第7話 風を裂く剣
春まだ浅い山道に、冷えた風が鳴っていた。
張暁は、険しい峠道を一人で進んでいた。
腰の剣が、歩みのたびにわずかに揺れる。
背には書簡と徽章。
それは劉珣から託された未来そのものであり、同時に、彼の命を繋ぐたった一つの望みだった。
「……あいつ、本当に人を困らせる天才だな。」
張暁は独りごち、薄く笑った。
険しい岩場を越え、林に差しかかる。
そのとき――風とともに、ひそかな殺気が漂った。
「止まれ。」
前方に立ちはだかったのは、粗末な鎧に身を包んだ三人の男たち。
背後の茂みからも二人、弓を構えた影が現れた。
「街道を通るには、通行料が要るぜ。荷物を置いて、剣を抜くな。命は取らねぇ。」
「そうか。」
張暁は軽く首を回すと、ゆっくりと剣の柄に手を添えた。
「じゃあ言っておく。――通行料は、命で払ってもらう。」
風が止まった。
次の瞬間、張暁の影が弾けるように飛ぶ。
「なっ――」
盗賊の一人が叫ぶ間もなく、剣閃が走る。
一人、二人――風の中で声を上げる暇もなく倒れていった。
弓兵が矢を放つが、それはすでに遅い。
張暁は幹を蹴って身を浮かせ、弓兵のひとりを柄で叩き伏せた。
残る一人は剣を取り出そうとしたが――それより早く、張暁の刀がその喉元で止まっていた。
「ひ……!」
「命を惜しむなら、二度と人を襲うな。今すぐ逃げろ。」
男は血の気の引いた顔でうなずき、転がるように林の奥へ消えていった。
「……やれやれ、こんな奴らに手を出されちゃ、坊やの策も水の泡だな。」
剣を収めると、張暁は何事もなかったかのように歩みを再開した。
そして数日後――。
荊州、襄陽。
城下にほど近い館の奥、書斎のような静かな間。
諸葛亮孔明は、机に向かって筆を運んでいた。
襟元を整えた淡青の衣、背筋の伸びた姿には、静謐な威厳が漂っている。
そのとき、控えの者が慌ただしく駆け込んだ。
「孔明殿。見知らぬ使者が、一通の書状と徽章をお持ちです。ご自身を“張暁”と名乗っています。」
諸葛亮の筆が止まる。
「張暁……?」
「劉珣という名を挙げられました。」
一瞬、諸葛亮の目がわずかに揺れた。
だがすぐに、静かな声音で言った。
「通せ。」
やがて、張暁が通される。
旅装のままの彼は深く一礼した。
「諸葛孔明殿。私は張暁と申します。
このたび、ある御方の命を受け、貴殿に書状と徽章をお届けに参りました。」
懐から取り出された書簡と徽章。
諸葛亮は無言で受け取り、まず徽章を確認した。
「……これは、確かに劉家のものでございますな。」
次に書簡を開く。
その筆跡、言葉の端々から伝わる覚悟と志に、諸葛亮はしばし沈黙した。
張暁は問わなかった。
ただ、黙して待った。
やがて、諸葛亮が書簡を閉じた。
「――確かに、劉珣殿は並ならぬ眼をお持ちだ。
乱世のただ中にあって、なお戦の向こうに“終わり”を見据える者。そう多くはない。」
張暁が軽く頷く。
「……私はただ、あいつの策が世に届くように、それを手伝っているだけです。」
「その“ただ”が、いかに難しいことか。」
諸葛亮はふっと笑みを浮かべた。
その眼には、初めて見る者への敬意が宿っていた。
「張暁殿。あなたの言葉、しかと胸に届きました。
……この書状、しかと受け取りましょう。」
「感謝します。」
張暁が深く頭を下げる。
その背に、諸葛亮は重ねて問う。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。――劉珣殿は、今どこに?」
「長安郊外の書院に留まっています。まだ、旅を重ねるには身体が……」
「なるほど。」
諸葛亮は静かに目を伏せた。
言葉の奥にある重みを察していた。
「ならば、いずれ私のほうからお訪ねしましょう。」
張暁の眼が一瞬見開かれる。
「お前さんの坊やは、ただの策士ではない。
言葉ではなく――心で、人を動かす男だ。」
張暁はゆっくり頷いた。
「……ええ。だからこそ、俺は命を懸ける気になった。」
外では春の風が、庭の梅を散らしていた。
その一片が書斎の障子をかすめ、まるで遠い地の誰かに想いを届けるように舞い落ちた。
(第7話 了)