1-18 オルキュドラの沼
エリシュカは弓矢でのサポートを行うため、沼全体を見下ろせる木に登っていた。
都合良くあった樫の木には、クヌギのような節くれはなく、イチイのような毒性はない。そのうちの、沼に向かって伸びた枝に跨がると、矢筒から矢を取り出した。
腰に巻いたポーチには、あらかじめバックパックから小分けした魔術具や薬品が詰め込まれている。エリシュカはその中から拳よりも小さいぐらいの袋を取り出し、鏃に括り付ける。
「……」
冒険者として活動を始めてからというもの、エリシュカは自分に常に冷静であれと言い聞かせてきた。
良い意味でも悪い意味でも臆病なカーラ、気が荒くすぐに自分を見失いがちなエリック。そしてリーダーを任されているものの、本当は命令するのが苦手で何でも背負い込み過ぎるダミエル。
だからエリシュカはスカウトの技術を学んだ。
パニックは無知によるものだし、焦りは道筋を用意することで抑えられる。責任を肩代わりできる人間も必要だった。
しかしこの大ダンジョンにおいては、まるきりその役目を果たせていない。
「……ふぅ」
だからこそ、改めて自分に冷静たれと言い聞かせる。
もう失敗は許されない。しくじったでは済まされない失態によって、幼馴染みを一人失った。
次はない、その覚悟で矢をつがえた。
沼から全身を現したオルキュドラは、餌を探すわけでもなく沼地に留まっていた。
尾の胡蝶蘭に必要なのか、木の影にならない場所で月光浴を始めたのだ。大きなとぐろを巻き、自身の身体に顎を乗せると、小気味よさそうに尾を振っている。
ダミリルはそれを、沼の中から注意深く観察していた。
オルキュドラは周囲の情報を普通の蛇と同じく、ピット器官とヤコブソン器官によって把握している。つまり熱や臭いフェロモンなどは敏感に反応するわけだが、代わりにその巨大な体格のせいで振動による探知は鈍感となったのである。
ゆえにダミリルはリスクを承知で沼の中から接近することにした。すでに戦闘や逃走で動き続けた彼らは、服に汗が染み付いている。誤魔化しながら近づくにはこの方法しかなかったのだ。
幸いなことに沼はそこまで深くなく、歩きながらでも顔が出せる程度に底の土壌も安定していた。ダミリルはその中を、抜き身の片手半剣だけを持ってゆっくりと進んでいく。時折、小魚であろう何かが脚を突いていくが、努めて反応しないようにしていた。
この沼にいる危険な魔物はオルキュドラが一匹であること、ダミリル達はこの可能性に賭けるしかなかった。
元々、オルキュドラは繁殖期以外は単独で行動する。それにこのように主然とした態度で生息する沼に、他の魔物の共生を許すとは考えられなかった。
――それにしても、なんて大きさなんだ。これが大ダンジョン、リベルタム大森林の中層。こんなのがうようよいる森を踏破なんて出来るわけがない。
眠るオルキュドラの頭は人間よりも一回り以上はあった。これでは人間を丸呑みにしても余裕があるほどである。ゆらゆらと月光の中で揺れる尾ですら、鍛え上げた成人男性の太ももよりも太い。
――もう魔素の残量を気にする余裕はない。一気にたたみ掛けるしかない。
ダミリルは右手に持つ片手半剣の柄を強く握りしめる。
魔装具であるこの片手半剣には、三つの魔術が行使できる機構が備わっている。必要な魔素は柄頭と鍔に取り付け得られた宝石から供給され、刻印が施された剣身から魔術を顕現させる。魔素は自動的に補給される物ではなく、専用の技術を持った魔工技師に依頼しなければならない。
つまりここで全てを使い果たした場合、脱出に魔術を使うことは出来ない。他の魔物に襲われた場合、純粋な剣技のみで対応しなければならないことになる。
しかしダミリルは後のことを考える余裕はないと判断した。
慎重に慎重を重ねてオルキュドラに接近する。
熱と臭いを隠したおかげで、ダミリルに気づく様子はまだない。
ダミリルはチラリと木の上に目をやる。
矢を番えたエリシュカが頷く。
呼吸は合図もなく揃う。
風を切り裂く一矢は、その頭部へと放たれた。
しかしエリシュカの殺気に気がついたのか、オルキュドラは容易く尾で矢を弾いてしまう。
カチンと金属同士が触れ合ったような軽い音を立て、矢は蛇の顔の前に突き刺さる。
突如として紅蓮の炎が立ち上がり、月光をかき消す勢いで燃え上がった。
炎に驚いたオルキュドラが咄嗟に鎌首を上げて牙をむく。しかしすぐさま身を捩りだし、苦しんでいるかのようにのたうち回り始めた。
この炎はエリシュカの魔装具である弓の魔術を、共に放った薬品によって増幅させたものだ。同時に、燃焼促進剤と一緒に詰めていた洞窟蝙蝠の魔物の糞尿が燃焼して発生したアンモニア臭は、蛇にとって激臭となる。
唐突な高温と刺激臭に、オルキュドラは感覚器官が麻痺し混乱と苦痛を同時に味合わされていた。
ダミリルが魔術を発動する。
「――ッ!」
水面が弾けダミリルが宙へと飛び出す。
これは本来、風を纏い瞬間的に加速する魔術だが、ダミリルはそれを応用し自身を沼から打ち出したのだ。
オルキュドラの真上まで飛び上がったダミリルは、片手半剣を大きく振りかぶり同じ魔術を作動させる。
落下と突進の二つの推進力で加速したダミリルは、そのままオルキュドラの首に向かって剣を振り下ろした。
「グッ――! 駄目だ! 斬り落とせない!!」
加速の力と名工による斬れ味を持ってしても、オルキュドラの身体は真っ二つにすることは出来なかった。
刃は鱗こそなんとか斬り裂いたものの、その下の強靱な筋肉と骨によって受け止められていた。
岩をも斬り裂くダミリルの片手半剣は、まるで万力に締め上げられたかのように進まず、引き抜く事すらできなくなる。
続けざまに襲ってきた痛みに、オルキュドラは吐血と肺の息が混ざってくぐもった悲鳴のような音を出す。
そこでようやく、オルキュドラも自身が何者かに襲われていると認識した。
首元に取り付く敵を振り払おうと、丸太のような胴体で暴れ出す。その振動は巨人の足音のように重く、尾が叩きつけられた水面はダミリルの魔術よりも高く水しぶきを上げた。
「エリシュカ! 射て!」
ダミリルが必死にしがみつきながら叫ぶ。
しかしエリシュカは二の矢を放てなかった。
懸命に狙いをオルキュドラの頭に定めていたが、そのすぐそばでしがみついているダミリルに臆さずには苛荒れなかった。
シュニシュカ山で巨人と対峙したとき、似たような状況になった。巨大な身体にダミリルとエリックが取り付き、動きを封じたところをエリシュカが仕留めたのだ。その時には迷いはなく、ダミリル達も彼女の射撃技術を疑っていなかった。
――射てない!
今なら、弓の魔術を使い頭部を射貫く事が出来るかもしれない。鱗を貫くことが出来るのは、ダミリルの剣で証明された。
しかし脳裏によぎるのは、カーラの壮絶な死に顔。
万が一、この矢がダミリルに当たったらと思うと、引き絞る指を解放することにどうしても躊躇いが生まれていた。
「ダミリル! 魔術を!」
エリシュカが木の上から絶叫する。
しかしヴィンセントは、猛獣のごとく荒れ狂うオルキュドラにしがみつくのが精一杯で、魔術を作動させるスイッチを押せなかった。
吹き出した血が剣身を伝って柄まで流れ、今にも滑って手放してしまいそうだった。
「いいから! 僕ごとやれ!!」
決死の思いでダミリルが叫ぶ。
「エリシュカ!」
冷静になれと自分に言い聞かせいていたのに、一度生まれた躊躇いはどんどん覚悟を揺らしていく。
猶予は刻一刻と失われていく。
錯乱状態にあるオルキュドラが回復し、丸太のような胴体でダミリルに絡みつけば一巻の終わりだ。ダミリルの全身の骨は小枝のように粉々になるだろう。
しかし、一矢を放った時は微動だにしなかった指は、押さえ込もうとすればするほど震えが止まらなかった。
――無茶だけはしないでね。
故郷で帰りを待つ、不治の病に冒された恋人の声がダミリルの脳裏に響く。
無茶を覚悟で剣の魔術を発動させようとしたその時、聞こえるはずのない叫び声が聞こえた。
「ウァァアァァァァァアアアアア!!!」
よく知るその声にダミリルは剣から手を離してしまう。
勢い余って吹き飛ばされ、再び沼に墜落しようとしたその瞬間に視界に映ったのは、武器を失い、万が一の為に撤退をさせたはずのエリックだった。
「――ブハァッ!! ハアッ! ハアッ!」
沈んだ沼から引き上げられたダミリルは、猛烈に酸素を求める肺に従って息を吸い込んだ。
「よぉ、相棒。お互い、まだ生きてるらしいな」
「ハア、ハア、ハア――どうして……」
「助けてやったのに何だよその言い草。俺が黙って撤退なんてするわけないだろ?」
エリックはふてぶてしくそう言うと、ダミリルに肩を貸してそのまま沼の外へと運んでいく。
「エリックには、重要な役目があったはずだ。万が一のために……」
「それよりも見ろよ。その役目を放棄した誰かさんのおかげで、マリカを救う事が出来るぜ?」
エリックは嬉しそうに顎でしゃくる。
ヴィンセントがそちらに目を向けると、折れた槍の先に喉を貫かれたオルキュドラが倒れ伏していた。
槍は喉から頭を貫通しており、どう見てもオルキュドラが死んでいるのは間違いなかった。
「な? 俺達はやったんだ。だからもうこれからは俺だけ逃げろなんて言うなよ? 俺達はパーティだ。誰だって欠けちゃいけないんだ」
最後の言葉に茶化すような声色はなかった。
ダミリルはそれ以上なにも言わず、沼のほとりで待っていたエリシュカの下まで素直に介護されていた。
「ダミリル! 大丈夫?」
二人が沼から抜け出すとエリシュカが駆け寄ってくる。
エリックはダミリルをエリシュカに任せると、ナイフを取り出してオルキュドラに歩いて行く。
「ごめんなさい。私……どうしても射てなかった」
「いいんだ。僕だって射てなかったさ。それにエリックがやってくれた。結果良ければすべて良しだよ」
エリシュカはすぐさまダミリルの容態を調べる。
「怪我は?」
「両腕が棒になった気分」
すぐさまエリシュカはダミリルの袖を捲る。
アラクネにやられた傷が深くなっていた。
筋断裂を起こしていた腕は、過度な収縮に耐えきれずさらに裂け目を増やしていた。内出血が酷くなったダミリルの両腕は、今すぐ病院で治療しなければならない程青黒く染まっていた。
「ごめんなさい。今はこれしか出来ないけど……」
エリシュカはバックパックから薬草と包帯を取り出すと、ダミリルの両腕にそれらを巻いていく。
「ありがとう」
「いいから、今は休んで」
エリシュカが応急処置を施していく間、ダミリルはオルキュドラから胡蝶蘭を採取するエリックに顔を向けた。
オルキュドラと戦う前、ダミリルはエリックにダンジョンからの脱出を頼んでいた。
もちろんエリックは反対し、自分にも出来ることはあると頑なだった。しかし魔装具の槍を失い、怪我も酷かったエリックにはこれ以上の戦闘は無理だと諭したのだ。
代わりに託したのはダンジョンの外でダミリル達を待ち、帰還しなかった場合に故郷へと戻る役目。彼らを待つもう一人の幼馴染みであり恋人に、その最後を伝えて貰う役割だった。
「……また間違えちゃったみたいだ。僕達は離れるべきじゃなかった。エリックがいなければ僕は死んでいた。花も手に入れることが出来なかった」
そんなダミリルの独り言に、エリシュカは答えなかった。
彼女の心は自責の念に苛まれていた。
ダミリルもそんなエリシュカの心境には気づいていて、特に返事を促しはしなかった。
「よっしゃ! どうだよダミリル! これだけあれば絶対マリカを助けられるぜ!」
オルキュドラの尾から胡蝶蘭を剥ぎ取り、どんなものだと掲げるエリック。
その手には花束にしても多すぎるぐらいの胡蝶蘭があった。
「あれがどんな病でも治せる蘭か。最後の採取報告は今から二十年も前だよ」
「……それだけ聞けば、私達は偉大な冒険者ね」
含みを持たせるようにエリシュカがぽつりと呟く。
どんな思いが含まれているのか、ダミリルには痛いほどわかっていた。
「問題はまだ山積みだね。ここから脱出して、ギルドに見つからないようハラプに戻らなくちゃ。密航船ってどれぐらいお金が必要なのかな」
「あれを売ればなんとかなる」
「本当だね。きっとお釣りだけでしばらくは食べていけるよ。故郷に帰ったら、皆でレストランでもやろうよ」
エリシュカはそれが叶わないだろうと知っていた。
自分を慰めようと慣れぬ軽口を言って微笑むリーダーは、事が済めば必ず自首するだろうとわかっていた。
誰よりも責任感の強いダミリルは、そうやって冒険者としての未来をふいにした責任を取るつもりなのだ。
「……そうね。帰ったら職業訓練所に通わないと」
しかし今は、そんな夢にケチをつけはしなかった。
現実は後でいくらでもやってくる。
しかし今だけは、この勝利に浸ってもいいはずだと思った。
「エリック! あまり乱暴に扱って、花をダメにしないでよ!」
ようやく笑みを見せたエリシュカに安心し、ダミリルはエリックに向かって叫ぶ。
「バカやろっ、こんだけあんだぜ? 一本二本ダメにしたって問題ねえよ!」
勝利に浮かれるエリックはふざけて胡蝶蘭を振り回す。
ダミリルとエリシュカは顔を見合わせ、子供の頃のようにはしゃぐエリックに苦笑した。
「いいわけないでしょ。早く花を採取袋に入れて帰ろう」
「んだよ真面目ちゃんだな。そんなに慌てたって花は逃げないっての」
文句を言いながらもエリックはふざけるのを止め、必要以上の胡蝶蘭を持ってダミリル達の下へ戻ろうとした。
「――――――――――え?」
そんな間の抜けた声を出しながら、エリックは自分の胸を見下ろした。
そこには自身の血で濡れた錆だらけの剣が、胸を貫貴月光に照らされていた。
「――なんだ、こ、れ……」
エリックは血を吐き出しながら、手に持った胡蝶蘭を取り落とす。
ダミリルもエリシュカも、エリックの身になにが起こったのか理解できなかった。
ただ呆然と、死にゆく仲間とその背後に立つ黒い影を見つめていた。
「ご苦労。しかしその花は置いていって貰う。ついでに、貴様らの命もいただくとしよう」
喉の奥から泥を吐くような、聞くだけで不愉快になるようなガラガラとした声だった。
声の主はエリックから剣を抜くと、まるでボロ雑巾のようにその身体をうち捨てる。
地面に顔から叩きつけられたエリックは、もうなにも声を発することなく死んでいた。
「我の代わりに蛇を仕留めてくれたこと、礼を言うぞ人間。代わりに安らかな死をくれてやる」
黒い影はまるで審判者のような口ぶりで、ダミリル達に死を宣告した。
腐り爛れ果て、骨が剥き出しになった頬がゆがみ、それが笑っているのだとダミリルは気づいた。
いつの間にか、静けさを取り戻していたオルキュドラの沼は、押し寄せる波のような音に包まれていた。
それはまるで、骨と骨とを打ち鳴らしたような、カタカタカタと壊れた人形のような音だった。