2-13 カモミールは危険な香り
ユルヴァの趣味は、一日の仕事の疲れを職場で癒やすことだった。
最後の診察が終わり、事務作業と消費した薬の管理、翌日の準備を終えると、事務室にあるコンロで湯を湧かす。
一人用のケトルが口から湯気を吐き出すと、まず空のティーポットとカップに軽く注ぐ。そのままポット内でお湯を舞わし、十分に暖まった段階でお湯を捨てる。
すぐさま茶こしにカモミールを入れ蒸らしの時間。
この五分の間に机の上を片付ける。
整理整頓はともかく、ハーブティーを味わう時間だけは目の前に何もないことが好ましかった。空になった机の上に、テーセットだけがぽつりとあり、それを眺めながら優雅な気分でカップを傾ける、これこそが至高の時間なのである。
壁掛け時計がちょうど五分経ったことを示すと、いよいよ熱湯を注ぎ込む。香り立つ青リンゴのような、カモミールの芳醇な匂い。
ユルヴァが人狼として産まれ、最も幸運だったと思うのは、この鼻に抜けていく甘い陽だまりのような香りを、どこまでも楽しめることだった。
最後まで熱湯を注ぎ終えると、盆にデザインを統一させたティーカップセットを乗せ、邪魔のない机へ。
音を立てないように机に置くと、お気に入りのカップにハーブティーを注ぐ。
コポコポコポ。
まるで蜂蜜を溶かしたかのような黄金の輝き。
一杯目は必ずストレートで飲むようにしていた。
混じりけのない純粋無垢な一杯目こそが、真にカモミールティーの楽しみ方であり、ほどけていく甘みと青さが臓腑に溜まった疲れを溶かしていくのだ。
「――マーベラス」
完璧だった。
白を基調として、縁にのみ金を設えたカップに注がれた琥珀色の雫。立ち上る青リンゴの香りは、まるで春の野原で見る白昼夢そのものだ。そしてそれが用意されているのは、煩雑とした下品極まりないファイルや書類の山に覆われている、今は貴き更地と化したデスクの上なのである。
これを完璧と言わずして、なにが完璧なのだろう。
――薬の臭いでお腹いっぱいになります。何を食べれば良いですか?
――体毛が濃すぎて血圧計が蒸れます。
――満月前の関節痛をどうにかしたいです。
知らんがな。
一緒に働く医者仲間は、どうにもこの雅なストレス解消を理解してくれないから困りものだ。
小難しい言葉を好み、何かにつけて問題をややこしくする彼は、そのくせ世俗的な娯楽に耽溺している。
彼が休みを取るときは、決まって二日連続なのである。いくら区内の小さな診療所であるとはいえ、亜人種の医者は少ない。緊急外来があることもままあるし、二日続けて一人で面倒見るのはやはりしんどいものがある。なのに彼ときたら、そんなこっちの苦労もお構いなしなのである。
どうせ今も、あのナイトクラブで馬鹿騒ぎをしているのだろう。人狼なのに頭が割れそうな大音量に身を任し、人狼なのに二日酔いになるまで飲み明かしているはずだ。
まったくもって度しがたい。
音を楽しみたいなら、このカップに注がれるホットティーで完成しているではないか。陶器同士が相まみえる、気高い音を楽しまずして何を楽しむというのか。
酒、煙草、油という、鼻がひん曲がりそうな悪辣極まりない下品な臭いではなく、ハーブの清涼感溢れる至極の香りこそを求めるべきなのである。
今日は何に乾杯をしよう。
ルピナ婆さんがついに入院を決めた事だろうか。
ラマウスがやっと風呂に入ってくれたことにしようか。
それとも、ミュリオネがフラれたこと?
いや、その全てに乾杯しよう。
この仕事は嫌いではない、むしろ好きである。天職であるのは間違いないし、街ゆく人々に感謝される気分はこのカモミールに勝るとも劣らない。
しかし、しかしである。
疲れるものは疲れるのだ。
待ち時間が長いのは私の責任ではない。
嫁が気に食わないのも、風呂が面倒なのもフラれたのも私のせいでは断じてない。
乾杯だ。
蜜のように甘い、他人の不幸に乾杯しよう。
そうでなければ、とても医者などやってられないのだから。
「ザマアミロ、かんぱ――」
そうカップを持ち上げたとき、猛スピードを出す車のエンジン音が急速に迫り、診療所の前で甲高い悲鳴を上げながら止まった。
そして聞こえる、ファッキンな怒鳴り声。
「――着いたぞ! しっかりしろ!」
「……」
ユルヴァは激怒した。
御神フェンリルは私にささやかな休息すら許さないのだろうか、そんな想いを呪詛と共に吐き出す。
こんな夜更けに、明らかに閉まっている診療所を尋ねる馬鹿がどこにいるのだろう。これだから愚か者は嫌なのだ。緊急事態なら中央区域に行けばいいのに、どうしてこんな町外れの小さな診療所にやってくる。
外からはまだ騒ぎ立てる男達の声が聞こえてくる。
そして表の扉を不躾に叩き始めた。
「オイ! 早く開けろ! 緊急なんだよ!」
度しがたい。まったくもって度しがたい。
ユルヴァは呪詛を口汚く吐き続けながら、カップを置いて立ちあがる。
自分は聖人君子だが、しかし物事には限度がある。
ここは一度、ガツンと言ってやる必要があるだろう。
でなければ、こうした愚か者は蟲のようにわいて出てきてしまう。病気は何事も予防が大切なのだ。
呪詛を口にしながら、ユルヴァは事務所を出る。
待合室を明かりを点け、しつこく叩き続けるシットな患者に文句を言ってやるために、その扉の鍵を開けた。
「いま何時だとおもっ――」
「遅えんだよクソッタレ! 死んだらどうする!」
「……はぇぇ?」
間抜けな声が出たのは、怒鳴り込んできたのがヒューマン族の強面な男性だったから。
そしてその肩に担がれているのが、今にも死にそうな顔をしている医者仲間のオルベーンで、腹がどす黒い血で染まっていたから。
そして――。
「騒いだら殺す。俺の目の届くところにいなければ殺す。妙な真似したら家族友人全部殺す。わかったら早くどけ殺すぞ」
オールバックで殺気だったヒューマン族の男性が、殺す殺すと連呼しながらドデカい銃口を向けてきたからだった。
どうしてこうなった。
ユルヴァは戦慄しながら診察台に乗せたオルベーンの、血塗れの服を裁ちバサミで切っていく。
荒い呼吸を繰り返すオルベーンは明らかに重傷で、その傷はどう見ても銃弾によるモノだった。それも貫通せず、体内に弾が残っている状態である。
診察室に噎せ返るような鉄臭が充満していく。
「なんて酷い……」
マスク越しに顔を引き攣らせるユルヴァ。
これではまるで抗争時と同じ、いや、故郷で迫害を受けたときと同じではないか。
長い苦しみの果てに、自分達はようやく安寧を得たのではなかったのか。
そんな想いがわき上がってくる。
「どうだ、治せるのか?」
髭男が焦ったように尋ねる。
ユルヴァは首を振る。
「こんなの、こんな小さな診療所じゃどうしようもない。簡単な応急処置ぐらいしか……」
「それじゃ困るんだよ! お前ら亜人だろ。なんかねえのか!?」
「そんなこと言われても……」
この診療所に銃創をどうにか出来る設備はない。
精々止血と汚染予防が限界で、それ以上の処置は危険すぎた。
「……ユルヴァ」
傷による発熱で意識が怪しくなっているオルベーンが辛うじて目をこじ開けた。
「オルベーン、どうしてこんなことに……?」
「……そんなことは後だ。君には弾の摘出をしてもらいたい」
「そんなの危険すぎるっ。ただでさえ血液を失いすぎているのに、そんな大きな手術はここじゃ行えないわ!」
思わず叫ぶと、自分の背後からガチリという嫌な音が響く。
恐る恐る振り返ると、オールバックの男が銃口をまっすぐ自分へと向けていた。
「ひッ――!?」
恐怖にすくみユルヴァの膝が震える。
しかしオルベーンは落ち着いた声色で彼女を諭した。
「落ち着け、彼の事は気にするな。静かにしていれば、殺されることは、ない……」
「で、でも……」
「大丈夫だ。私は、彼らに助けられた。ここに連れてきてくれたのも、私が頼んだからなんだ」
オルベーンはそう優しく語りかけるが、パニックに頭が真っ白になっているユルヴァには届かない。
するとオルベーンを心配そうに介護していた髭面の男が怒鳴った。
「ニコ! テメエがいると進む話も進まねえだろうが! いいから外に出てろ!」
「亜人は信用ならねえ。目を離した隙に仲間を呼ばれたらたまったもんじゃねえからな」
仲間の言葉にも断固として頷く気配はない。
しかしユルヴァは、向けられた銃口よりも呼ばれた名前の方に気を取られていた。
ニコと呼ばれる愛称を持ち、オールバックで片耳にのみイヤリングをしているヒューマン族の男。
そして相棒らしい髭面の男。
二人組で型落ちのブラックスーツを着込み、人殺しなどなんとも思っていなさそうな、染みついた死の臭い。
それは亜人の間でも恐怖の存在として語られている、南区域サマリス・ファミリーの殺し屋の特徴と一致していた。
ニコラオスとダミトリス。
身体能力に優れる亜人種を、まるで昼下がりの井戸端会議の延長であるかのように屠り続けた悪魔の化身。
抗争時に戦わなかったユルヴァの耳にも届いた、悪名高き二人組である。
「い、いやッ――」
咄嗟に逃げだそうとしたユルヴァの腕を、死にかけのオルベーンが強く掴んで止めた。
「ユルヴァ、私を信用してくれ。それよりも……早くオペだ。月光草の秘薬を使えば、あとはなんとかなる」
「だ、ダメよっ。あれを今の状態で使ったりなんかしたら――」
握るオルベーンの手の力がさらに強まる。
「それしか方法はない。頼む、助けてくれ……」
それが限界だったのか、オルベーンの手が離れ力なく診察台の外に落ちる。
必死の頼みに、ユルヴァのパニックになっていた心も医者としての有り様を思い出していく。
しかし同時に、背後に立つニコラオスの殺気も肌で感じられるようになってしまう。
人狼はヒューマン族に比べ身体能力だけでなく、野生の勘のような、第六感にも優れている。
獣が睨まれただけで気配を察知し逃げ出すように、背中から浴びせられる射殺すような殺気は、否応もなくユルヴァの動悸を激しくさせた。
そんなユルヴァの状態を、オルベーンも承知していた。
常に居丈高の彼女はその実、虫も殺せぬほど小心者なのである。
なんとか首を動かし、口論を続けるダミトリスに向かって口を開く。
「……すまない。どうにも相棒は、君達がいると冷静ではいられないようだ。申し訳ないが、外で待っていてくれないか?」
「いいわけねえだろ。このままやれ」
「そうしたいが、彼女は肝が小さくてね。君の気配に耐えられないんだ。もし彼女が連合に連絡すれば、その時は私達を殺して逃げると良い。まあ、そうしなくとも私はすぐに死ぬがね」
そうして皮肉げに笑おうとしたオルベーンだが、逆流してきた血を吐き咳き込んでしまう。
ユルヴァは慌てて手術の準備を始め、ダミトリスは自分の相棒を蹴り飛ばした。
「いいから出やがれ! いっつも事態を複雑にしやがって、少しは人の話を素直に聞いたらどうだ!」
「俺達の身の安全のために言ってんだろうが! もういい、その人狼がチクっても知らねえからな! クソ亜人共に囲まれたときのお前の顔を見てやる!」
「いちいち怒鳴るんじゃねえよ! それにそんなサイレンみたいに騒いでたらチクらなくても聞きつけてくるだろうが!」
「お前の方が怒鳴ってんだろ! 何が事態を複雑にするだ。ややこしくしてるのはお前だクソッタレ!」
そうして怒鳴り合いを続けながら出て行く殺し屋の二人。
剣呑な殺気が消えて、ようやくユルヴァは気を落ち着けることが出来た。
「……なかなかユニークな二人だろう?」
「こんな時までくだらない事を言うのはやめて。……でも本当に月光草を使っても平気なの? 最悪、あなたの身体がバラバラになるかもしれないのよ?」
人狼に伝わる秘薬は、確かにこの傷を治すだけの力がある。しかしそれは劇薬と同じで、助かる見込みは五分以下だった。
オルベーンは心配する相棒に向かって、普段通りの気取った笑みを浮かべる。
「心配するな。こう見えても、私は頑丈だ。だが手早く頼む。いい加減、意識が飛びそうだ……」
「……これに懲りたら、もうあんな下品なところで遊ばないでよね」
そうしてユルヴァは、死にかけていてもなお変わらない友人を助けるためにメスを取った。




