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2-9 ファミリーの晩餐

 その日、サマリス家では久々に家族揃っての晩餐が行われていた。


 中庭にはリビングより運ばれた長テーブルと、簡易の木製テーブルが二つ揃えて用意され、白いテーブルクロスの上にはパンやサラダにチーズ、今朝獲れた魚やグリル肉など、エイレティアの伝統的な夕食が並んでいた。


 廊下の照明は全て点いているが心許ない。追加でランタンとキャンドルが中庭内を照らしている。キッチンに続く扉は常に開かれており、食べ物やワインがなくなれば家族の誰かが取りに行った。


 テーブル端の短辺、全体を見渡せる席に座るのは家長のセオドロス・サマリスである。


 彼お気に入りのオリーブの木を背に、キッチンへ続く扉に最も近い席に座っていた。セオドロスは積極的に補充に席を立ち、少なくなったパンやチーズを切り分けて持ってきていた。エイレティアでは家族で食事をする場合、家長の伴侶や子供世代が補充に動くことが多い。しかしセオドロスは、自分の妻や長男の嫁がいるにも関わらずやりたがったのである。


「父さんいい加減にしてくれ。アグライアが迷惑してるだろう? サマリス家の家長なんだから、どっしりと座っててくれないか? これじゃ誰も落ち着いて食べられないじゃないか」


 自分の前にある大皿にセオドロスがパンを切り分けて盛り付けると、長男のイアソンがはた迷惑そうに言った。


「なんだイアソン、私が出したパンは食べられないと言うのか?」


「違うよ、皆が落ち着かないって言ってるんだ。父さんはセオドロス・サマリスなんだ。こんな姿見たら住民達はひっくり返るよ」


 セオドロスが不満そうに唇を突き出す。


 すると、イアソンと娘を挟んで隣に座っている妻のアグライアが苦笑して言った。


「落ち着かないのは皆じゃなくて貴方でしょう? お爺様が働いてるのにどうしてパパは働かないのって、ルキアに言われてしまうものね。自分が動きたくないからって、人のせいにするのはルキアの教育に良くないわ」


 あっさり本心を暴露されると、イアソンは父親そっくりの顔になった。


 彼らの娘にして、セオドロスの孫娘であるルキアは二人の間にちょこんと座りながら、ピタギロスから好物のポテトだけを抜き取って頬張っている。


「アグライア、余計な事を言うなよ」


「どこが余計な事なの? 私が迷惑してるって勝手に決めつけたのは貴方でしょう?」


「俺は君の為に言ったんだ。義理の父親が頻繁に台所に出入りしてたら落ち着かないだろう?」


「いつ、私がそんなこと言ったのかしら。さっきも言ったけど、自分のことを私の責任にしないでちょうだい」


 娘の頭の上で火花を散らす夫婦。


 イアソンは体格もよく厳つい顔つきをしているが、アグライアも決して負けはしていなかった。柔和な笑みを浮かべながら、一歩も引かずに夫の視線を押し返している。


 目の前で突如として始まった長男夫婦の喧嘩にセオドロスが空の器を持ったままオロオロしていると、反対側に座っていた彼自身の妻であるフィロメナが笑った。


「だから私は座ってなさいと言ったんですよ。こうなることぐらい、貴方なら予想出来たでしょう」


「しかしだな、私は家族の為によかれと思って――」


「それで息子夫婦を喧嘩させてどうするのです。イアソンの言うとおり、貴方は自分が誰なのかをちゃんと考えた方が良いですよ」


 撃沈したセオドロスはうな垂れながら空皿用のテーブルに皿を置き、自分の席にすごすごと戻った。


「ハハ、父さんも母さんの前では相変わらずだね。久しぶりに母さんに負ける父さんを見たよ」


 そう言ったのはアグライアの隣に座る次男のヘラクレスである。


 古代の英雄の名前を付けられたヘラクレスだが、イアソンに比べると線が細く母親譲りの垂れ目をしている。


 イアソンもヘラクレスもとっくに成人しており、実家を出ている。二人とも抗争時にはエイレティアにおり、父親と一緒に南区域の為に働いていた。


「ヘラクレス、あなたもです。あなたもいい歳なのですから、イアソンを見習って恋人を早く見つけなさい。いつまでも独り身では許しませんからね」


「おっと今度はこっちに来た。気をつけろよマルコス、家に近づくとすぐにこれだからな」


 茶化すようにヘラクレスは母親の隣に座る三男のマルコスに声をかける。


 マルコスはチラリと母親を横目で見て、仕方なさそうに眉を上げた。


「母さんの心配も理解できるよ」


「真面目ちゃんな返事だなあ。ならマルコスはもう恋人の一人や二人出来たって言うのかい? 帰ってきたばかりなのに流石だな」


「ヘラクレス、義母さんは君の為を思って言ってるんだ。茶化すのもほどほどにしておきなさい」


 マルコスがどう返事をしたものか迷った素振りをしていると、その隣に座るパトリツィオが真面目な顔をして言った。


 パトリツィオはサマリス家ではないが、セオドロスが養子同然として面倒を見てきた。生真面目なパトリツィオは家族の食事会への参加を辞退していたが、セオドロスが頑として認めなかったのである。本当はフィロメアを義母として呼ぶ事も躊躇っていたが、それはフィロメアが許さなかった。


「そういうパトリス義兄さんだって人のこと言えないじゃない。年齢的に言えば、義兄さんの方が先だろ?」


 イアソンと同年齢であるパトリツィオはヘラクレスが赤子の頃からサマリス家に迎えられている。


 本当の家族として扱われてきたので、サマリス家の誰もパトリツィオがこの場にいることに違和感を持っていなかった。


「私にはファミリーの仕事がある。他の事など考えられないよ」


「それなら僕だって同じじゃないか。自分のことを棚に上げてズルいよ」


 ヘラクレスがそう文句を言うと同時に、パトリツィオの前にあったスマホが点灯する。


「すまない、仕事だ」


「ちょっと義兄さん、僕との話はまだ終わってないんだけど」


「ヘラクレス、パトリスは重要な仕事を担っているのよ。邪魔してはいけません」


 フィロメラが次男を叱責すると、パトリツィオは申し訳なさそうに詫びを入れて席を立った。


「ちぇー、母さんはパトリスには甘いんだもんな」


「ならいつまでも子供みたいな態度を取るのを止めなさい。弟のマルコスの方がよっぽどしっかりしてるじゃない」


 三人兄弟の内、マルコスだけが少し年が離れて産まれていた。三十を超えるヘラクレス達に比べると、その顔つきには若者の瑞々しさをまだ残している。


 ヘラクレスは不満気なまま続けた。


「そりゃ、大学出の坊ちゃんとは違うさ。それも自分で起業しちゃうような優秀な弟とはね。僕も兄さん達も抗争ばっかりで、お勉強するような暇はなかったんだしさ」


「――ヘラクレス」


 淡々としつつ、よく通る声にその場が凍り付いた。


 イアソンとアグライアも口論を止め、セオドロスを恐るおそる伺う。


 先程までとは一転して、セオドロスは空気が揺らぐような怒気を放ち、鋭くヘラクレスを見据えていた。


「お前、いまなんと言った? お勉強をしなければ、言って良いことと悪いことの区別もつかないのか?」


 父親の逆鱗に触れたヘラクレスが慌てて謝罪する。


「ご、ごめんよ父さん。そんなつもりじゃなかったというか、思わず言い過ぎちゃったんだ。本当にごめん」


「思わず? ファミリーの仕事をしてきたと言ったが、その仕事からお前は何を学んだ。私の仕事は、そんな浅はかな愚か者でも務まるような仕事だったのか」


 ますますセオドロスの怒りは高まり、ヘラクレスは半泣きになりながら父親に謝罪する。


 好々爺な祖父しか知らなかったルキアは、その変貌に怯えポテトを落としてしまう。


 凍てつくような空気の中で口を開いたのは、ほかならぬマルコスだった。


「良いんだよ父さん。僕は気にしてないし、ヘラクレス兄さんも本心で言ったわけじゃないってわかってる。だからそんなに怒らないで。せっかくの母さんの食事が台無しだし、ルキアも怖がってるよ」


 そう言うとマルコスは身を乗り出し、ルキアが落とした食べかけのポテトをフォークで突き刺す。


 それを席に戻って手で覆い隠すと、悪戯なウィンクの後にパッと放した。


 するとそこには綺麗なポテトが刺さっており、ルキアは恐怖を忘れて目を丸くした。


「……すごい、どうやったの?」


「叔父さんは魔法使いなんだ。ほら、これをお食べ。それとお祖母ちゃんのピタギロスは絶品だから、ぜひ全部食べてくれると嬉しいな」


 マルコスはそう言って、はしたなくならないようポテトをルキアの皿に戻す。


 ルキアはまるでそれが宝石であるかのように見つめ、何度もマルコスとポテトを行ったり来たりする。マルコスが微笑んで頷くと、ポテトをピタギロスに戻して一気に頬張った。


「おいひい」


 ルキアは口一杯にピタギロスを詰め込んで言った。


「だよね? 今度お母さんにも作ってもらうといいよ。きっとお祖母ちゃんに負けないぐらいのを作ってくれるから」


 ルキアは期待に輝いた眼差しでアグライアを見つめる。


 アグライアは娘の頬を撫でながら答える。


「ええ、ちゃんと作ってあげるわ」


「じゃああした食べたい!」


「はいはい。わかったから、ちゃんと噛んでから飲み込みなさい」


 アグライアは母親らしい笑みを浮かべたまま、マルコスに目で礼を言う。


 張り詰めた空気は一気に緩み、元の暖かな家族の食事会に戻っていた。


「……ごめんよマルコス」


 しゅんとしたままのヘラクレスが改めて詫びる。


「いいんだよヘラクレス兄さん」


「しかし見事な手品だったな。大学では手品を学んだのか?」


 イアソンが娘に笑顔が戻ったのを喜びながら言うと、マルコスは肩をすくめて言った。


「ケルンの女性に受けが良くてね。寝る間も惜しんで練習したんだ」


「あら、ならもしかして向こうでは恋人でも出来たの? お母さん、何も聞いてないけど」


 家族では一番にやり取りをしていたフィロメラが興味津々に尋ねる。


「あくまで友達なら何人かいたよ? でも恋人は一人もいない。エイレティアにはいずれ戻るつもりだったし、連れてくるつもりもなかったしね。あくまで円滑なコミュニケーションの一環さ。大学で知り合った人が教えてくれたんだ」


 そう言ってマルコスは、取り替えたルキアのポテトを口に放り込む。


 三男の成長が嬉しいやら恋人を作らないのがもどかしいやらのフィロメラは、未だに不機嫌な夫を見て仕方なさそうにたしなめる。


「セオ、せっかくマルコスが機転を利かせたんだから、もうそんな顔はしないでくださいな」


 しかしセオドロスは憮然とした顔のままである。


 父親の怒りがまだ治まっていないとヘラクレスは縮こまる。


 そこにスマホを片手にパトリツィオが戻ってくる。


 パトリツィオはそのままテーブル席の後ろを横切り、セオドロスの耳元で囁いた。


「カペタニオス、二人からの報告がありました。至急、書斎までお願いします」


 家族の前ではしない、組織の首領に対する言葉遣いをパトリツィオが使う。


 それは家族団欒の時間が終わり、南区域を治めるカペタニオスとしての役目を求められているということである。


 セオドロスは感情を切り替え、席を立った。


「イアソン、ヘラクレス、お前達も来い」


 ヘラクレスは飛び上がるように立ちあがり、イアソンも並々ならぬ事態を感じ取った。


 フォロメラもアグライアも中座に気を損ねるようなことはしない。彼女達の夫が、エイレティアのためにどれほど身を粉にしているかを知っているからだ。


「マルコス、お前も来なよ。お前なら僕よりもよっぽどファミリーの役に立つはずだからさ」


 ヘラクレスが失言を埋め合わせようと声をかける。


 マルコスが腰を上げかけた瞬間に、セオドロスの叱責がまた飛んだ。


「ヘラクレス、マルコスはファミリーの仕事に関わらせないと言っただろう。余計なことを言ってないでさっさと来い」


 ヘラクレスはまたも飛び上がって、ほとんど走り去るように中庭から出ていった。


「マルコス。ルキアのこと、ありがとうな」


 イアソンもそう言って父親達の後に続く。


 マルコスは黙ったまま、静かに腰を下ろした。


「お父さんは期待をしていないから仕事に関わらせないわけではありませんよ。むしろ期待しているから、お前には無関係なところにいてほしいのです。お父さんの仕事はそれだけ危険で、一度でも暴力の世界に踏み込むと、抜け出すのは難しいと知っていますからね」


 気遣ったフィロメラが優秀な三男に語りかける。


「わかってるよ母さん。父さんの優しさはわかってる」


 その場にいる誰も、中庭を出た他の者達も気づいてはいなかった。


 ヘラクレスが失言をした時、セオドロスの影に隠れて誰よりも激怒していたのは、穏やかに微笑み食事を続けるマルコスだったということに。


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