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第6話 旅立つ影

第6話 旅立つ影

春の兆しがわずかに混じる風が、長安郊外の古びた書院を撫でていた。

東の空が白む頃、張暁はすでに支度を整え、静かに劉珣を見つめていた。


「もう行くのですね。」


蘇蘭が声をかけると、張暁は短くうなずいた。

その眼差しには、いつになく複雑な色が浮かんでいる。

劉珣は卓の上に置かれた竹簡に筆を走らせていたが、やがて書を閉じ、顔を上げた。


「張暁殿。……頼む。」


「任せろ。」


張暁は短く答え、懐から小さな包みを取り出した。

あの徽章が、わずかに光を返す。


「これがあれば、諸葛亮も耳を傾けるだろう。」

そう言ったとき、張暁の顔に、ほんの一瞬影が落ちた。


「だが――」


「……?」


「いいか、劉珣。」


張暁はまっすぐに彼を見た。

灯火に照らされた白衣の青年の顔は、病に蝕まれながらもどこまでも澄んでいた。


「お前の志がどれほど高くても、どれほどこの乱世を変えたくても――」


声がわずかに低くなった。


「人を悲しませるな。」


それは、いつか街道で交わした約束と同じ言葉。

だが、今はそれ以上に重い響きを宿していた。


「命を賭けるのは勝手だ。だが、その度に誰かを置き去りにして泣かせるのは、侠でも策士でもない。」


沈黙が落ちた。

蘇蘭は胸元をそっと押さえ、俯いた。


劉珣はゆっくりと目を閉じた。

薄く開いた唇から、掠れた声が零れる。


「……分かっている。約束しよう。」


「ならいい。」


張暁は一歩近づき、そっと彼の肩に手を置いた。

その手は大きく、荒れていて、どこか父のようでもあった。


「必ず戻る。お前が道を繋ぐために俺がいる。――待っていろ。」


劉珣は応えず、ただ目を伏せて頷いた。


「張暁殿。」


蘇蘭が声をかけた。


「どうか、気をつけて……。」


「おう。」


張暁は笑った。


「お前さんも、坊やをしっかり支えてやれ。……俺がいない間に倒れられちゃ、困るからな。」


「……はい。」


蘇蘭は小さく、でもはっきりと頷いた。


その瞳には、不安と同じだけの強さが宿っていた。


張暁は最後にもう一度劉珣を見た。


「――じゃあな。」


それだけ言うと、剣を背にかけ、扉を開けて外へ出た。

薄明の光が書院に差し込み、白衣を照らす。


遠ざかる足音が、やがて風の音に紛れて消えた。


「……張暁殿は、不思議な方ですね。」


蘇蘭が小さくつぶやく。


「人を守ることが当然だと思っている。」


「……ああ。」


劉珣は俯いたまま、胸に手を当てた。

張暁の言葉が、剣よりも鋭く突き刺さっていた。


人を悲しませるな。


志のために命を賭ける――それが当然だと思っていた。

けれど、それを傍で見守る人の想いを、どこか遠くに置いていたのではないか。


「……私も、学ばねばならないな。」


「何を、ですか。」


「志を支えるのは、ただ理想ではない。……隣にいる者の心だ。」


ふと、蘇蘭の目が潤む。


「では――どうか、生きてください。」


劉珣は返事をせず、静かに視線を遠い空へ向けた。


乱世はまだ終わらない。

策も、戦も、これから幾度も訪れる。


だが今だけは、白衣の胸に人の温もりが残っていた。


(第6話 了)




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