2-1 ポイ捨て禁止は神々のお告げ
――パンパンパンパンパンパンパン‼
何やら長い怒声の後、朝霧を切り裂くような乾いた発砲音が鳴り響いた。
ここは何の変哲もない南区域の住宅地で、物騒な気配に住民達はじっと息を潜めていた。
もちろんそれは正解である。
しばらくしてアパートの玄関から出てきたのは、どう見てもカタギには見えない大柄なヒューマン族の二人組だった。
一人はニコラオス・スタヴロス。
黒い長髪をオールバックにしており、片耳だけにイヤリングを付けている。微笑んでさえいれば魅力的だろう灰色の垂れ目も、眉間の皺や不機嫌そうに突き出された唇が相まってどろりと濁っている。
もう一人はダミトリス・パパデモス。
潰れた大きな鼻と口周りから顎のラインにかけて伸びた髭が特徴的で、神経質そうに辺りを見回しているギラリとした瞳は、刺すような剣呑さを携えていた。
二人とも型落ちのブラックスーツを着込んでおり、黒のネクタイもしっかりと締めている。季節的にも暑苦しいほどの正装は、朝の穏やかさの中では異様だった。
玄関で立ち止まり辺りの人気を確認すると、立ち去らず拳銃をベルトに挟み、煙草を取り出した。
「いま、何時?」
深々と吸い込んだ煙を、時間をかけて吐き出したニコラオスが尋ねた。
「八時ぐれえじゃねえの?」
ダミトリスが灰を落としながら答える。
「ここらで開いてる店、どっか知ってる?」
「知らねえよ。こんなクソみてえな時間に空いてる店なんかあるわけねえだろ」
「聞いてみただけだろぉ? いちいち突っかかってくんじゃねえよ」
「うるせえ俺ぁイラついてんだよ」
「それは俺も同じだろうが」
「とにかく、知らねえもんは知らねえよ。適当に大通り出たらカフェでもパン屋でもなんでもやってんだろ」
今にも喧嘩が始まりそうな一触即発の空気ではあるが、不機嫌な事を差し引いても、彼らにとってはこれはいつも通りのやり取りだった。
「んじゃ、そっち行くか」
ニコラオスはフィルターのギリギリまで煙草をふかすと、その場に放り捨てる。
するとダミトリスが眉を吊り上げ、煙草を拾い上げてニコラオスに突き出した。
「路上に煙草を捨てるな‼」
「んだよ、別にいいだろポイ捨てぐらい」
「ポイ捨ては俺の主義に反する」
「なんだそのクソみたいな主義」
「昨日テレビ見なかったのか? エルティアTVだ。ニュース番組とかやってる」
「俺、テレビは見ない主義」
「そっちの方がクソみてえな主義じゃねえか」
「で、テレビがなんだって?」
「どっかの国のニュースがやってたんだよ。その国ではポイ捨てだのなんだのでゴミが路上に溢れてたんだと。それで政府がひとまず煙草のポイ捨てを禁止にしたんだ」
ニコラオスがせせら笑った。
「煙草を捨てただけで罰金かよ」
「そうだ。百ドルだとよ」
「なんだそれ、クソみてえな法律だな」
「問題はそこじゃねえ。すると町中からゴミがなくなったんだ。綺麗サッパリな」
「なんでだよ。禁止にしたのは煙草だろ?」
「なんでも一度路上に捨てることが禁止されれば、他のゴミでも嫌われるようになるらしい。今まで気にしなかった汚れが気になりだすんだと」
「あほらし。煙草ぐらい好きに捨てさせろよ」
ニコラオスはそう言って歩き出そうとした。
「だが俺はそれを見て感銘を受けたんだ」
また始まったとうんざりしていたが、一度語り始めたダミトリスは語り終えるまで満足しなことと、ニコラオスは長い付き合いでよく知っていた。
「……なんでだ?」
「考えてもみろ。汚いと綺麗だったらどっちがマシだ?」
「そりゃ、綺麗かもな」
「だろ? 誰だって好き好んで汚ねえ場所に住みたかねえ。俺はさっきあの馬鹿どもを撃ちながら思った。この街がこんなクソみてえな連中で溢れてんのは、同じように街がクソみてえに汚いからなんじゃねえかって」
ニコラオスは辺りを見回す。
住民の清掃が行きとどいた通りには、ゴミ一つ落ちていなかった。
「だから?」
「わからねえ奴だな。バタフライ効果って言葉知らねえのか」
「そんなクソみてえな効果知らねえよ」
「何気ない些細な物事が、やがて大きな物事に繋がるって話だよ。あんなクソみてえな連中がいるのは、この街がクソみてえに汚ねえからで、俺達があんなクソみたいな連中に煩わされるのは、この街がクソで溢れてるからだ。お前がポイ捨てするからな」
「だからポイ捨てするのをやめたって?」
「そうだ」
「もしかしてだけど、それ考えたのはさっきあの馬鹿どもを撃ちながらか?」
「そうだ。あのクソったれ共の脳味噌を吹き飛ばしながら気づいた」
「あほらし」
どれだけ馬鹿にされようと、ダミトリスは神妙な物言いをやめることはなかった。
「なんと言われようと俺はもうポイ捨てはしねえ。これは神々からの神託なんだ」
「今度は何言ってんだ。神々って魔人のことか?」
「そっちじゃねえ。俺たちに知恵を授けてくれる神々のことだ」
「どうして神々が出てくるんだよ。クソテレビのクソニュース見ただけだろ」
「考えてもみろ。なんで俺は昨日の昼間、ジョニーのやってるジョニーバーガーでチーズバーガーを食ってた? その時たまたまついてた番組がなんでニュース番組だった? ジョニーはニュースを観るような上等な男じゃねえ。たまたま居合わせてクソ不味いチーズバーガーを食ってたのはなんでだ? そのニュースがポイ捨て禁止のニュースだったのは? 次の日に朝っぱらからクソの始末をつけて回らなきゃならなくなったのはなんでだ? 考えれば考えるほど繋がってくるじゃねえか」
興奮するダミトリスを大人しくさせるよう、ニコラオスは手で制した。
「いいかダミ、世の中にはたまたまってもんがあるんだよ。お前があのクソ不味いチーズバーガー食ってたのも、クソテレビのクソニュース見たのも、クソの後始末をつけなきゃならなくなったのも、全部たまたまだ。クソみたいな世の中にはそういうクソみたいなことが重なる事があるんだ」
「信仰心のない者にはわからねえ。いいからお前もやめろ」
「なんで俺までやめなくちゃならねえんだ!」
「話聞いてなかったのか! 俺たちが一晩中クソの後始末をつけなきゃならなくなったのは、お前が煙草をポイ捨てするからだって言っただろうが!」
「そんなもん関係あるわけねえだろうが!」
「いいや、ある。俺はそれをさっき悟った」
「勝手にクソ悟ってろ。とにかく俺はそんなクソ主義には従わねえ。捨てたきゃ捨てるし、捨てたかなきゃ捨てねえ。俺がどうするかを決めんのは俺だ」
「後悔するぞ」
無視して朝飯を食べに行こうとしたニコラオスだったが、ダミトリスのあまりの上からな言葉に我慢の限界が来た。
「じゃあ言わせてもらうけど」
「なんだ、言ってみろ」
ニコラオスの反抗に、ダミトリスは顎を突き出し自信満々で迎え撃つ。
「この街がクソで溢れかえってんのは、俺が煙草を捨てるからって話だよな」
「そうだ」
「そのクソってのは、俺らみたいな人の頭吹き飛ばして飯食ってる奴らの事か?」
「そうだ」
「で、俺が煙草のポイ捨てを止めれば、クソ共がいなくなるってのか?」
「その通り」
「てことはファミリーも、北の連中も連合のクソったれ共も、クソカンパニー共も、いなくなんのか? ポイ捨てを止めただけで?」
「……」
「さっきのクソ共も本当にいなくなると思ってんのか? ポイ捨てしねえクソが残るだけなんじゃねえのか? それに、そんなクソ法律誰が守るっていうんだ?」
「……」
ダミトリスに出来るのは、唇をへの字にすることだけだった。
「何も言えねえじゃねえか」
「言ってろ。とにかく俺はポイ捨てはやめた」
「勝手にそんなクソ主義やってろ。俺に押し付けんな」
「目を開かない奴め」
ひとしきり罵り合うと、二人は大通りの方へ歩き出した。
ニコラオスは断固として吸い殻を受け取らず、ダミトリスは律儀に携帯用灰皿にしまい込む。
カーテンの隙間から彼らを覗き見していた者達はほっと安堵の息を漏らす。
今にも仲間内で撃ち合いそうな剣呑な気配だったのだ、流れ弾が何に当たるか予想などできない。警察組織など存在しないこの街で、彼らを止めるのは彼らを雇っているマフィアか、同様のヤクザ者しかいない。何が起こってもただの住民にはどうしようもなかった。
しかし、安息も束の間だった。
ようやく訪れた静けさ、着信音が引き裂いた。
「……鳴ってるぞ」
「……わかってる」
ダミトリスが懐からスマホを取り出した。
「――はい、ああ旦那か、悪い報告が遅れました。万事、つつがなく片付きましたよ。今から朝飯食いに行くところです。……はい?」
かかってきた電話は、少なくともダミトリスにとっては招かれざる用向きで、せっかく落ち着いた顔がまた殺気立っていく。
「ちょっと待ってくださいよ。俺たちは今しがた仕事を終えたばっかりなんですよ!? 晩飯も食わず一晩中犬みてえに駆け回ってです。飯ぐらい食っても罰は当たらんてもんでしょうよ。なんなら死体みたいに寝てえところなんです!」
ニコラオスは嫌な予感がしたので両耳を塞ぐ。
それでもダミトリスの怒声に近い抗議の声は防ぎきれなかった。
「あーあーあーあーあー」
「うるせえバカタレ! 静かにしろ!」
ダミトリスが怒鳴ってニコラオスを蹴り上げると、再びスマホに耳を当てる。
「クソっ! 切れてやがる!」
怒鳴り声をあげてダミトリスは怒りを発散させる。
怒声すらも煩わしいニコラオスだが、自分も興奮してはなるまいと煙草をもう一本取り出して火をつけた。
「落ち着けよ」
「これが落ち着いていられるか!」
ピキリと青筋が立ったが、必死に怒鳴るのを我慢する。
ここでさらに相棒を刺激してしまえば、上司の用件そっちのけで殴り合いに発展しかねない。
「あー、なんだったんだ?」
努めて穏やかに質問する。
「仕事だ!」
「それはわかってる。何の仕事だったんだ?」
「んなもん殺しに決まってんだろうが‼ それ以外になんかできんのか⁉ ゴミ収集車に乗ってるとは知らなかったぜ!」
「いちいち怒鳴んじゃねえよ! 俺にも我慢の限界ってもんがあんだ‼ いいからさっさと誰から何の電話だったか言えッてんだよ‼」
「カプローニからだよ! 仕事の中身は聞いてねえ、お前が隣でギャーギャー騒いでたせいで聞こえなかったんだ!」
「お前がごちゃごちゃ文句言ってたからだろうが! 素直に話聞いてりゃ要件を聞き逃すことはなかったんだ!」
「よくもそんなことが言えるな! それこもこれも全部、テメエが煙草をポイ捨てしたせいだ! だから言ったんだ、これは神々の神託だって! テメエが神々に背くからこんな目にあったんだ」
「関係ねえって何回言わせんだよ! それならテメエがクソテレビを観たせいだ。どっかのクソみてえな国のクソみてえなクソニュースを語ったせいで、クソみてえなハメになってんだよクソ!」
「クソクソうるせえんだよクソったれ! それに何回も言ってねえだろ!」
「いちいち怒鳴るんじゃねえ!」
「お前も怒鳴ってんだろうが!」
住民達が安全と判断して外に出られるようになったのは、二人が罵り合いながら消えた一時間後のことだった。




