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第8話 静かな書院

夜の帳が、長安郊外の書院をひそやかに覆っていた。

冬の冷気を残す風が、わずかに障子を鳴らす。


部屋の隅に小さな火鉢が置かれ、淡い火が揺れている。

その明かりに照らされて、劉珣は枕元に積まれた書を一つ一つめくっていた。


指先の動きは遅く、苦しげな咳がたびたび洩れる。

それでも眼だけは、決して曇らぬ光を湛えていた。


「……張暁、無事に辿り着いただろうか。」


呟きは、ひどく弱々しいものだった。


隣室で看病をしていた白衣の若者が襖を少し開けた。

劉珣の友人であり、幼馴染でもある孟凌である。


「もう少しお休みを。あまり無理をなさらぬよう……。」


「……心配をかけるな、孟凌。お前には書院の管理も任せきりだ。」


「そんなこと……。」


孟凌は言葉を濁した。

どれほど気丈に見えても、劉珣の身体は限界に近いと知っていた。


だが、そのとき。


「御免!」


門のほうから荒い声が響いた。

夜更けに似つかわしくないその気配に、孟凌は立ち上がる。


廊下を渡って玄関へ向かうと、そこには旅装を解かぬ張暁が立っていた。

足には泥がこびりつき、髪も乱れている。

だが、その眼には確かな光が宿っていた。


「張暁……!無事だったのか!」


「なんとか、な。」


張暁は息を整え、孟凌を一瞥した。


「――すぐに坊やに会わせてくれ。大事な話がある。」


孟凌は頷き、劉珣の寝所へ案内する。

襖が開くと、劉珣はわずかに笑った。


「おかえり、張暁。」


「……ただいま。」


張暁は座を正し、懐から書簡を取り出した。

それは諸葛亮孔明の返書。

小さな封蝋が、静かに月明かりを反射していた。


「孔明殿は、あんたの書状を受け取ってくれた。

 それだけじゃない。――いずれ自ら会いに来ると仰った。」


「……そうか。」


劉珣は短く息をついた。

それは安堵の吐息か、それとも別の何かか。


「これで、一つの節目だな。

 ――風は、動き出す。」


張暁は黙って頷いた。

自分には理解できないほど遠い未来を見ている、その眼差しを知っていたからだ。


劉珣は手を伸ばすと、書簡を胸元にそっと置いた。


「張暁。お前が行ってくれたから、この約束は繋がった。

 ……礼を言う。」


「礼なんかいらん。俺はただ、約束しただけだ。」


「そうか。」


二人の間を、しばし静寂が流れる。

遠くで木霊する犬の声だけが、夜の深さを告げていた。


やがて孟凌が口を開く。


「これから、どうされるのです。」


「……孔明殿が動くまでに、やるべきことはまだある。」


劉珣は微かに笑った。

弱い笑みだったが、どこか光があった。


「孫権も、劉備も、いずれ争いの只中に入る。

 そのときに備え、荊州をめぐる策をまとめねばならぬ。」


張暁が目を細めた。


「……体は限界だぞ。」


「わかっている。」


それでも筆を置く気はない。

その決意を、張暁も孟凌も知っていた。


「孟凌、頼む。机をここに運んでくれ。」


「……はい。」


孟凌は小さく目を伏せると、机と文房を抱えて戻ってきた。

枕元に筆と紙が置かれる。

劉珣は細い指で筆を取り、夜の帳の中、静かに書き始めた。


(――この志が、誰かの心を動かすなら。)


それだけを胸に、墨を落とす。


その筆先から紡がれるのは、戦を終わらせるための構想。

今はまだ誰にも知られぬ、白衣の影の策――。


(第8話 了)

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