第5話 荒鷲の眼
許都――。
洛水を望む大城の中枢、曹操の居館は、未明にも関わらず無数の灯火が揺れていた。
献帝を擁する覇者の周囲には、昼夜を問わず軍議と策謀の声が満ちている。
広い謁見の間には、凛とした空気が漂っていた。
一人の武将が、広袍を翻して進み出る。
「丞相。荊州南陽より急使、到着いたしました。」
「申せ。」
玉座に半ばもたれかかる曹操の声音は低いが、ひび割れた鋭さがあった。
齢五十を越えてなお、覇気は衰えぬ。
黒い衣に包まれた身体は細くなりつつあったが、その双眸は荒鷲のごとく人の心を射抜いた。
武将が伏せ持つ書簡を差し出す。
「荊州にて、孫権と劉備が会談の動きを見せております。時機を誤れば、連合の恐れありと。」
その言葉に、広間の空気がわずかに揺れた。
「……孫仲謀が、劉備と手を結ぶか。」
曹操は書簡を受け取ると、封を切らずに卓へ置いた。
視線をやや伏せ、その影は深い谷のように沈黙する。
それは、周囲の者たちが最も恐れる瞬間だった。
やがて、静かに瞼を上げた。
「荊州は必ず奪う。劉備の根を絶たねば、中原は収まらぬ。」
「はっ。」
「だが、孫権が劉備と結ぶのは容易ではない。二虎は共に疑念を宿す。」
曹操は短く息を吐く。
「――諸葛亮。お前が背後にいるのか。」
わずかに笑みを浮かべるその顔は、冷酷というよりも、何かを待ち望むかのような奇妙な静けさを湛えていた。
「あるいは……」
ふと、曹操は卓の端にあった小さな木箱に目を落とした。
それは昨夜、許都に届いたばかりのものだった。
開封された箱には、一通の書状と徽章が収められている。
「劉珣。」
その名を、低く唇に乗せる。
「白衣の影――。噂に過ぎぬと思っていたが、これほどの胆を持つ者とはな。」
周囲の家臣たちは目を伏せる。
覇者がこうして声に出すとき、それは警戒でも恐れでもない。
ただ、敵に値する敬意だった。
「荀彧。」
曹操が声を上げると、幾人かの群臣が顔を上げる。
その中の一人、青衣に身を包んだ男が静かに進み出た。
その顔には、深い叡智と柔らかな笑みが宿っていた。
「丞相。」
「貴公の目には、どう映る。」
荀彧は卓の上の徽章と書状を一瞥した。
「……この者は、おそらく病に伏す身であろうと存じます。それでもなお、命を賭けて策を巡らす。――まさしく白衣の影に相応しい。」
「この書状が、孫権と劉備を繋ぐ導となるか。」
「その芽はあるでしょう。ですが、孫権も愚ではない。たとえ志が真であろうと、疑念を捨てぬはず。」
曹操はうなずいた。
「ならば、その芽を摘む。」
視線は徽章の紋に刺さったまま動かない。
「白衣の影――。己が命を捨てる覚悟があるのならば、こちらも応えねばならぬ。」
荀彧はふっと目を細めた。
「丞相、まさか――」
「劉備と孫権を分断するのではない。」
曹操は静かに立ち上がった。
「逆に、一度、結ばせてやる。」
「……!」
広間にざわめきが走る。
「孫権と劉備が共に戦えば、いずれ消耗し疲弊する。そのとき、我が軍は万全をもって中原を収める。」
「しかし……その間、荊州を手放せば勢いが――」
「勢いは力にあらず。」
曹操は短く言い切った。
「真に恐るべきは、心を失うこと。今、孫権も劉備も、己が生き残るための戦を望む。」
「だが、もしその戦に意味を与える者が現れれば――」
ふと、荒鷲の双眸が徽章に落ちた。
「……我が敵は、この乱世そのものだ。」
荀彧は深く頭を垂れた。
「……丞相のお考え、心得ました。」
遠く、東の空が淡く白み始めていた。
許都の大城は、またひとつ新たな策の胎動に震えていた。
そして同じころ――
乱世の片隅、朽ちかけた書院の軒に、一人の青年が静かに筆を走らせていた。
劉珣。
白衣の影と呼ばれた男は、己が胸の炎がどれほど遠いところまで届くのかを知らぬまま、次の策の種を綴っていた。
(第5話 了)