第26話 束の間の日常 リーナ&エリス
◆【書斎の静寂】──リーナ
深夜。静まり返った書斎に、かすかな気配が差し込む。
ペンを止めたラルが顔を上げると、ドアの隙間からリーナの姿が見えた。
「……ラルさま。少しだけ、お時間を……よろしいでしょうか」
「……リーナか。いいよ。入って」
そう言って椅子を少し引くと、リーナは音もなく近づき、隣に腰を下ろした。
その仕草すら、どこか緊張を孕んでいるように見える。
数秒間、何も語らず見つめ合う。
けれど、ラルはふと気づく。
リーナの目が、いつもより“ほんの少しだけ”揺れていた。
「……他の皆さまが、ラルさまに“触れていた”時間、すべて記録しております。
ですが、わたくしも……欲しくなってしまいました」
「……リーナが、そんなことを言うなんて。珍しいな」
少し驚きながらも、ラルは声を和らげた。
彼女の肩に、見えない重荷があるような気がして。
「欲しい、って……俺の、何が?」
「……ラルさまの温度です」
リーナの言葉は静かで、だが確かに熱を帯びていた。
そっと手を差し出す彼女に、ラルは微笑みながら指先を重ねる。
けれど──それだけでは足りない、と感じた。
「……こっちのほうが、あったかいかもな」
そう言って、ラルは自ら手を伸ばし、リーナの頭を優しく撫でる。
指先が髪を梳き、額に触れた瞬間──リーナの肩が、かすかに震えた。
「……ぁ……」
かすれた吐息。
瞳がうっすらと潤み、頬がじんわりと赤らんでいく。
けれど、それは涙ではなく、溢れそうな幸福が滲んだものだった。
「……温かい、です。ラルさまの手……とても、落ち着きます」
「……リーナ、」
ラルは、そっと彼女の横顔を見つめた。
普段は感情の起伏を一切見せない少女が、今、
“安心”という感情に身を委ねている。
そんな彼女の表情を見て──ラルの胸にも、何かがふっと灯る。
「……俺、お前にこんな顔を見せてもらえるとは思ってなかった」
「そう、でしょうか……」
「うん。たぶん俺だけが、知ってる顔だ」
リーナの頬が、さらに赤くなる。
「……この時間、記録ではなく、“記憶”として残します。
理屈では処理できない……とても、大切な感情ですから」
その言葉に、ラルは柔らかく目を細める。
そっと、撫でていた手を止めようとした──が、
リーナはほんの一瞬だけ、
手の甲に、ふわりと自分の頬を預けた。
「……ラルさま。もしも、また心が疲れたときは……わたくしにも、こうして甘えてくださいませ」
「……ああ。約束する」
ラルの言葉に、リーナはそっと目を閉じた。
それは、世界にひとつだけの、静かな微笑み。
この夜、クールな少女は、
誰にも見せない“素の心”を、たったひとりの人にだけ預けていた。
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◆【夜の居間】──エリス=グレイア
「ふぅ……今日もお疲れさま、ラルくん」
夜の居間に、柔らかな灯りが揺れていた。
ラルが何気なく通りかかると──エリスは、ソファで軽く伸びをしながら手招きする。
「はいはい、こっちおいでー。遠慮しないの。今日は“甘やかしてあげる日”だからさ」
「……いつからそんな日が制定されたんだよ」
「今この瞬間からだよ♪ 異論は却下~」
にこやかに笑いながら、ぽんぽんと自分の太ももを叩く。
見るからに“ここに頭を置け”というジェスチャーだった。
ラルは一瞬だけ躊躇したが、ため息をひとつ落とし──
静かにソファに腰を下ろし、エリスの膝に頭を預けた。
「……まったく、お前はいつも強引だな」
「でも、嫌じゃないでしょ?」
そう言いながら、エリスは優しく彼の髪を撫でる。
その指先はまるで羽根のように軽く、けれど確かな温もりを帯びていた。
「ラルくんの髪、前よりちょっと伸びたかも。……ねえ、知ってる?」
「何をだ」
「戦場にいた頃、寝落ちする直前のラルくんって、眉間にシワが寄ってたの」
「…………」
「でも、今は違う。こうして撫でてると、少しずつ顔がゆるんでく。……私、それがすごく嬉しいの」
囁きながら、エリスの表情はゆるやかにほどけていく。
けれど──その笑顔の奥には、静かな“執着”があった。
「ねえ、ラルくん」
「ん……?」
「私さ、ずっと見てたんだよ。誰より近くで。
泣いてる顔も、震えてる背中も……全部、ぜーんぶ。知ってるの」
「……あまり思い出させるな。あの頃は……」
「ね。だからもう、“これ以上”は誰にも見せちゃダメだよ?」
撫でていた手がふと止まり、優しく──けれど逃さぬように、ラルの頬に触れる。
「私が守るの。私だけが、見ていいの。……ね?」
その声音は甘く、優しく、そして……何より、確信に満ちていた。
「他の子たちには、ちょっと甘すぎるよ、ラルくん。
……ねえ、騙されちゃダメだよ? 誰よりも、あなたの弱さを抱きしめられるのは──」
「私だけ、なんだから」
微笑みは消えない。けれど、瞳だけが静かに、狂気を帯びて揺れていた。
それは、戦場を共にくぐり抜けた“隣人”だけが持つ、絶対の優位性。
そして同時に、“誰にも譲れない”と心に決めた女の、境界線だった。
ラルがそっと目を閉じると──
「うん。おやすみ、ラルくん。……いい夢、見せてあげる」
エリスはそう囁きながら、膝の上で眠りかけるラルの髪に、優しく口づけた。




