2-2 セオドロス・サマリス
エイレティアは大きく分けて五つの区域で成り立っている。
そのうち、最も広大なのは海沿いに拡がる南区域だ。
最西端のドラツィオから最南端のヴェリまで、東部と北部を大ダンジョンに囲まれているエイレティアにおいては、海だけが外部との入り口になっている。地元住民もこの区域に多く住んでおり、特に中央区域のラプカ地区に最も近いピオレス区は、二つの港に挟まれた小さな半島のような形をしており、古い有力者などの居住区となっていた。
そんなピオレス区の中で、カラストキという丘の上には大きな屋敷がある。
この屋敷には、エイレティアで最も有名な一族が住んでいる。
その一族は世界大戦の後、数多の都市国家や企業、犯罪組織などの侵略からエイレティアを、住民達を守ってきた。現在では大きく五つの組織がそれぞれの区域を支配するエイレティアではあるが、依然として絶大な影響力を有しており、住民達の尊敬を集めていた。
「だから、ジョニーのジョニーバーガーが不味いのは、チーズが悪いからだ。それにアメリカとアムステルダムにかぶれて特大のバンズにマヨネーズべちゃべちゃ付けてるだろ? 最悪としか言いようがねえ」
「待てよ、マヨネーズとチーズの質に何の関係があるんだ。ジョニーが使ってるチーズは伝統的なフェタチーズだ。フェタチーズが不味いなんてねえだろ」
「何事にも組み合わせってもんがあんだよ。それぞれの国には、それぞれの良さってもんがある。ただでさえフェタチーズは塩気が強いってのに、スライムみたいにマヨネーズぶち込んだらどうなる? どんな炭酸ジュースだって誤魔化すのは無理だ」
重苦しい門と、あからさまに武装した門番の男が二人。
ニコラオスとダミトリスは一瞥と共に手をちょいと上げ、屋敷の厳格さに似合わない雑談をしながら入っていく。
門から玄関までの庭には、屋敷の主人が趣味で作った小さなオリーブ畑がある。屋敷正面はシンメトリーなバルコニーで、大理石の石柱に囲われたオーク材の扉が二人を待ち構えていた。
扉は月桂樹とメアンドロス文様の装飾彫刻が施されており、伝統的なエイレティア人は玄関扉を単なる扉ではなく、客人を招くための顔としてこだわりを持っている。屋敷の主人はこの伝統に則った人物だった。
「チーズバーガーはジャンクフードだ。つまり余計なこだわりなんかいらねえ。新鮮なレタスと牛肉さえあれば、誰でも上手く作れる。それを下手に作れるジョニーがどうかしてる」
「でも実際にジョニーの店は繁盛してるぜ。ゲテモノにはゲテモノの良さがあるんだ。ダミだって文句を言ってる割には通ってるじゃねえか。おかしな話だけど、癖になる不味さってのが世の中にはあるんだよ」
「俺がジョニーバーガーに通ってるのは、ジョニーが俺のダチだからだ。クソ不味いバーガー食ってるのも、他に食うもんがねえからだよ」
「だったら教えてやりゃいいだろ」
「教えたに決まってるだろ。でも聞かなかったんだ。あいつ頑固さはロバ並なんだよ」
ダミトリスが鉄製のノッカーを打ち鳴らす。
「仕事、なんだと思う?」
「誰かをぶっ殺すのは間違いねえ。それもかなりシリアスな殺しだ。カプローニの口調もマジだったからな」
「カプローニはいつだってマジじゃねえか。あいつが笑ってるところ、見たことねえぜ」
雑談を止めない二人を出迎えたのは、そのパトリツィオ・カプローニだった。
「遅いぞ二人とも。何処で油を売ってた」
パトリツィオの口調は二人の人物評通り、生真面目で岩のような重さだった。
ニコラオスは不満そうに答える。
「まっすぐ来たぜ。昨日あんたに言われて、クソドラッグを持ち込んだ馬鹿共の頭を二三個吹き飛ばしてからな。おかげで眠くて仕方がねえ」
不遜な物言いにパトリツィオは顔を顰めるが無視した。
ダミトリスに顔を向ける。
「カペタニオスがお待ちだ、入れ」
中に入ると、すぐにまた中庭が目に入る。
白く輝く太陽光が吹き抜けから差し込み、良く剪定されたオリーブの木が一本だけ植えられていた。
回廊のような廊下を抜け、応接間の隣にある屋敷の角にある書斎へ繋がる扉をパトリツィオがノックした。
「カペタニオス、ニコラオスとダミトリスが来ました」
「通してくれ」
低く、沈み込むような声だった。
さしものニコラオスとダミトリスもその声に背筋を伸ばし、無駄口は叩かなかった。
日照を避けるため、書斎はどこか仄暗かった。
石灰で塗られた壁には押し倒されそうな書棚が一面に設けられ、書籍だけでなく商売で使われる契約書や証明書が詰まったファイルで埋め尽くされている。
タイル張りの床にはカーペットが敷かれ、漆喰細工の天上に吊り下げられたランプに照らされている。
そして厚手のカーテンレースの前には、クルミ材での重厚な机があり、その前には客人が座るクッション付きの木製椅子が一つ。
「ニコ、ダミ、良く来てくれた。朝早くから済まんな」
「カペタニオス・セオドロス」
「カペタニオス・セオドロス」
二人を出迎えたのは、屋敷の主人であり、南区域全域を支配するサマリス家の当主。
エイレティアの地元住民のために立ちあがり、数多の諸勢力を打ち倒してきたセオドロス・サマリスだった。
パトリツィオが岩ならば、セオドロスはオークの巨木のようだった。
骨張った顔立ちは樹皮のように粗く、そして深い。目元の影や油断のない眼差しには戦いの歴史が刻まれており、服の上からでもわかる背中の広さは、その後に家族だけでない多くの同胞達を守ってきた威風があった。
「カペタニオス、仕事があると伺いましたが」
「それは挨拶だけで良いと言っただろうダミ。我々は多くの修羅場をくぐり抜けた仲だ。セオと呼んでくれて構わない。ニコ、お前もだ」
物静かで抑揚のない話し方だが、セオドロスからは二人に対する親しみや信頼を感じさせた。
「あなたは尊敬するべき人だ。せめてセオドロスと」
セオドロスはパトリツィオをチラリと見て、仕方なさそうに息をついた。
「なら、それでいい。ニコ、お前はどうだ」
「カプローニに睨まれたくない。俺もセオドロスと呼ばせてくれ」
「……パトリツィオ、私達は家族だ。真面目なのは構わんが、少し生真面目過ぎないか」
「節度は必要です。特にこの二人は普段の素行が素行ですので」
お前のせいだとダミトリスが相棒を睨む。
ニコラオスは抗議するように手を上げた。
「二人とも、あまりパトリツィオを困らせてやるな? では、そろそろ仕事の話をしよう」
セオドロスから愛想のいい気配が消える。
それと共に書斎の空気が変わった。
この場の支配者が誰か、何も知らぬ者でもすぐにわかる変化だった。
「ここ最近、街に麻薬が持ち込まれているのは知っているな?」
「ええ、今朝もその件で一仕事してきたばかりですから。正確には、昨日の晩からですけどね」
「……どういうことだ? 私は聞いていないが」
二人に仕事を任せたパトリツィオは厳格な顔のまま口を開く。
「カペタニオスのお手を煩わせるような案件ではなかったので」
「問題ないのか?」
「二人がしくじっていなければですが」
試されるような言い方に、ニコラオスが憤慨する。
「冗談じゃねえ。俺達はきちんと仕事をこなした。そんな言い方をされる覚えはないぞ」
セオドロスに対するものとは打って変わって、言葉には棘が剥き出しだった。
ボスを前に剣呑さを隠さない様子に、ダミトリスが慌ててフォローに入る。
「間違いなく、仕事はこなしました。指定通りの四人を確実に。死亡もちゃんと確認しています。それに掃除屋も手配済みです。シオニスに聞いてもらえばすぐにわかりますよ」
しかしニコラオスはパトリツィオを睨みつけたまま動かない。
ダラリと力なくぶら下がった腕は、しかし何かを握ろうという仕草を取った。
パトリツィオは眉一つ動かさずに対峙していた。
仕事の話の前とは別の、張り詰めた沈黙が部屋を支配しようとしていた。
「ニコラオス、やめろ。パトリツィオの仕事には疑うことも含まれてる。彼を許してやってくれ」
「……セオドロスがそう言うなら」
ダミトリスはほっとしたのもつかの間、ニコラオスはさらに続けた。
「ただ、カプローニには謝罪を求める。顔に泥をぶっかけられたまま引き下がる事なんて出来ねえ」
「おいニコ、カペタニオスの言葉だぞ」
「俺の主義に反する」
頑として引かないニコラオス。
セオドロスは仕方なさそうに言った。
「パトリツィオ、ニコの言うことも一理ある。フィロティモを忘れてはいかん。彼に謝罪を」
「……悪かった。お前の名誉を汚すような事を言った私を許してくれ。カペタニオス、あなたにも謝罪を。結局お手を煩わせる事になりました。私の落ち度です」
自分達のボスに諭され、パトリツィオは目礼で謝罪の言葉を述べた。
「ほら、な? これで手打ちで良いだろ?」
「ああ、謝罪を受けいれる。カペタニオス、あなたの前で申し訳ありませんでした」
「なら、さっさと握手をしろ。それでこの件はしまいだ」
セオドロスが手を振ると、二人は互いの目を見合ったまま、ガッチリと握手をする。
「これで水に流してくれるな」
「ああ。問題ない」
二人が手を離すと、セオドロスは面倒くさそうに仕事の話に戻った。
「で? 何の話をしていた?」
「街に薬が持ち込まれてるって話です、セオドロス」
「そうだったな。ダミ、お前さんがいてくれて助かる。近頃、街に薬が出回ることが多くなった。ニコ、麻薬は私が禁じているのは知っているな?」
「もちろん。ヤクは汚え商売だ。絶対に許しちゃならねえ。一度、アメリカに行ったときに中毒者を見たことがあるが、あれはもう人とは呼べない何かだった。最悪もいいとこだ」
セオドロスがわざわざニコラオスに話を振ったのは、彼の意識を仕事に戻すためだった。
声を掛けられるまで、二人は依然として睨み合ったままだったからだ。
「今回の仕事とやらでは、実物を見たか?」
「いえ、売人連中はもう捌いた後だったようです。金だけがありました。一応回収しましたけど、どうします?」
「汚い金だが、金は金だ。パトリツィオ、誰か金に困ってる――いや、マルコスに渡せ。必要な者に届けさせろ」
「わかりました」
ニコラオスとダミトリスは聞き馴染みのない名前が気になったが、これ以上余計な時間を取るわけにはいかないと黙っていた。
「それと、これが例の薬だ。二人とも覚えておいてくれ」
セオドロスが机の引き出しから出したのは、小さな部ニール袋である。
ニコラオスもダミトリスも、自分達でこの手の薬を使ったことはないが、実物は見たことがある。売人を襲撃し、ルートや他の仲間の居場所を聞き出すのも二人の仕事だからだ。
しかし机の上に置かれたそれは、二人にも初めて見るモノだった。
「何ですかこれ。こいつがドラッグなんですか?」
ダミトリスが怪訝そうに言う。
ビニール袋に入ったそれは、エイレティアで稀に見る錠剤や粉末タイプではなく、本物の薬のようなカプセルタイプだった。
「そのようだ。いまウチで抱えてる薬剤師に成分を調べさせてはいるが、ハッキリとしたことはわからないかもしれんらしい。新しい薬のようだ。効用は他と変わらないが、どんな副作用があるかはまだ不明だ」
セオドロス・サマリスはドラッグの類いを嫌悪しているが、だからといって見たすぐそばからゴミ箱へ投げ捨てるほど短慮ではない。
戦うには敵のことをよく知らなければならない。
そのことをセオドロスは良く知っていた。
「この売人はどうしたんです? ヒューマン族なんですか?」
「死んだ。セオに行かせたからな」
「セオファニスに? なら仕方ありませんね。ハデスに睨まれたのと同じだ」
「それと、売人は亜人種だった。エルフやドワーフではなく、人狼だ」
「……人狼? 連合ですか?」
「まだわからん。だが売人が根城にしていたのはアギヌスのアパートだ。関係がないとも言えん」
ダミトリスもニコラオスも、この件がただの麻薬事件ではないと気がついた。
名前が出たセオファニスと言う男は、サマリス家の最大戦力と呼べる人物だ。しかしそれゆえに、適当な仕事で派遣されるような事はない。
そして連合とはエイレティアの東区域を支配する亜人種による共同体である。亜人種とは数多くある人類種の中でも、ヒューマン族、エルフ族、ドワーフ族という多数を占める種族以外の人類種を指す別称だ。世界大戦のおり、故郷を追われた亜人種は数多く、エイレティアに流れてきた者達も多くいた。それがエイレティアで起こった大規模な抗争の中で組織化し、東区域を支配するまでに膨れ上がった。
アギヌスとは、そんな東区域との境界にある区である。境界となるような区では揉め事が起こりやすく、不安定になりやすかった。
「じゃあ、俺達の仕事は?」
「いま、若い者達にアギヌスを調べさせてる。それを手伝ってやってくれ。お前達ならあの場所でも顔が利く。協力してくれる者も多いだろう。流通元と製造先を調べてくれ」
「探すだけですか? その後も俺達が?」
セオドロスは重々しく、そして穏やかに命令を下す。
「状況による。必要ならセオに頼む事になるだろう。だが、オリーブが熟したかは落ちる時までわからない」
それは暗に、場合によっては襲撃しても構わないということだった。
「わかりました、カペタニオス・セオドロス。任せてください」
「カペタニオス・セオドロス。いつまでに調べれば?」
ニコラオスもダミトリスも、眉一つ動かすことなく了承する。
カペタニオス直々の命令である。
それは事の重大さを表しており、遊びのない状況でもあった。
「二三日で頼む。段取りはいつも通りで構わない。しかし――」
セオドロスは言葉を区切り、居住まいを正した。
古くからエイレティアを外部勢力から守り、数多の抗争を乗り越えてきた男が現れる。
さしもの二人も、パトリツィオすらも息を呑んだ。
薄暗い照明の下、まるで影から膨れ上がったかのようだった。
「――絶対に見逃すな。必ず突きとめろ。このエイレティアを汚す輩を、絶対に許すな。わかったな?」




