2-8 光と影
一時的な協力関係を結ぶと、オルベーンは仲間の亜人達に冷静な指示を出した。
サマリス家に協力し、絶対に敵対的な行動を取らないこと。過去のいざこざはいったん忘れ、仲間の立場を危うくする裏切り者を探すようにである。
仲間達は同行を強く希望したが、それは本人が不要だと退けていた。
そして二人はオルベーンを連れて、再び『レモン』に戻っていた。
ダミトリスの報告を受けたパトリツィオは迅速に行動したようで、バーにはすでにファミリーの人間が詰めており、何者も侵入を許さない厳戒態勢となっていた。
ファミリーの者達は二人が連れてきたオルベーンに顔を顰めはしたものの、ニコラオスが同行を許しているのを見て何も言わなかった。
「……なんということだ。こんなことが――」
アリアナの死体を見たオルベーンは愕然とした。
時間経過と共に変色したアリアナの肉体は、普通のヒューマン族ではあり得ない変体を遂げていた。
血液を失った皮膚は灰色にひび割れ、血管が黒く浮き上がっている。
恐怖に見開かれた瞳は元の茶色から黄色へと変わり、髪は老人のような白髪となっていた。
しかしやはり恐るべきは、あるはずのない角だろう。伸びた爪と牙もそうだが、悪魔のごとき禍々しいそれは、事の異常さを如実に表している。
まさに生物としての有り様を無視した変貌だった。
「アリアナの話じゃ、ザルガスは故郷の香草だと言ってエフォリアを売ったらしい」
「……確かに彼の故郷には身体能力を向上させ香草の秘薬が存在する。しかし彼女はヒューマン族だから何の効果もない。精々ハッカでも舐めたような感覚がするだけだ」
「それは彼女も言っていた」
「ザルガスはそこまで言っていたのか。なら、ドラッグの製法には秘薬が関係している可能性はある。完全な作り話はバレやすいが、真実を混ぜ合わせると途端に判別は難しくなるものだ。効果が発現しなかった場合、効き目がなければ疑われてしまう。もちろん、ただの香り付けかもしれないが……」
オルベーンが難しい顔でそう言うと、後から野次が飛んできた。
「ずいぶん詳しいじゃねえか。そうやって騙すのが亜人の常套手段ってか?」
ダミトリスはため息をついて振り返る。
ニコラオスは調査には参加せず、不貞腐れたようにカウンター席に座っていた。
バーテンダーに酒を作らせ、抜き身の拳銃を無造作にカウンターに置いている。しかし片手は常に拳銃に添えており、いつでもオルベーンの背中を撃つ用意をしていた。
「ニコ、少しは協力しろ」
「してるじゃねえか。その亜人がいつ裏切ってもいいようにな。お前が殺されたらすぐに仇を取ってやるよ」
そう言ってわざとらしく銃口をオルベーンに向ける。
ダミトリスがさらに詰め寄ろうとすると、オルベーンがヒューマン族の太ももぐらいある腕で止める。
「構わない。この件が私の同胞が起こしたものなら疑われて当然だ。彼の好きなようにしてもらっていい」
あっさりとオルベーンが言うと、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「彼女に触れてもいいか? 少し調べたいことがある」
オルベーンがそう言ってアリアナに近づくと、ニコラオスはすぐさま拳銃を手に取った。
「いいわけねえだろクソ亜人。何するつもりだ」
「臭いを嗅ぐだけだ。我々人狼は他の人類種よりも嗅覚に優れている。ドラッグの服用による変身ならば、その血液にはなんらかの痕跡があるはずだ」
「だったら触らずに嗅げ。犬みたいに這いつくばってスンスンしろよ。その方がよく似合うぜ」
ニコラオスがせせら笑うと、耐えかねたダミトリスが叱責する。
「ニコ! いい加減に茶々いれんの止めろ! 進む話も進まねえだろうが!」
しかしニコラオスは反省する素振りを見せなかった。
「悪かった。今のは俺から謝ろう」
「慣れているから平気だ。それよりも、アリアナに触れても構わないか?」
「ああ問題ねえ。好きにやってくれ」
オルベーンは既に乾き始めている血だまりに躊躇することなく足を踏み入れ、アリアナを抱きかかる。
「……すまないアリアナ、無礼を許してくれ」
そう言って鼻先を、ニコラオスが開けた銃創へと近づける。
「……なんだこれは」
「なんだ、どうした?」
「秘薬と同じ臭いはする。しかし余りに濃度が高すぎる。これほど服用しては人狼でも正気を保てないはずだ」
「なんだそりゃ。一つ二つ飲んだだけでもそうなるのか?」
「いや、秘薬は人狼にとってもあまり良い薬ではない。肉体の活性化も一時的で、副作用として筋断裂や内出血を引き起こしかねない」
「ヒューマン族には意味がねえんだろ?」
「それはあくまで肉体の活性だ。秘薬は毒物と変わらない。もし私の知っている秘薬が流用されているならば、スノードロップが使われているはずだ。耐性のない人類種が摂取すれば毒になる」
「スノードロップ? なんだそりゃ」
聞き馴染みのない言葉に眉を顰めるダミトリス。
「植物なんだが……エイレティアではなんと言われていたかな。涙のような花びらで、黒っぽい球根にアルカノイド系の毒性があるのだが」
オルベーンはそれ以上に上手く説明出来る言葉が見つからず、またダミトリスにもピンとくる植物は思いつかなかった。
「さすがに花はわかんねえな。一応ファミリーの薬師には伝えておくが――」
「ガランサスだ」
「あ?」
ニコラオスがカウンター席から酒を飲みつつ答える。
「ガランサスだよ。春先ぐらいに咲く白い花だ。イミュトス山にも咲いてるところがある。白いミルクって意味の花だ」
「……それもコミックの知識か?」
「グノーティとサウトンのコミックは知識の宝庫だかんな。クソテレビよりもよっぽど役に立つぜ」
「……コミックもテレビもどっこいだろうが」
文句を言いつつダミトリスは入り口付近に待機するファミリーの人間に視線を送る。
その者は黙って頷き、パトリツィオに判明した事実を報告するためスマホを手に取った。
「そのスノードロップってのは、ヒューマン族をこんなに変えちまうのか?」
「いや、スノードロップは普通の植物で、含まれるガランタミンが中枢神経に作用し、神経伝達を強化する役割があるだけだ。アルツハイマー病を治療する医療目的で使用されたりする」
「ガ、ガラ? アルツハイマーってなんだ?」
「ボケ防止だとでも思ってくれ。だが過剰に摂取すれば毒には変わりない。吐き気や目眩、過呼吸や心拍の異常を引き起こしてしまう。それに我々の魔素器官に直接作用するわけではないんだ。他に使われる魔性の植物が主な成分で、この場合の身体能力の活性とは筋肉の伸縮能力の向上や脳内分泌を促すことを示し――」
複雑な専門用語の羅列にダミトリスはパンクした。
「待て、悪いが何を言ってるのかさっぱりわからねえ。要するに何が言いてえんだ?」
オルベーンはハッとしたように申し訳なさそうにした。
「すまない。要するに、スノードロップは過剰摂取するとヒューマン族には劇毒だということだ。そしてアリアナの血液には、臭いでわかるほど高濃度の秘薬の成分が混じっている。おそらく彼女は、かなりの頻度でドラッグを服用していたと思われる。ザルガスから薬を買ったのは、ここ数日の話ではないはずだ」
オルベーンはそう言って、恭しく慎重にアリアナの亡骸を床に降ろした。
「すまない、少しトイレに行ってもいいかな。血を落としたいんだ」
「構わねえよ。間違ってその血が身体に入ったらエラいことだろうからな」
バーテンダーは嫌そうにしたが、目の前にニコラオスが座っているので何も言えなかった。
オルベーンがトイレに入ると、ダミトリスは悲しげにアリアナを見下ろしながら口を開いた。
「もしあの話が本当なら、アリアナは最後まで嘘をついていたわけだな」
「クソ亜人に入れ込んでたぐらいだ、よっぽどな家庭環境だったろうぜ」
「死ぬ前に言った、オヤジさんがどうのってヤツか?」
「アリアナは撃たれてる最中も俺を見なかった。幻覚症状だ。完全に頭がやられちまってた。こんなもん、人間の死に方じゃねえ。人の弱みにつけ込んで、金だけじゃなく命まで奪いやがった。売人のクソ亜人も、セオファニスがヤッてなきゃ俺がぶっ殺したかったぜ」
そう吐き捨てるように、ニコラオスは言った。
ダミトリスは改めてアリアナの亡骸に向かい、その哀れな魂が冥界で永遠の安息につけるよう祈った。
エイレティアにとって、死とは魂の移動として捉えられている。それは決して、穢らわしい悪として扱われているわけではない。
エイレティア人にとっての本当の死とは、忘却されることだ。誰からも忘れられ、現世を生きる者との繋がりが断ち切れる事こそが最大の不幸とされている。
ゆえにダミトリスは、アリアナのことを永遠に覚えておくよう誓った。家族にも恵まれず、エフォリアに頼らざる得なかった彼女の人生は悲惨としか言い様がない。一応、仕事や潜行士をしてると言っていたが、今の段階ではそれがどこまで真実なのかもわからない。
ニコラオスがここまで亜人に対し敵意を向けているのは、そんな彼女の死がこのような形となった事への怒りも含まれていた。予断を許さない状況ではあったが、結果としてアリアナを冥府への舟に乗せたのはニコラオスである。それが彼には許せなかったのである。
「ああ、仇は絶対に取ってやろうぜ」
「だったらなんでアイツを殺すのを止めたんだよ。亜人なんか全員ぶっ殺せば片がつくだろ」
また極端な事を言い出すニコラオスに、ダミトリスは呆れたように言う。
「まだそんなこと言ってんのかよ。そんなこと出来るわけねえし、戦争になるだろうが。また殺し合いがしてえのか? オルベーンがいなけりゃここまでわからなかったんだぜ? 今回の件に関しては亜人の協力は重要だ。わざわざ相手さんを怒らすような事を言うんじゃねえよ」
「亜人共がいなけりゃこんなことにはならなかったんだろうが。それがまんまと東区域まで盗られて、今度はクソドラッグまだ流されてんだ。皆殺しにしてもまだ足んねえよ」
そう言いつつも、ニコラオスがオルベーンの協力に納得しているとダミトリスにはわかっていた。
本当に価値がないと判断すれば、『ナイトレイン』でオルベーンだけでなく全ての亜人を殺していたはずだからだ。そうなった場合、ニコラオスは何人かを道連れに死んでいただろうが、そんなことを気にするような性格ではないことも知っている。
『ナイトレイン』から続くオルベーンに対する強い当たりは、それでも処理しきれない感情の発露、つまり愚痴でしかない。
吐かせるだけ吐かせるとまた感情にまかせて暴走しかねなかったので、ダミトリスは話題を変えることにした。
「しかし亜人共は、どうしてこんなドラッグなんかを売ってんだろうな。北区域ならまだしも、アギヌスでやるのはリスクが高すぎるだろ。現にバレちまってこうなってるわけだし、奴等の薬だってのも、下手すりゃ御柱会議で連合が処断されかねねえ」
「んなもん、人体実験に決まってるじゃねえか」
また出た突拍子もない意見に、ダミトリスは罵る前に目を瞬かせた。
「なんだそれ、どういうことだ?」
「明らかだろうが。ろくな人間関係もない女たらし込んで、亜人にしか効かねえ薬を飲ませる必要があるか? そんなもん、自分達が犯人だって言ってるようなもんじゃねえか。金を稼ぎたいだけならもっとマシな手段がいくらでもあんだろ」
「だからわかんねえんだろうが。それと人体実験になんの関係がある」
「アリアナ見てもまだわかんねえのかよ。クソ亜人は知ってて彼女にドラッグを売りつけたんだよ。効き目を見てどうなるかを観察してたんだ。そうに決まってる」
ニコラオスは自分の意見に確信を持っているようだった。
コミックの読み過ぎだろうとしかダミトリスは思えなかったが、しかし言い返す言葉も思いつかない。口を開いたり閉じたりを繰り返して、結局アホかとしか言えなかった。
「いや、どうかな。彼の意見にも一理はあるように思える」
意外にもニコラオスの意見に賛成したのは、トイレから戻ったオルベーンだった。
ハンカチで手を拭きながら、至極真面目な顔で続ける。
「このエフォリアにはあまりに不可解な事が多い。だが実験という名目ならば、ある程度は納得できる」
「どういうことだ?」
「まず、麻薬商売としてリスクが高すぎるという点だ。彼の言ったとおり稼ぐ手段は他にもあるし、エイレティアでは五大組織が薬物を禁止している。もちろん表向きで、裏ではいくらでも存在しているがね」
せっかくの賛同者だというのに、ニコラオスは微塵も嬉しそうにはしなかった。
「それにエフォリアが人狼種由来の薬物なら、売人や客には少なくとも亜人は使わないはずだ。犯人がどこの誰だか教えているようなものだからね。それに、わざわざ変体を遂げるような効能は加えないだろう」
「少なくとも俺は、人間を化け物にする薬なんて聞いた事がねえ。外にはそんなもんがゴロゴロあんのか?」
「魔物であれば可能だ。おそらくエフォリアは、魔物を使った薬物になのだろう。エイレティアは未踏破の大ダンジョンに囲まれた希有な都市だ。新たな魔物や物質がいつ発見されてもおかしくはない」
ダミトリスも、そしてニコラオスも、エイレティアで生まれ育ちはしたがダンジョンには一度も潜ったことはなかった。
ダンジョンは魔素が高濃度で滞留し、専用の薬を使用しなければヒューマン族には負担が大きすぎる。エイレティアも外の都市国家と同じく、ダンジョンの外にまで出てくる魔物しか対処はしてこなかった。現在のようにダンジョン由来の魔物が都市内に流通するに至ったのは、抗争後のギルドによる開拓が進んでからだった。
「やっぱ余所者が来るとロクなことにはならねえな。戦争も抗争もこの件も、お前らが来なかったら起こらなかったじゃねえか」
ニコラオスがそう言うと、オルベーンは肩をすくめて言った。
「それは否定できないが、エイレティアがここまで発展したのもその余所達が来たからだろう? 君達のサマリス家も潜行業による輸出入で多額の利益を得たはずだ。街のインフラも文化も、余所者達が来たから発達したはずだ。君が愛用しているその銃も、製造されたのは他国ではないか?」
ニコラオスは黙ったまま、そのことについては言い返さなかった。
「何事にも光と影はある。問題は、生み出された強い影にどう対処するかだ。故郷を追われて流れ着いた移民の私に、このようなことを言う資格があるのかはわからないがね」




