2-18 病院ではお静かに
「……ねみいな」
御柱会議が始まる少し前、東区域ビオロンのとある診療所で、待合室のソファに座るダミトリはあくびを噛み殺しながらそう独りごちた。
ニコラオスを庇い負傷したオルベーンをここまで運んだのは深夜のこと。今は朝と昼間の丁度境で、徹夜明けに仮眠を取った程度ではそろそろ限界だった。
備え付けのウォーターサーバーで水を飲むのも飽きた。煙草を吸えない現状ではそれぐらいしか暇つぶしができない。腹はたぷたぷになっていた。
「よくそんなアホ面が出来るな。ここは敵地だってのによ」
ソファに座るダミトリスとは対称的に、ニコラオスは出入り口に立ち外を警戒し続けていた。
まるで気の立った猫のように、ニコラオスはここに来てから一秒たりとも気を抜いていなかった。その集中力は大したものだが、いい加減息が詰まる思いである。ダミトリスは治療室から出て数時間、朝日が昇ってきた段階で襲撃はないものだと考えていたからだ。
昨夜の襲撃以降、追っ手の気配はまるでなかった。
もし自分が敵側の立場なら、とっくにこの診療所を粉々にしているだろう。この診療所の真後ろは南イミュトス山で逃げようもなく、すでにこちらの武装は尽きている。診療所も立て籠もるには心許ない。このような袋の鼠をじらす必要など皆無だろう。
「……あのぉ、自分はいつになったら帰れるんでしょうか」
殺気だったままのニコラオスから離れるようにして壁際に座るバーテンダーのラブロスがおずおずと尋ねた。
二人に比べてラブロスの顔色が良いのは、彼の車を使ってここに逃げ込んで以降、気絶するように眠っしまったからだ。ただの一般人であるラブロスには、昨夜の極限的な状況に心身が持たなかった。
しかしそのおかげでぐっすりと眠れたラブロスは、待合室に置かれた無料ビスケットを頬張る程度には回復していた。
「悪いがもう少し頼む。オルベーンが無事に目覚めたら、すぐにここから出るつもりだからな」
「それっていつになるんですかね」
「さあな、こればっかりは素人の俺にはわかんねえよ」
そう言ってダミトリスはオルベーンを運んだ治療室に目をやる。
騒ぎ立てるニコラオスを無理矢理引っぱり出した後、閉ざされた扉の奥は嫌に静かだった。弾丸を取り出すよう知り合いらしい人狼にオルベーンが頼んでいたが、こんな小さな診療所では麻酔なんて大層な代物は置いていないに違いない。なぜこうも静かなのか、ダミトリスは訝しみながらも待ち続けていた。
さらに気になったのは、失った血液をどうしたのかということだ。オルベーンは何やら対処法があるようだったが、ダミトリスには想像もつかなかった。
しかし何事もなさそうなところを見るに、手術はひとまず終えたのだろう。仲間が出てこないのは、オルベーンの意識が回復するまで看病しているか、ニコラオスに怯えているかだ。
「……おい、誰か来たぞ」
そのニコラオスが扉に鍵をかけ、外からは見えない場所に隠れながら言った。
「どんな奴だ」
さすがにダミトリスも警戒しソファから立った。
ラブロスは慌ててビスケットを放り捨て、ソファの影に隠れる。
「人種は? 何人だ」
「小鬼種が一人。杖をついてる」
小鬼種とは亜人族の一つで、ドワーフ族と同じぐらい小柄だが痩せており、体毛がなく群青色の肌をしている。地方によってはゴブリンなどとも呼ばれており、かつては妖精種という魔物の一種だったが、人類種と交わり人間社会に適合するようになった。
原種は未だに洞窟や森に住み着いており、子供を食べたり農作物を荒らしたりする。これが人類種化した小鬼族への差別を生んでおり、彼らは魔物との区別をつけるために自らをホブゴブリンと呼称してた。
「杖だぁ? てことはここの患者じゃねえのか? ジジイかババアのホブゴブリン一人になにビビってんだ。閉めてんだからほっといても帰るだろ」
小鬼種と聞いて、すぐにダミトリスは警戒を解いてソファに戻った。
小鬼種は小さく機敏で、手先の器用な種族だが、その反面非力である。
ヒューマン族とでは力比べでも大人と子供程の差があり、一人など戦力としてものの数にも入らなかった。
「あんなもん偽装に決まってんじゃねえか。小鬼種は嘘が得意なんだぞ」
「俺達に嘘ついてどうすんだバカタレ。もし俺らを襲いに来たなら大勢で囲むだろ。年取った小鬼で騙す意味がねえ」
「クソ亜人の考えることなんか知るか」
「そのクソ亜人の縄張りでクソとかつけてんじゃねえよバカタレ。ただでさえ俺らは印象が最悪なんだ。これ以上あの人狼に嫌われること言うんじゃねえよ」
付き合ってられるかと言わんばかりに手をヒラヒラさせるダミトリスに、ニコラオスがさらに食ってかかろうとするとノブがガチャガチャと回され、扉がノックされた。
「ユルヴァ先生ェ、アタシだよォ。まだ紅茶ァ飲んでんのかいィ?」
小鬼種特有の語尾が噛み殺されたような声に、ダミトリスはそら見たことかと身振りで示そうとした。
しかしニコラオスは扉の隣に立ち、拳銃を銃身部分で掴みグリップをハンマーのようにして構えた。
ダミトリスは慌てて気配を殺して立ちあがり、ニコラオスにやめろと身振りで伝えようとするもこちらを見ていない。
「ユルヴァ先生ェ。……ったく近頃の若いモンと来たらァ、勤労精神ってェもんをわかってないねェ。あんなブサイクな車なんぞ買ってェ。人狼なら足を使うのが道理ってェものでしょォにィ」
「おや、ルーピナ婆ちゃん。この前ちゃんと入院するって言ってなかったっけ?」
声がまた一つ増えた。
今度は男性で、癖のない普通の話し方だ。
「あァジゼロ、良いところに来たねェ。ユルヴァ先生がまだ開けてないんだィ。困ったもんだよ年寄りを放っておいてェ」
「僕の質問は無視なんだね。でも珍しいね。ユルヴァ先生は時間はきっちり守る人だと思ってたけど。あの車はルーピナ婆さんの?」
「そんなわけないだろォ。アタシァホブゴブリンさねェ、アクセルに足ィ届くわけないだろォ」
「乗ってはみたんだ。……誰か知り合いでも来てるのかな。せんせー! 婆ちゃんが来てるよー」
扉の向こうののんびりとしたやり取りとは裏腹に、診療所内は緊張が走っていた。
ニコラオスは今にも先手必勝と外の亜人達を襲いかねず、ダミトリスは相棒を必死に押しとどめている。
ラブロスはお願いだから何事もなく済めとソファの影で神々に祈りを捧げていた。
そんな一触即発な待合室に、診察室からユルヴァが出てきた。
「ちょっ、ちょっと! 何してるの!?」
血相を変えるユルヴァ。
ダミトリスがむしろ驚いたのは、この状況でユルヴァが叫んだことだった。
「大きい声出すなよ。外に聞こえるだろ?」
囁き声で外を指さすダミトリス。
出入り口の扉、その磨りガラスの向こう側には小柄な影と大柄な影が二つ重なっている。
「ああ、大丈夫。この中の声は外に漏れないようになっているの、プライバシーを守るために。亜人種は五感が優れた人種が多いから」
ユルヴァはそう言って部屋の隅を指さす。
そこには防音の魔術具が設置されており、同じ物が部屋の四隅全てにある。
診察室も同様の魔術具が置かれているのだろう。
なぜああも静かだったのかダミトリスは納得した。
「そうだったのか、心配して損したぜ。てかニコ、いい加減その銃しまえよ。どう聞いたって来たのはただの患者だろ。殺した方が騒ぎになるだろうが」
「……チッ」
流石のニコラオスも、この状況は分が悪いと考え拳銃をベルトに差し込む。
「どうすんだよ。外の奴等はあんたがいるとわかってるみたいだぜ?」
ダミトリスはユルヴァを脅かさないよう穏やかな声色で尋ねる。
そこでようやくユルヴァも自分が目の前にしているのが南区域の殺し屋だと思い出した。咄嗟に叫んでしまったが、二人が機嫌を損ねていないようでほっとする。
震えだす膝をなんとか押し堪えて口を開く。
「……ひとまず、診察室に入って。奥に事務室に繋がる扉があるから。そこなら気づかれないと思う」
「よし、それならハッピーだ。俺達もこれ以上面倒をかけるつもりはねえ、オルベーンが無事だとわかったらすぐに帰るつもりだ。――で、どうなんだ? あんたの顔を見りゃ、死んだわけじゃねえのはわかるが」
ヒューマン族には読みにくい人狼であっても、ユルヴァの表情に死を悲しむ様子はない。
ユルヴァも、ダミトリスが本気で同僚を心配しているのが伝わっていた。もう一人の殺し屋は未だに外を警戒しているようだが、ひとまず身の危険は薄そうであると気配で察する。
「……とりあえず、峠は越えたわ。今は回復のために寝てるから、しばらくは起きないと思う」
「そうか、そりゃ良かった」
医者であるユルヴァの言葉を聞いて、ようやくダミトリスは安堵し肩の力を抜いた。
「ひとまず、あんたは連中の相手をしてくれ。俺達は好きを見て出て行く」
「わかった。私はここで時間を稼ぐから、裏口から出れば気づかれないと――」
「――もう我慢出来ないねェ」
「ちょッ!? そんなことしちゃダメだよ婆ちゃん!」
ジゼロの焦る声と共に、ドアノブがカチャカチャと動き始めた。
小さな影はその姿がくっきりと見えるほど扉に近づいており、禿げた頭に巨大な耳が垂れ下がっている。
「うるさいよジゼロォ。集中できないだろォ」
「いやいや、いくら何でもピッキングはダメでしょ婆ちゃん! てかなんでそんなこと出来るのさ」
「アタシァ、ホブゴブリンだよォ。これぐらいオムツをしてる時から朝飯前さねェ」
「そういうことじゃなくて! そんな泥棒みたいなことしちゃ駄目だって話だよ!」
「病気の年寄りを待たせる方が犯罪だよォ」
全く制止の声に聞く耳を持たないルーピナ。
その手際の良さは衰えた様子を見せず、今にも開錠させられそうな気配である。
そして防音の魔術具は、扉が開いてしまうと効力がなくなるのだ。
「隠れて!」
ユルヴァが叫ぶ前にニコラオスとダミトリスは受付の裏へと飛び込んでいた。
事務用品を盛大に巻き込みながら裏側に転がり込むのと同時に、鍵の開く音がする。
「なんだい先生ィ。いるじゃないかィ」
「おはようございます先生。一応ですけど、僕は止めましたからね?」
杖をついて仁王立ちのルーピナと、気の弱そうなオーク族のジゼロが顔を覗かせる。
ニコラオスは跳ねた魚のような体勢で落下してきたペンスタンドをキャッチした。




