第3話 策の種子
宿場の灯が滲む宵闇に、三つの影がひっそりと並んでいた。
質素な一室に置かれた行灯の明かりが、白衣の袖を淡く照らす。
劉珣は粗末な卓に地図を広げ、指先で川の流れをなぞっていた。
「涼州から長安へ通じる街道は三つ。そのいずれも、曹操が押さえている。だが――」
震える手を止めて、劉珣は顔を上げた。
張暁が静かに腰を下ろし、蘇蘭は薬箱を抱いたまま彼を見つめている。
「曹操は北に烏桓、南に劉表を牽制するため、兵を分散せざるを得ない。許都に残るのは中軍の三割ほどと見ている。」
「三割……。だが、それでもなお大軍だろう?」
張暁が低く問うた。
「ああ。正面から挑む愚は冒さぬ。だが、曹操の意図は明白だ。荊州を奪い、劉備を討つ。その先に中原を制する覇業がある。」
「それを止めるつもりなのですか?」
蘇蘭の声は震えていた。
「……私に、戦を終わらせる力はない。ただ、終わらせるための種を撒くことはできるはずだ。」
劉珣はそう言うと、卓の端に置いた小さな木箱を開けた。
中には、薄い竹簡と封蝋の施された書簡が数通収められていた。
「これは?」
張暁が片眉を上げる。
「劉備殿の客将、諸葛亮孔明に宛てた書状だ。」
蘇蘭と張暁が息を呑む。
その名を知らぬ者など、もはやほとんどいない。
臥龍と讃えられ、劉備の軍師にして乱世随一の知謀を誇る男。
「荊州が曹操に奪われれば、劉備はもはや立つ地を失う。だが、孫権は曹操を恐れている。……二虎競う間隙を衝き、手を結ばせる策を仕掛ける。」
「それで……戦を止められるのか?」
「戦は止まらぬだろう。」
劉珣は静かに言った。
「だが、ただ曹操に蹂躙されるのを待つより、志を繋ぐ者が結束する道を残したい。……そのための書状だ。」
蘇蘭がそっと唇を噛んだ。
劉珣の目に宿る光は、どこまでも遠くを見据えていた。
「私にとって、勝敗は目的ではない。ただ、戦に意味を与えたいのだ。どれほど血が流れようとも――その先に道が開けると信じられるように。」
張暁はしばし黙り、灯の向こうの青年を眺めた。
病に蝕まれ、いつ倒れてもおかしくない身。
それでも、この男は乱世を前に一歩も退かぬ。
「……いいだろう。」
やがて、張暁は小さく笑った。
「その書状、俺が荊州まで運んでやる。お前が行けば途中で倒れるだろうからな。」
「張暁殿……。」
「だが、その間に死ぬのは許さねぇぞ。」
張暁は言い切ると、無造作に剣を膝に置いた。
「蘇蘭、お前はどうする?」
問いかけられ、蘇蘭は小さく肩を震わせた。
視線を落とし、長い睫毛が頬を隠す。
「私は……どこへ行こうと、お傍を離れません。」
その声音はか細いが、決意の色があった。
「珣さまが何を選ばれても、私も共に行きます。」
劉珣はしばらく言葉を失った。
ふいに、白い頬に淡い赤が差した。
「……ありがとう。」
その言葉が、冬の宿の灯に微かな温もりを灯した。
風が障子を揺らした。
遠く、荒野の彼方から春を呼ぶ風が、ほのかに匂いを運んでくる。
三人の運命は、いま静かに交わり始めていた。
(第3話 了)