ピアノ鳴る、なる……。
忍び込んだのは、真夏のある夜。
小学校の校舎、夏休みの夜中にひとりこっそり入り込み、ひんやりと涼しい空気をまとって夜の夜中に、線香花火で遊ぶつもりで。
ちり菊、ちりちり……ぽとんと最後の花火が燃えつき、じゅ、っと小さなペットボトルに入れた水に燃えかすを落として、満足の吐息をついたとき。
――ぽぉん……と小さく音が聞こえた。ぽおん、ぽぉん……ぽろぽろぽろん、ぽろぽろんっっ!!
「ピアノだ……」
鳴っている。明かりもつかない、誰もいないはずの校舎、音楽室から聴こえてくる。
――G線上のアリアと、パッヘルベルのカノンを織りまぜ綯い交ぜアレンジして繰り返しくり返す水音のような調べが、ぼくのほおから耳にかけて『こっちへおいで』と甘く誘う。
「行っちゃ……だめだ……」
駄目だダメだ、だめなんだ。
もうちょっと、もう少しで救えるから。きっと救ってみせるから。やめてよ兄さん、もうやめて……!
ひとりっ子のはずの僕は、頭をふるふる振りながら、願う、祈る、こいねがう。
『……ちょっと様子を見に来ただけだ』
『じゃあな、お前。愛しいいとしい、弟よ……』
ピアノの音がふっと途絶えて、思わず目を上げた、その瞬間。
「……ほたるだ……」
音楽室の窓からふぅわあっと蛍が飛んだ。花火よりずうっと綺麗だ、きれいだ。ひとだま? 幽霊? それとも、まさか……、
『綺麗だ……』
知らないお兄さん、お姉さんの声が無数に耳もとでさわさわ響き、僕はひとり、夜の校舎の真ん中でかがみ込んで泣き出した。夜空のしらしら明けるまで、おんおんおんおん、泣いていた。
* * *
あれから何年たったろう。
僕は今日から高校生、信じられないほど大きく育った金木犀が名物の、県内ではちょっと名の知れた高校で、僕は今日から一年生。
……なんだろう? 何だか妙になつかしい顔ばっかりだ。きらきら、うふふ、くすくす、あはは……さらさらしゃらしゃら流れる美声に導かれつつ、目をつむって手を伸ばす。
「――やあ、また逢えたね!」
僕の白い手をしっかり握り、もう離さないと言わんばかりにしみじみさすり、夜ごと夢に見たあのひとが、目に涙をいっぱい溜めてそこにいた。
目の前に、すぐそばに、いてくれた。
(……おかえり……)
息だけの声でそうささやかれ、ぼくの視界もうるうるきらきらにじんできて、けれど涙をふりきって、ぱしっときっぱり言ってやる。
『ただいま、兄さん!』
そのままくいっと手を引かれ、僕らはワルツを踊り出した。あぁ、あのひともいる、あの方もいる、ただいま、おかえり、ようこそようこそ、よくやった……!
入学式も勉強も忘れ、僕らは日の暮れるまで、金木犀の樹のまわりでくるくるくるくる、踊り続けた。
「そろそろお家にお帰り」と、すずめがちゅくちゅく鳴いていた。樹の枝に無数に鈴をつけたみたいに、ちりちり、うふふと鳴いていた。
(了)




