえ別に」
「にゃ」
神崎さんの脱ぎ道を奏としょうぐんが全否定する。
「そうか、ならば一度着て貰いその閉鎖的な思考に変革を……っと御嬢ちゃんはすでに勝負下着を着用済みだったな」
「それ今言う必要無いですよね?」
冷静に奏が言い返す。そうか、今奏はあんな感じの穿いてるんだとか余計な情報が飛び込んでくる。神崎さんありがとう。
「しかも緑色だぞ、上下お揃いだぞ?」
神崎さんは速やかに奏の背後に回り、いやらしい手つきで腰に手を回す。
「だから、それ今言う必要ないですよね!?」
奏は威勢に任せて神崎さんの手を振り解く。その勢いで神崎さんは木綿子さんの方に倒れ込む様に圧し掛かる。
「仕方ない、こっちのお嬢さんに着用して貰い感想を尋ねるとしよう」
「へ、うえぇぇ――!っ?」
いつの間にか標的になり、木綿子さんが悲鳴を上げて神崎さんを振り解こうともがくが、奏ならまだしも、普通の体格の女性が、なかなか体格のある神崎さんを振り解くのは至難の業である。勿論、僕等男性陣が止めに入るのは無粋な事なので、傍観に徹しているのは言うまでも無い事だが。
「いい加減にしなさいっての!」
奏が引っぺがすように、神崎さんの魔の手から木綿子さんを助け出す。神崎さんは恨めし気に奏を睨む。
「もう少し、先輩に対する態度ってのがあるだろうに」
ふてぶてしくも権力を振りかざす。最低だこの人。
「生憎ですが、神崎さんははしゃいで周りに迷惑をかける子供にしか見えません」
そのまま奏は神崎さんを引っさげて木綿子さんから距離を置く。
「じゃあ、このヒラヒラの透け透けな下着はいったい誰が穿くんだい?」
「自分で穿きなさい……」
ため息交じりに奏が呟く。しかし、下着姿の神崎さんねぇ……うわ合わねぇ、柴犬に服着せた感じ? 半分物の怪。
「坊主、それは流石のアタシも怒るよ」
一応女性としてのなけなしの自尊心を刺激してしまったらしい。しかし、勝手に胸中読んで怒られてもな。一応背は西洋人並みに高いし、胸もあり腰も細いんで、ああいった洋服が似合わないわけじゃないんだが、どうにもこの人は和服の印象が高いので、違和感を感じるのだ。と言っても事務所じゃたまに洋服でいる事もあるので単に印象の問題でもあるが。と、一応褒め称えてみる。
「一言余計だが良しとしておこう」
神崎さんのお許しを頂く。
「ってか、心読むの止めて貰えません?」
コレじゃ、下手な事考えられないし、人権侵害も甚だしい。
「別に読唇や読心なんかしてないよ、単にお前さん等は顔に出やすいだけさ」
済ました顔で神崎さんは乱れた着物を調える。
「顔に……ですか?」
奏が自分の顔をもにもにと弄って確認する。
「悪い事じゃない、悪人の素質が無いだけさ、それに大した事考えてないだろう普段から」
むむ、そんな事は。少年よ大志を抱けとクラーク博士が言うように、僕の胸中には世界征服の野望を秘めているのである。
「ぷくくっ……」
見事に笑われる。やっぱり下手な事は考えない方が良さそうだ。
傍らを見やると、さすが猫というべきか、床に落ちた下着を被ってしょうぐんが遊んでいた。
閑話休題、と言うわけではないが――何せ元々大した話題を取り扱ってはいないので――盛り上がった話題も冷め、食器も片付け終わり、木綿子さんも含めて全員が広間で何気ない時間を過ごす。
朝から晩まで、それこそ一日中鳴り響く祭り準備の雑多な音。耳に焼き付き、塞いでも聞こえて来そうな賑やかさ。
「いやぁ、にしても良い部屋だね、ここからだと祭りが一望出来るんじゃないかな?」
一同浴衣の中、頑なに洋服を着こなすレイジーさんが、窓の外に広がる準備風景を眺める。
「他のお客さんも居ませんから、一番良い部屋をお取りしました、ここからならお祭りの様子が一望できますよ」
木綿子さんが、お茶をそれぞれに注ぎながら笑顔を浮かべる。
「へぇ、でも……仕事があるから」
奏がお茶を受け取りながら、伏目がちに神崎さんを窺う。
「速く終わったら、見るなり見に行くなりくらいいいだろうよ」
お茶とついでにお茶菓子を手に答える。
ここは、他の家々よりも高い斜面に作られており、村のほぼ全景が一望できた。この村に入る時に通った橋や、入口。そして中央に立てられた独特の形の櫓、二本の柱に支えられ、大きい鉄板が間に吊るされ、鉄板には鬼の顔。まったく。
「さすが鬼を祭ってるだけありますね、そこら中鬼だらけ」
部屋の中にも、襖や花瓶の模様掛け軸などに姿を見せる。元々は畏怖の象徴であっただろうが、長い年月がみやげ物や村興しの象徴となったようだ。
「しかもここ丑寅だしな」
神崎さんが満足そうに呟く。鬼門がそんなに嬉しいのだろうか?
「実際お祭りの時は大抵嵐が来ますから、家の中から眺める事をお勧めします」
木綿子さんが、親切に忠告をしてくれる。って言うか嵐なのにお祭りするんですか。
「はい、元々嵐を収めるお祭りだったので自然とそんな形に」
僕の質問に親切に答えてくれる木綿子さん。どうりで、祭りの準備と同時進行で窓や戸口を板で打ち付けてると思ったら。
言われて見れば、山の天気は怒っている様に荒れ始めていた。木綿子さんは祭りが近い証拠ですと言うが、慣れてないこっちは大丈夫かと不安ばかりが押し寄せる。だいたい先月土砂崩れが起きている時点で、祭りだなんて呑気に構えてないで、もっと村全体で万全を整えないと……。
「地方にはそこ特有の価値観がある、郷に入れば郷に従え」
神崎さんに一括で言葉を遮られる。
「大体部外者がどうこう口を出すのは、実際を目にしてからさ」
レイジーさんも神崎さんと同意らしい。
「あんまり嵐が激しい様なら、中止する場合もありますから安心下さい」
どうやら、一応無茶な事はしないらしい。裸祭りやら喧嘩神輿に比べてしまえば、多少天気が悪い事くらい、確かにどうとでもなる事なのかもしれない。
と、談笑をしていると、眼下の坂を上る人影が一同の視界に入る。法被を羽織った初老の村人は木綿子さんを見つけると穏やかそうに声を掛ける。
「木綿子ちゃん、通しの稽古が入るけど参加できるかい?」
「ふむ?」
全員を代表して神崎さんが疑問顔で振り向くと、慌てた表情で木綿子さんは答える。
「あ、私この祭りの巫女役に選ばれてるんです、ああ、どうしましょうお客さんが」
慌てた様子であわあわと左右を見渡す木綿子さんを、神崎さんは肩に手を置き落ち着かせる。
「両親は忙しいんだろう? なら、アタシ等には構わず行って来るといい、代わりに準備の様子を見て回っても?」
珍しくも優しい提案に、木綿子さんが表情を明るくする。
「本当ですか! すみませんこっちの勝手な事情なのに」
「ここ最近客足が無くて寂しかったところだよ、悠々気侭に見て行くといい」
村長と言う訳ではないが、代表の一人だと自称する村人の同意も得、さてとばかりに神崎さんが浴衣を……。
「「っていきなり脱ぐのは止めてください!」」
奏と声が重なる。
「なら何処で仕事着に着替えろと?」
嗚呼、まったく常識の無い人は困る。
「せめて、ここで着替えないで下さい」
奏が幼稚園児か小学生に諭すように言う。
「襖の奥なり、トイレなり、人目のつかない場所なんて探せばいくらでもありますよ」
僕も投げやりに言う。
「んだよケチ、アレか、この世は脱ぎ師の人権を認めないつもりか?」
意味不明な不貞腐れ方をする。てか何だ? 脱ぎ師って、いつの間にそんな反社会的な職に就職なさった? 何か腹立たしいから言い返す事にする。
「遊郭帰れ露出狂」
とりあえず罵倒。
「むしろ星に帰ってください異常者」
便乗して奏も罵倒。
「大人しく従った方がいいよ、ええっと痴女」
レイジーさんまで参加。
「にゃ」
ついでに猫。
「お、お前等一丸になってお姉さんを虐めて! いいよ分かったよ、こっそり一人で脱ぐさ、誰の目にもつかない所でな!」
神崎さんは言い負かされて、と言うか微妙に自覚があるのか言い返せず、哀愁を漂わせながら奥の襖に消えていった。
「むしろそれが普通の事だと理解して貰いたい……」
僕の悲痛な声は襖の奥までは届かず。あんな人がよくもまぁ、色々と捕まらずに生きてこれたものだ。むしろそれこそが超常現象である。
「やや泣いていましたけど、大丈夫なんですか?」
優しくも、木綿子さんが心配をしてくださる。それだけでも彼方の神崎さんは報われる事でありましょう。
いやいいんです、往来で脱衣される事に比べれば、周囲の哀れみの視線を受ける事に比べれば、断然ましなのですと説明した。
日が随分と傾いてきたものだ。空は雲に陰り、熱気は去り、どこか肌寒さを感じさせる。嵐が来るようだった。