表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第4話 薄明の誓約

黎明は、夜の終わりを告げる鐘のように、ゆっくりと空を染めていった。

宿場の屋根を越えて射す微かな光が、白衣の裾を淡く浮かび上がらせる。


張暁は、肩に剣をかけたまま扉の前に立っていた。

まだ暗い外を見やりながら、その目はどこか遠い記憶を探っているようだった。


「――行くぞ。夜が明けきらぬうちに、街道を抜けたい。」


低く言い残し、彼は静かに歩き出す。

蘇蘭は荷をまとめ、ふと振り返った。

劉珣は卓の前に座したまま、開かれた竹簡をじっと見つめている。


「珣さま……。」


声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。

その瞳は、またひとつ決意を深めた色を帯びていた。


「この先に待つのは、ただの戦ではない。」


劉珣の声はかすれていたが、奇妙に澄んでいた。


「曹操が動けば、孫権もまた疑念に揺れるだろう。だが――理想は疑念の隙間に生まれる。」


蘇蘭は何も言わなかった。

彼の身体は、この数日でさらに痩せ細っている。

しかし、その思考と意志だけはなお冴えわたり、炎のように揺るがなかった。


「張暁殿。」


立ち上がった劉珣が、扉の外の張暁に声をかけた。

「……書状を託すにあたり、ひとつだけ加えたいことがある。」


張暁が振り返る。


「何だ?」


「諸葛亮殿は、理を重んじる御仁だ。私の名では、信用に足らぬと疑うやもしれぬ。」


劉珣は袖の奥から、小さな包みを取り出した。

「これは、私の母が王室より賜った徽章だ。私が劉家の血を引く証に他ならぬ。」


張暁は目を細め、それを手に取った。

「……これを、信の証に。」


徽章は、わずかに磨耗していたが、刻まれた紋は確かに漢王室のものであった。

「お前の志が偽りでないこと……きっと伝わるだろう。」


張暁はそれを懐に収め、短く頷いた。


「必ず届ける。」


「ありがとう。」


短い言葉に、全ての信頼が籠もっていた。

外の風が、ようやく夜を追い払うように吹き込んできた。


「……蘇蘭。」


劉珣が彼女に向き直る。

「しばし、私と共に此処に留まってほしい。」


「はい。」


蘇蘭はわずかに微笑んだ。

「書状を託した今、体を休めてください。――この命を、志のために保つのです。」


張暁は振り返らなかった。

だが、宿を出るとき、その背には奇妙な温かさが宿っていた。

長い旅路を独りで歩き続けてきた男が、ようやく仲間を得た。

その感覚が、胸の奥で不意に疼いた。


劉珣は静かに扉を閉じた。

障子の向こう、街道の先へと歩み去る剣士の足音が、夜明けの光に消えていく。


それは、乱世に撒かれた一粒の種の行方を託す音だった。


「……これでいい。」


誰にともなくつぶやいた劉珣の声は、ひどく穏やかだった。

ただ、胸の奥にわずかな痛みが広がる。

張暁に託したものは、希望だけではない。

もしこの先、自らが命尽きることがあれば――全てを繋げる手がかりは、もうあの剣士の手に渡った。


それが恐ろしくもあり、安堵でもあった。


「珣さま。」


蘇蘭がそっと手を重ねる。

冷え切った手に、かすかな熱が戻るようだった。


「……すまない。」


「いいえ。」


蘇蘭は首を振った。

「あなたが歩む道は、私が決められるものではありません。けれど……」


その声は震えた。


「どうか、生きてください。それだけは……。」


劉珣は答えなかった。

ただ、細い肩をわずかに震わせ、夜明けの匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


(第4話 了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ