本物の世界 :約10500文字 :SF :宇宙人 :仮想空間
僕は思わず声を漏らした。いや、漏らしたどころではない。はっきりと声を上げた。そして、直後に後悔が押し寄せてきた。どうやら向こうに気づかれてしまったらしい。
ベンチの前に前に立つ“それ”は、ゆっくりとこちらへ振り返った。
夜の帰り道。いつもの公園を通り過ぎようとしたときだった。怒声のようなものが聞こえ、僕は何事かと思い、反射的にそのほうへ顔を向けた。その瞬間、まったく見慣れないものが視界に飛び込んできた。
くすんだ白い体に大きな黒い目。それに何より、尻のように大きく盛り上がった頭部――外灯の光は頼りなく、細部まではっきりと見えない。それでも、そこに立つものが人間ではないことを知らせるには十分だった。
あれは――宇宙人だ。
なぜこんな住宅街の公園に、いったい何の目的で地球まで来たのだろう。僕が最初に見つけたのだろうか。とんでもないことだぞ。ああ、本当にすごい。信じられ――。
「何見とんじゃボケ! あああ、クソだらがあああ!」
「え!?」
「なんやあ……文句あるんかいな、ボケナスがあ……」
宇宙人は僕を睨みつけ、吐き捨てるように言った。宇宙の神秘も知性も感じさせない、まるで酔っ払いに絡まれたような生々しい響きだった。
「いや、あの、え……?」
「おん? なんや、ちゃんと翻訳されとるみたいやな。気ぃ回したつもりか、このボケえ! ……おい、兄ちゃん。なーに、ぼさっと突っ立っとるんじゃ。こっち来いや」
宇宙人は雑に手招きしてきた。なおもその場で立ち尽くしていると、「はよせんかい、ボケが!」と一段大きな声で怒鳴りつけてきたので、僕は反射的に駆け出した。僕は昔から押しの強い相手にはどうにも逆らえない性分なのだ。
「はーあ。ほんまクソやわ。こんな世界に叩き込みおって、クソったれがあ……」
宇宙人はベンチにどかっと腰を下ろし、太く節くれだった腕を投げ出すように背もたれに身を預けた。ベンチが軋み、軽く揺れた。
僕は言葉を失った。粗野な言葉遣いに面食らったのもあるが、こうして間近で見ると、思っていたよりはるかに大きかったのだ。優に三メートルはあるだろうか。頭部だけでも僕の胴体ほどあり、体つきも異様にたくましく、盛り上がった筋肉の凹凸のところどころに深い影を飼っていた。僕がこれまで漠然と思い描いていた、細身でひ弱そうな宇宙人の姿とはかけ離れていた。
足元には彼が脱ぎ捨てたのか、ワイシャツやスーツのズボンが無造作に転がっていた。よほど乱暴に脱いだらしく、シャツのボタンがあちこちに散らばり、外灯の淡い光を受けて地面の上にぽつりぽつりと浮かび上がっていた。
「あ、あの……」
僕は唾を飲み込み、ようやく声を絞り出した。
「えっと……宇宙人ですよね……?」
「ああ? そうや。ガダルカスタカルタカカナル星の調査員や。よろしゅうな」
宇宙人はぶっきらぼうに名乗ると、大きな手を僕へ差し出した。僕の顔を覆い隠せるほど大きく、指も竹刀のように太かった。
僕がおそるおそる手を伸ばすと、宇宙人は僕の手をパンと叩き、「アホ面があ」と笑った。僕はじんじんと痺れる手をさすりながら、苦笑を返すしかなかった。
「きっしょい笑い方やなあ、ジブン」
「え、あ、すみません……」
「なんや、声小さいのう。ほんまにちゃんと翻訳されとるんか、これ。けったいなことになってへんやろなあ。もしもーし、ビチグソ饅頭がアナルアスホールキチガイガイガイ■■■■教会の◎▽代表アバズレクサレマン――」
「あ、あの!」
僕は慌てて声を張り上げた。
「あの、調査員ってことは……地球の調査に来たってことですか……? いや、でもこんなところにいて大丈夫なんですか? 変装もしてないし、誰かに見つかったら大騒ぎになるんじゃ……」
「ごちゃごちゃうっさいのう……どうせジブンも疑似人間やろが」
宇宙人は側頭部の穴に――耳だろうか――小指を突っ込み、気だるそうに言った。
「え?」
「情報聞き出すつもりか? まったく手間かけよるわ」
「いや、あの、どういうことですか……?」
「あんのアホンダラのクソAIがああああ!」
宇宙人は空に向かって吠えるように叫び、ベンチの背もたれを拳でガンと叩いた。乾いた破砕音が辺りに響き、木製の背もたれが煎餅のように砕け散り、無数の破片がずっと後方まで勢いよく飛んでいった。
僕はびくりと肩を跳ねさせ、思わず一歩後ずさった。すると宇宙人はふと動きを止め、ゆっくりと首をかしげた。そして大きな黒い目をわずかに縦に細め、まじまじと僕の顔を見つめてきた。
「ジブン……まさか、ほんまもんの人間か?」
「え、どういうことですか……?」
僕は思わず背をかがめ、おそるおそる訊ねた。
「ここ、仮想空間やねん」
「……はい?」
「人類はAIに支配されとる言うてんのや」
「は!?」
思わず声が裏返った。すると宇宙人は忌々しげに口元を歪め、軽く上体を後ろに引いた。それから僕の頭から足元まで眺め回すと、大きくため息をつき、いかにも面倒くさそうに語り始めた。
なんでも彼は地球の定期調査のために派遣されたエリート職員らしい。しかし、待っていたのは以前の記録からは想像もつかないほど変わり果てた世界だった。――以前といっても百年以上も前のことだが――。
大地は荒れ果て、黒くどろりとした川や湖がそこかしこに点在し、大きな泡を立てていた。空気もひどく汚染されており、遠くの景色は霞み、鳥などの生命の気配はほとんど感じられなかったという。近代的な白亜の高層建造物こそ立ち並んでいたものの、そこに人の姿はまったくなかった。
その激変ぶりに驚きながらも調査を続けていたところ、AIが制御する対空兵器に捕捉され、乗っていた宇宙船を撃墜されてしまった。かろうじて生き延びたものの、その後に虫のようにわらわらと集まってきたロボットの大群に取り押さえられ――相当暴れまわったらしいが――仮想空間の中へ、つまりこの場所へ放り込まれたのだという。
「……いや、ありえないでしょ」
僕はぽつりと呟いた。
「だって僕はここで生まれて、ずっとここで育ってきたんですよ」
「そない、記憶を消されたか、赤子ん頃にここへ放り込まれたんちゃうか?」
宇宙人はどうでもよさそうに言った。それから「ああほら、あれ見てみ」と気だるげに僕の背後を指さした。
振り返ると、会社帰りらしいスーツ姿の男が歩いていた。僕は思わず身構えたが、男はこちらをちらりと一瞥しただけで、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎていった。あたりは薄暗いとはいえ、ベンチに座る宇宙人の姿ははっきりと視界に入ったはずだ。にもかかわらず、男は立ち止まるどころか、二度見すらしなかった。
「疑似人間や」
「疑似人間……?」
「AIが作り出した、人間そっくりの紛いもんや。ほんまもんの人間はもっと少ないんちゃうか? たぶん戦争かなんかで、ごっそり減ったんやろな。ジブンらアホやし。外の世界は、そらもうえげつない有様やったで。まあ、AIが勝手に暴走したっちゅうより、人間のほうから『いっそ仮想空間で暮らして、AIに全部管理してもろたほうが楽や』とでも考えたんかもわからんがな」
宇宙人は鼻で笑った。
「ジブンがここを通りがかる前にも、何人もわしの目の前を素通りしていったわ。たぶんあいつらの目には、わしも普通の人間に映っとるんやろ。まあ、異星人なんぞAIの想定に入っとらんのやろしな。もっとも、あんま騒ぎになったり、時間が経ったら対応してくるかもわかれへんが。おお、憎たらし。わしの星じゃ、AIなんぞとっくの昔に規制しとるんや。それを地球人ときたら、ほんまどうしようもないで」
だんだん頭がくらくらしてきた。目の前に宇宙人がいるという、その一点だけでも理解が追いつかないのに、この世界が仮想空間だなんて。これまで僕が当たり前だと思っていた景色も生活も、人間関係もすべてが偽物かもしれない。そう考え始めると足元の地面さえ信用できなくなってきた。
僕は一度踵を浮かせ、ぐっと地面を踏みしめた。しかし膝が震え、返ってきた感触に自信が持てなかった。
体がふらつき、うまく呼吸ができない。喉が妙に渇いて、胸の奥まで手を突っ込まれたかのようだった。でも、この息苦しささえ作り物だというのか。
「あ、あの、本当に……本当に、ここは仮想空間なんですか?」
僕はすがるような思いで訊ねた。さっき手を叩いたような性質の悪い冗談であってほしかった。
「だって僕は、物心ついたときからずっとここに……。両親もいるし、学校にも行ったし、今日だって仕事してきたんです。毎日しんどくて、コンビニで缶ビールとつまみを買って帰るのが毎日の楽しみで……。まあ、明日も仕事なので一杯だけにしておくんですけどね。上司もちょっとそりが合わないと言いますか、ははは、まあ、言ってしまえば嫌な人で――」
「話長っ。ジブン、アホなんか?」
「あ、すみません……」
僕は小さく頭を下げた。何が言いたいのか、自分でも途中でわからなくなっていたが、今日一日を振り返ると皮肉なことに現実感が少し戻ってきた。だが、顔を上げて宇宙人の姿が目に入った瞬間、その感覚はすぐに霧散していった。
「せやから、それはさっきも言うたやろが」
宇宙人は心底呆れたようにため息をついた。
「ジブンの両親も友だちもタレも、どうせみーんな疑似人間や。お疲れさん」
宇宙人はそう言って手をひらひらさせた。あまりにもあっさりとした物言いだったが、それゆえに嘘をついてからかっているようには感じられなかった。
「……ま、生まれたときからAIに育てられたっちゅうんなら、ある意味ここがジブンの世界そのものってことになるんかもしれんな」
宇宙人はどこか皮肉めいた笑みを浮かべた。それから「よしっ」と呟き、膝をぱんと叩いた。
「ほんじゃ、とりあえずジブンち行こか」
「えっ、僕の家ですか……?」
「こないなところで話しとるのも落ち着かんしな。ほら、そうと決まったら、ちゃっちゃか動く!」
宇宙人は勢いよく立ち上がった。巨体が目の前にそびえ立ち、僕は思わず身を引いた。だが、宇宙人はそんな僕の反応など気に留めることなく、僕の背中に手を添えるなり、ぐいと押した。
その力は尋常ではなく、僕は牛か車にでも押されているような感覚で歩き出した。
そうして僕は、流されるまま自宅アパートまで案内し、部屋に上げる羽目になった。
アパートに着くまでの道中、何人もの通行人とすれ違ったけれど、誰ひとりこちらを気にする様子はなかった。せいぜい宇宙人が「おう、コラ」と悪態をついた折に、逃げるように歩調を速めたくらいだった。
「ふーう、まったくほんまクソやわ」
ドアを開けるなり、宇宙人は僕を押しのけるようにして室内に上がり込み、床に片肘をついてどかりと寝転んだ。
僕もその向かいにそっと腰を下ろした。圧迫感を感じるのは、部屋が狭いせいだけではないのかもしれない。
「ま、手は打ったけどな。舐めんなっちゅう話や、クソが」
「手?」
「こっちの話や。それより、アクセスポイント知らんか?」
「アクセスポイント……?」
僕は首をかしげた。
「何やその顔。腹立つわ」
宇宙人はそう言って、手の甲で僕の膝を軽く叩いた。その衝撃で僕は座ったたままその場で跳ねた。宇宙人は肩を揺らしてけらけらと笑った。
「ええか? こうしてわしがここに送り込まれたっちゅうことは、外の現実世界と繋がりがあるっちゅうこっちゃ。そこへ侵入して外にアクセスできたら、ほんまもんの肉体のほうで目覚められるはずや」
「外にアクセスって、そんなこと可能なんですか……?」
「舐めんなよって。わしはエリートやぞ」
宇宙人はくいっと顎を上げ、鼻を鳴らした。でも、AIに撃墜されたのでは――とは口にできなかった。
「ほんで、知らんのか? どっかにシンボルみたいな目立つ建物とかないんか?」
「シンボルって言われても……あっ、ドナルド・タワーならありますけど」
「ドナルド・タワー?」
今度は宇宙人が首をかしげた。
「高層ビルです。この辺りで一番大きな建物で、中にはオフィスや居住スペース、それから展望室もあって、町のシンボルみたいな存在ですけど……」
「そこや」
宇宙人はびしっと指さした。
「間違いあらへん。なんやけったいな名前やが、わしの勘がそこや言うとるわ」
「え、いや、そんな目立つ場所に大事なものなんて置かないんじゃないんですか?」
「アホ。この世界が仮想空間やなんて誰が知っとんねん。こそこそ隠す意味もないわ。むしろ、そういう目立つ場所に置いたほうが異常が起きたときに対処しやすいやろ」
「そう……かな」
「それにクソAIはクソ人類を学習して出来上がっとるんや。性根クソクソの最悪に決まっとる。目立つ場所にでかでかと置いて、なーんも知らん人間どもに見せつける。こんな痛快なことあらへんやろ。おっ勃てたペニスを見せびらかしとるようなもんや」
僕は顔をしかめずにはいられなかった。
「ほな、そこまで案内してくれや」
宇宙人は僕の反応など歯牙にもかけず、立ち上がった。
「え、今からですか?」
「当たり前や。昼も夜もあらへん。ここ、仮想空間やぞ」
「いや、でもビルには警備員とかいるんじゃ……」
「さっきベンチ叩き壊したとこ見たやろ。あのアホAI、わしの力をろくに調節もせんと、そのまんまの生体情報でこの世界にぶち込みよったんや。ビチグソ人間どもが何人束になったところで大したことあらへんわ。ま、のんびりしとったら、そのうち向こうも異常に気づいて調整してくるかもわからへんけどな。そういうこっちゃ。ほら、行くで」
「でも……」
「何遍も言わすなや! 決まったらちゃっちゃか動く! イライラさせんな、このアホが!」
宇宙人は僕の首根っこを掴んで無理やり立たせると、また背中を強く押してきた。僕は抵抗することもできず、半ば引きずられるようにして外へ連れ出された。
通りでタクシーを拾い、ドナルド・タワーの前で降りた。
夜に覆われたビルは、墨を塗ったように黒々と空へ伸びていた。ところどころに窓明かりが灯り、その一つひとつが無機質な外観の中に人の温度を滲ませていた。
やっぱり、ここが仮想空間だなんて信じられない。このタワーだって、小学生の頃に遠足で来たことがある。
『これが、ドナルド・タワーだ』。そう言って、引率の先生はどこか誇らしげにビルを指し示した。その指の先を目で追っても、なお見上げ足りなかった。上体を限界まで反らしても頂上が視界に収まらず、先生も身長が高いほうだったが、それよりもはるかに高くそびえていた。仰け反りすぎて思わず尻もちをつきそうになり、隣にいた友だちに笑われた。
展望室から町を一望したときの感動も忘れられない。普段歩いている道も、ちょっと遠出して門限に間に合うかどきどきしながら急いで帰った道も、まだ行ったことのない場所までいっぺんに見えた。自分が住んでいる町はこんなにも小さくて、でも世界は広いんだって思った。
それから、あっちの公園に移動して、仲のいい友だちとビニールシートを広げておにぎりを食べたこともある。持ってきたお菓子を交換したり、フリスビーで遊んだりした――彼らがAIによって作られた疑似人間だなんて、到底思えなかった。
やっぱりやめよう――僕はそう思ったが、宇宙人はそんな僕の逡巡などお構いなしに自動ドアをくぐっていった。
僕は慌ててその後を追った。
ロビーには警備員が二人立っていた。彼らは僕たちの姿を認めるなり、怪訝そうな顔つきでこちらへ近づいてきた。が、次の瞬間――宇宙人は二人の頭を両手でそれぞれ鷲掴みにし、まるで熟れた果実を潰すように、いともあっさりと握り潰した。
一瞬、ガラスを爪で擦るような耳障りな音が響いた。続いてぐちりと湿った音と骨が砕ける鈍い音が重なり合い、二人の身体はほぼ同時にその場にずるりと崩れ落ちた。いや、一人は頭の一部がまだ宇宙人の手にへばりついており、脛を床につけながらも、かろうじてその身体を支えていた。しかし、やがて重みに引かれて限界まで伸び、ぶちりと音を立ててちぎれ、床に倒れ込んだ。
ぐしゃぐしゃに潰れた頭部から覗く白っぽい脳みそが、こちらをまっすぐ向いていた。流れ出した血液が大理石調の床の上をゆっくりと這うように広がり、照明の光を反射していた床面を赤黒く染めながら、その光を静かに呑み込んでいった。
宇宙人は両手を広げ、手のひらにこびりついた肉片をぱっぱと振り払った。
僕はその場で吐いた。
「どうせ最上階やろ。ほら、行くで」
宇宙人はちらりとこちらを振り返り、そう言った。どこか機嫌が良さそうだった。
僕が足をもつれさせてよろめくと、宇宙人は面倒くさそうにため息をつき、僕の肩を乱暴に掴んだ。そしてそのまま引っ張られ、僕は足元もおぼつかないまま、エレベーターの前まで歩かされた。
エレベーターに乗り込むと、宇宙人はためらうことなく最上階のボタンを押した。扉が閉まり、暗い金色の塗装にぼんやりと僕らの姿が並んで映っていた。
やがてエレベーターは最上階にたどり着いた。
扉が開くと、そこには灰色のカーペット敷きの床に赤い壁の廊下が、まっすぐ奥まで伸びていた。一階の開放的なロビーとは打って変わって無機質で、まるで部外者を拒むような張り詰めた空気が漂っていた。
壁際に置かれた椅子に警備員が一人腰掛け、新聞を広げていた。
腰には拳銃のホルスターを提げており、彼は僕らの姿を認めると弾かれたように立ち上がった。そして、そこへ素早く手をかけた。
「おい、お前ら――」
警備員がこちらに声をかけた、その瞬間だった。宇宙人は一気に間合いを詰め、彼の目の前に立った。銃を抜く暇はなかった。その頭を片手で掴むと、そのまま壁に叩きつけた。
鈍く重い衝撃音が廊下に響き渡り、肌がびりびりと震えた。警備員の身体は一度びくんと大きく跳ね、それきり力を失って床へ崩れ落ちた。頭部は踏み潰されたアルミ缶のようにひしゃげ、飛び散った血が壁にアメーバ状に広がった。今気づいたが、血と壁はほとんど同じ色をしていた。
「おっ、セキュリティカード持っとるやんけ。油断しすぎや、アホが」
宇宙人は警備員のズボンのポケットを探り、セキュリティカードを引っ張り出すと、機嫌よさそうに軽く頭を揺らしながら奥の扉へ歩いていった。
僕はふらふらと警備員のそばへ歩み寄り、その場にぺたんと膝をついた。むせ返るような鉄臭い匂いが顔を撫で、鼻の奥をつんと刺した。目の前に横たわっているのは、どう見ても生身の人間だった。
「あ、あの……僕、もう帰ってもいいですか……?」
僕は壁に手をつきながら宇宙人に歩み寄り、震える声でそう言った。宇宙人は扉の横に据え付けられたパネルへカードをかざしながら振り返り、露骨に顔をしかめた。
「もう、僕がここにいても意味ないでしょうし……」
「意味ないことあらへんがな」
宇宙人は肩を揺らして笑った。
「ジブンもこれから外の世界へ出るんや」
「え」
「こないな作りもんの世界に閉じこもっとる意味ないやろ。むかつかんのか? ジブン、生まれてこのかたずっと、AIに管理されとるんやぞ。何食うかも誰と出会うかも、クソする時間すら全部あっちの都合で決められとるかもわからん。そないな人生嫌やろ」
宇宙人はそう言って肩をすくめた。
「安心せえ。うちの星に連れ帰ったる。んで、こーんなナイスなボディに改造したるわ」
宇宙人は手のひらで自分の身体を撫でつけ、笑った。
「で、でも……」
僕は一度言葉を切って、唾を飲み込んだ。
「僕は不自由さとか、誰かに操作されてるとか、そういうのをこれまで一度も感じたことないですし……」
「はあ」
宇宙人は呆れ果てたという様子で大きくため息をついた。
「ジブンなあ……。水槽で生まれた魚に『そん中で暮らしとって息苦しないんか?』って聞いて、魚が――まあ、ええわ」
カードの読み取りが完了したらしく、短い電子音が鳴った。そして扉が静かに開いた。
「さ、行くで」
ほんまダボが――宇宙人はそう吐き捨てるように言って中に入った。僕はためらったものの、一人で戻る勇気もなく、結局そのあとに続いた。
宇宙人が室内に足を踏み入れると、天井の照明が手前から順々に点灯していった。
壁一面に大きな窓があり、その向こうには街明かりが広がっていた。眼下に連なる無数の光を眺めていると、昔、展望室から見下ろした景色が脳裏に蘇った。夜ではあるけれど、確かに昼間の輪郭を残している。懐かしくて、今はとても遠い。
そして、部屋の中央には四角い台座が据えられていた。
僕は思わず息を呑んだ。
青白い光を放つ球体。それが支えもなく宙に浮かんでいた。その周囲には金属製と思しき三つのリングが配置され、それぞれ異なる速度と角度で音もなく回転している。機械らしい駆動音はまったく聞こえず、僕の知る科学技術の範囲から完全に外れていた。ともすれば、これこそがこの世界がAIによって創られたものである証だと言えるのではないか――そう考えた途端、宇宙人の語っていたことが急に現実味を帯び、背筋に寒気が走った。
ただ、それでも僕は目を逸らすことができなかった。
綺麗だった。本当に。
まるでテレビやネットで見た、宇宙から撮影されたこの星の姿のようだった。青白く輝くその球体を眺めていると、僕が今まで暮らしてきた世界を、遠く離れた場所から眺めているような感覚が込み上げてきた。
この向こうに『本物』があるのだろうか。もしそうなのだとしたら、それはどんな色をしているのだろう。宇宙人は外の世界は汚れていると言っていたけれど、それでもどこかに綺麗な場所は残っていないのだろうか。
「センス無っ。ま、シンボルみたいなもんやろうし、どうでもええけどな」
宇宙人はそう言うと、球体へ手を伸ばした。
そのときだった。背後でポーンという電子音が響き、僕は反射的に振り返った。
エレベーターが到着したのだ。扉が開くと、中から警備員がぞろぞろと現れた。
皆一様に無表情で、その手には銃を構えている。さらに窓の外に複数のヘリコプターが現れ、ローターの風圧で窓ガラスがびりびりと震えた。
「やかましいのう。何人湧いてこようが無駄や。こっちは身体改造受けてんねん。素手で片ァ付けたるわ――って、何しとんのや、ジブン」
こちらへ振り返った宇宙人の両目が大きく吊り上がった。
その黒い瞳の中心へ照準を合わせ、僕は銃口を静かに固定した。先ほど、廊下で息絶えた警備員のホルスターから抜き取っておいた拳銃の。
自分でも不思議なほど心が落ち着いていた。さっき吐いたせいかもしれない。頭がじんわりと痺れ、恐怖も迷いも今はどこか遠く、心地よさすら感じていた。
背後で響いていた無数の足音がぴたりと止まった。静かだった、とても。ヘリコプターの音さえ遠のいたように感じられた。辺りはしんと静まり返り、誰かが息を呑む音が僕にははっきりと聞こえた。
宇宙人は何か言おうとしたのか、口を開いた。
それが何だったのか、僕にはわからない。
次の瞬間、僕はもう引き金を引き終えていた。
◇ ◇ ◇
あの夜から数か月が過ぎた。
脅されて無理やり案内させられただけということで、僕に特にお咎めはなかった。それどころかむしろ感謝され、数日後にタワーの関係者の何人かと握手を交わし、いくらかの金まで口座に振り込まれた。
といっても、それまでの暮らしぶりを変えるほどの額ではなかった。読み終えた本を本棚に戻すように、僕は以前と変わらない生活に戻ったというわけだ。
放たれた銃弾は宇宙人の眼窩を貫き、脳を抉ったうえで頭蓋骨の内側を幾度も跳ね返り、内部をズタズタにしたらしい。虫に食われた果実のような有様だったという。身体改造の影響だろうか、彼の頭は相当硬かったらしい。
宇宙人はその場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。ほぼ即死だったという。
宇宙人の存在が世間に公表されることはなかった。それはここが仮想空間だからなのか、それともタワーの関係者が裏で手を回したためなのか。どちらもあり得る話だ。
ただ、あの夜から数日が経つ頃には、真相なんてどうでもよくなっていた。
それは心境の自然な変化なのか、それとも僕自身が知らぬ間にAIに調整されたからなのか。
僕にはわからない。けれど、少なくともあの瞬間、僕は誰に強いられるでもなく、自分自身の意思で選び取った。それだけは確かだった。そして、その感覚がなんだか心地よかった。
ここは僕の世界だ。僕が生きる本物の世界だ。
たとえ――じきに崩壊するとしても。
また空が割れた。また。また――。
青空に黒い亀裂が幾筋も走り、その奥から底知れない闇が覗いた。内側からひび割れていくかのように、空全体へと広がっていく。時おり赤や緑の線が稲妻のように走り、そのたびに視界だけがひどく揺らいだ。
建物が消え、犬が消え、道行く人々の姿が次々と消えていった。ついさっきまで確かにそこにあったはずのものが、破片ひとつ残さずふっと消え、あとには黄緑色の平面だけが残された。
うろたえて右往左往する人もいれば、そんな異変にまるで気づいていない様子で平然と歩き続ける人もいた。その数は後者のほうが圧倒的に多かった。いつもと同じように信号を待ち、道を渡り、消えかかっている建物の中へ入っていく。そして消えた。
世界が壊れていく。
――ま、手は打ったけどな。
あの日、あの宇宙人が口にした言葉が頭の奥で蘇り、何度も反芻された。
彼の仲間が同胞を救いに来たのか、それとも報復に来たのか。
僕にはわからない。
やがて目の前が真っ黒に塗り潰され、身体のあらゆる感覚が消え失せた。
音も臭いも、手も足も、耳も目も鼻も何ひとつ感じ取れなくなった。自分が今、立っているのか横たわっているのか、それすら判然としない。
ただ、まるで頭蓋骨を直接叩かれているかのような鈍い振動だけが、断続的に脳に響いていた。
そして僕は――風を感じた。
ほんの一瞬だったけれど、確かに風を感じた。
もしかすると、僕は外に出たのかもしれない。思っていたような形ではなかったとしても、あの宇宙人が言っていた、この世界の外側へ。水槽の魚が、ある日ふいに外へ跳ね出るように。
ただ――悪い気分ではなかったんだ。
本当さ。




