1-16 乙女の加護と死
「あまりアランをいじめないでやってくれ」
ヴィンセントはタレイアの隣に腰掛け、ズボンを膝上まで捲ってから水に足を入れた。
「十分優しくしてあげてるでしょ? ヴィンセントの同胞だからなにもしてないけど、そうでなければ呪いをかけているのだもの」
「ケリュニスのところに送っておいてか?」
「この聖域では争いは許さない。それぐらいあの子達もわかってるわ。むしろ感謝を捧げてほしいものね。許される機会を与えてやったのだから」
退屈な話題とばかりに水につけた足を遊ばせるタレイア。
これ以上は余計な雑談だと判断し、ヴィンセントはすぐさま本題に入る。
「いま、この森でなにが起きてる? 獣や魔物がタレイアの加護を求めに来てるんだ。下層から何か上がってきたのか?」
「相変わらず不思議な言い方をするのね。森なのに下だとか上だとか。人間の言葉は意味が多くて混乱する」
「奥で何か異変でもあったか?」
「詳しくはわからない。私の聖域に逃げてくるのは私よりも若い木々ばかりだもの。深い森の奥の方々と交わるのは滅多にないし」
タレイアの聖域はリベルタムの中層から少し深い場所にある。
彼女の言う若木とは、それより外縁部に近い位置に生息している精霊のことだ。
「でも、奥の方で大きな動きがあったのは間違いないよ。母様からはなにも聞こえないけど、姉様達からは怒りや戸惑いが伝わってくるから」
「怒りや戸惑い? 魔物が原因か?」
「そうね。角の子達のように逃げてきた子達は多いわ。中には追い出された子もいるみたい。その子達が悪さしてるって彼女達も言ってる」
タレイアに水を向けられたドリュアス達が頷く。
まるで悲しみを表しているような風の音がヴィンセントには聞こえてきた。
「昨日の汚らわしい骨達もそうよ。あれらは闇の霞しか食べない。追い出されて飢えていたのね。不躾に過ぎたから死んでもらったけど」
「スカルウルフもか……」
これは間違いなく大きな収穫だった。
森の異変については、昨夜にウィリアムが述べた考察とヴィンセントは同意見だった。
ただ問題なのは、森の変動と魔物の動向とで対処法がまるで変わってくることだ。
地形が大きく変わる変動ならば、ここでタレイアに状況を聞き出せば解決である。変化した地図を頭にいれるだけでいい。しかし魔物が原因ならば、警戒すべきことはぐんと増えてしまう。持ってきた魔術具だけで対処できない魔物が浮上してきては、これ以上の潜行は危険極まりないものになってしまう。
「何か大きな縄張り争いがあったのか? 主導権争いとか。タレイア達のお母様はなにも言ってないらしいが」
「そうだと思う。戯れも度が過ぎれば母様が叱るから、そこまで酷い事にはなってない。でも花の蛇の沼に行くのは注意したほうがいいわ。あの辺りは騒ぎの場所に近いから」
タレイアは悪戯っぽく笑って言った。
ヴィンセントはまた心の中を読まれたと顔を顰める。
「読むなって言ったろ」
「だってずっとその匂いがするのだもの。嗅ぐなと言う方が無理な話よ」
そしてタレイアは泉の中へ身体を滑り込ませる。
水面には纏う薄絹のような衣が拡がり、花飾りを付けたタレイアがその中心にいると、まるで水面に咲く一輪の華のようだった。
「気をつけるべきはそれだけか? 場所が変わったなんてことは?」
「いいえ、沼の場所は変わってない。花の蛇達もね。でもその辺りは特に霞の匂いが強くなってる。それがどうしてかはわからないけれど」
「その近くに人間はいるか?」
「人の子? ちょっと待ってね……」
タレイアが手を伸ばすと、彼女が宿る樫の木から枝だがするすると降りてくる。
その枝を左手で掴むと、タレイアは意識を集中するように目を閉じた。
「……沼には誰もいないわ。でもそこに向かってる足音は感じる」
「何人分だ? 四人か?」
「お願いが多いわね。いち――に――三人? この忙しない音は蜘蛛の娘ね。相変わらず不細工な音と匂い。もう少し慎みを持てば、織物だけは認めてあげてもいいのに」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らすタレイア。
しかしヴィンセントはダミリル達の置かれている状況をすぐに理解した。
「三人は間違いないのか?」
「走ってるからよくわからない。人の子の足音は下品で感じにくいの。あまり長く感じていたい音じゃない」
不機嫌そうにそう言うと、タレイアは枝だから手を離した。
枝は元ある場所へと戻り、タレイアはまるで汚い者にでも触れたかのように左手を水の中で扇いだ。
「アイツらはアラクネに追われてるのか」
「足音の感じからだとね。穢れの臭いがしたから、ヴィンセントの言う四人の内の誰かは糸に絡まったんじゃない? 残りも時間の問題でしょうね」
至極どうでもいいようにタレイアは答える。
人が死にかけているのに冷淡な態度だが、ヴィンセントは不謹慎と怒りを覚えることはなかった。
これが木の精霊と呼ばれるハマドリュアスという魔物なのである。
どれだけ人の姿や言葉を介そうと、彼女達は決して人類種ではない。人の理とは別の理で生きているのが彼女達だ。ヴィンセントはたまたまタレイアに覚えめでたく名前を呼ばれるようになったが、それはハマドリュアスの理の中で認識されたということでしかない。
ヴィンセントがスカルウルフとスカルドッグの違いに興味がないのと同じように、タレイアも人類種の違いには関心がなかった。
「わかった。助かったよタレイア」
ヴィンセントは水から足を引き出し立ちあがる。
「もう行くの? もう少し遊びましょうよ」
「いや、悪いが時間がない。騒がしくして悪かった。今度またお礼の捧げ物を持ってくる。どっちに行けばいい?」
ヴィンセントが真剣な目つきで尋ねる。
タレイアは蕩けるような笑みを一瞬浮かべてから、退屈そうにため息をついた。
「元来た道を引き返せば近いところで出られるわ。槌の子と枝の子もその辺りにいるから」
「助かる。またなタレイア」
「ヴィンセント」
踵を返そうとしてタレイアに呼び止められる。
タレイアは泉の中から右手を伸ばしていた。
「婚姻の申し出じゃないわ、加護をあげるだけ。さあ――」
試すことはあっても、嘘をつくようなことをしないとヴィンセントは知っている。聖域を持ち、森において大きな力を持つハマドリュアスの加護ともなれば、どんな魔術具よりも効果があった。
今回はありがたく好意を受け取ることにし、ヴィンセントは手を伸ばした。
〈ヴィンセントに祝福あれ。樫の木の娘が、小さな人の子に加護を与える。鳥の導きと母なる大樹の癒やしがありますように〉
ヴィンセントは風に乗ったその声に包まれたような気がした。
水面は風に揺れ、木々は送り出すように枝葉を鳴らす。
「感謝します。樫の木のおと――ッ!?」
礼を述べようとすると、タレイアが泉の中から飛び出しヴィンセントの首に手を回して抱きついた。
水に濡れた柔らかな肢体に人の熱はなく、タレイアは喉と舌を使い、鈴を転がすように甘く耳元で囁いた。
「ひどいヴィンセント。でも、そんなあなたも好きよ。枝がどちらに倒れるかわからないけれど、道が決まるといいわね。ウィリアムによろしく――」
◆
ダミリル達は限界に来ていた。
冒険者として鍛え上げた彼らだが、それも無限とはほど遠い。慣れぬ地と底のような闇、そして仲間の死は絡みつくように足を引っ張り、体力の消耗をより激しくさせていた。
先頭を走るエリシュカは夜の森では禁忌とされるライトを点けていた。
光は夜の闇に紛れる魔物や獣を刺激してしまう。安全を保ちたいならば息をひそめ、じっとしているのが一番である。
しかし、そうは言ってられない。
ニューマン族は夜目が利かず、森に生きるに適した進化をしていない。
アラクネという魔物を相手にするには条件があまりにも厳しすぎた。
「――アアッ!!」
脱落したのはエリックだった。
限界の来た脚は絡まるようにもつれ、走る勢いそのまま転がってしまう。命の危機が目の前に迫り来ているというのに、鉛のように重くなった身体は脳の指令をまともに受け付けなかった。
「エリック――!!」
すぐさま駆けより背中にかばうダミリルだったが、状態は似たようなものだった。肩で大きく息をし、それでも酸欠で視界がチカチカしている。
気力を振り絞って片手半剣を構えはしたが、まともに持てず怯えるように震えていた。
「ハアッ――ハアッ――ハアッ――!!」
極度の疲労から来る吐き気を懸命に飲み込み、急に静かになった闇の奥を睨む。
蜘蛛の魔物は決して諦めたわけではない。
ただ弱った獲物を静かに観察し、確実に仕留める機会を覗っているのだ。追い詰められれば鼠も猫を噛む。魔物の中では高い知性を持つアラクネは、ダミリルが持つ魔装具の危険性を察知していた。
「ダミリル、エリック、無事ッ!?」
エリシュカが仲間の危機にすぐに戻ってくる。
弓を構え矢をつがえると、いつでも発射できる体勢でダミリルの隣に立った。
「もういい、俺のことは置いていけ」
絞り出すようにエリックが言った。
「駄目だ。これ以上仲間を見捨ててはいけない!」
「全員殺されるぞ!」
ダミリルはもう返事をしなかった。
残された気力と体力はすべてアラクネに注がなければならなかった。
必死に辺りを警戒し、使える魔術具と魔装具の算段を巡らせる。
「僕がヴィガルス霊薬を使う。エリシュカは隙を見つけて仕留めてくれ」
「それはオルキュドラ用のはずだ! ここで使うわけにはいかないし、アラクネの毒が――」
「ここで死んだら同じだ! 神経興奮剤も一緒に使う。絶対に生き残るんだ!」
ダミリルはそう叫び、腰につけたポーション用の鞄に手を突っ込む。
取り出したのはどう見てもまともではなさそうな、闇の中でも淡いピンク色に光る液体が入った試験管。
一気に飲み干そうと蓋を開けたその時、闇の中から銀色に輝く糸が飛んでくる。
不意を突かれたダミリルは避けることが叶わず、糸の勢いに吹き飛ばされるように木に背中を打ち付けた。
「ガハッ!」
衝撃に肺の空気が飛び出す。
すぐに立ちあがろうとしたが、糸はダミリルを木に縛り付けるよう絡みついており、一本一本が針金のように固く破れない。
「ダミリル!」
「振り返るな! 前だ――ッ!」
その瞬間は時間の流れが遅くなったかのようだった。
驚きと心配に思わず振り返ったエリシュカ。
その後ろから迫る、八つの紅い瞳と鋏のような牙。
動かぬ手脚、死にゆく仲間と恋人。
恐怖と絶望。
〈まだ死ぬことは許されない〉
その言葉をダミリルは聞き取る事ができなかった。
一瞬、木々が揺れたかと思うと、どこからともなく太い木の根がアラクネの巨大な身体に絡みついた。
「キーーーーーーーー!!」
鉄を引っ掻いたような怒声をアラクネが発する。
それは蜘蛛の顔から響いており、頭部にある女性は首に巻き付いた根から逃れようと懸命に藻掻いていた。
「な、なんだ!?」
エリックがわけがわからないと叫ぶ。
エリシュカも戸惑い、アラクネを矢で射貫いてもよいのか判断につかないようだった。
ダミリルも同じで、目の前で発生した超常的な現象に息を呑んで見つめることしかできない。
「なぜ邪魔をするか乙女よ!」
ついに頭部の女性が、伸びてくる根の先に向かって怒鳴る。
ダミリル達には返事は聞こえなかったが、何かを感じたらしいアラクネはさらに激昂した。
「巫山戯るな! そのような理由で我の邪魔をするなど!」
人類種よりも遙かに強靱な膂力で抗おうとするアラクネだが、木の根を振りほどくことはできないでいた。
頭部の女性の顔は憤怒に燃え、蜘蛛の瞳は感情を表すかのように爛々と紅く光る。
しかし膠着状態は長くは続かなかった。
徐々に引き摺られていたアラクネは何本もある脚で懸命に堪えていたが、さらに伸びてきた根に捕まってしまう。
「キィーーーーーーーー!!」
女性か蜘蛛かわからない叫び声を上げながら、アラクネは木の根によって何処へと連れ去られていく。
パキパキと枝だが折れる音はダミリル達から遠ざかっていき、それも次第に聞こえなくなった。
「なんだったんだ、いったい……」
静けさを取り戻した森の中で、エリックが呆然と呟く。
冒険者としてダンジョンに潜ってきた『銀の風』だったが、これほどまで異常な現象は見たことがなかった。
まるで神話や伝承のような出来事は、理解の範疇をとっくに超えていた。
「――ダミリル!」
最初に復活したのはエリシュカだった。
ナイフを取り出しダミリルに絡みついた糸をなんとか切っていく。
「……ありがとう、エリシュカ」
解放されたダミエルが立ちあがりながら礼を言う。
さすった腕には鈍い痛みが拡がり、服の上からでも酷い打ち身と内出血を起こしているのがわかった。
「大丈夫?」
心配そうにエリシュカが尋ねる。
「うん、なんとか。今のはいったい何だったんだろう……」
その疑問に答えられる者はこの場にはいなかった。
「カーラ!」
今度はエリックが叫ぶと、ダミリルとエリシュカが声のした方に顔を向ける。
僅かに差し込む月光の下に、カーラを包んだ糸の繭が転がっていた。
三人は急いで繭の下へ駆けより、中のカーラを傷つけないよう慎重に糸を切り開いていく。
「……カーラ」
カーラの死体は、その死の瞬間のまま時が止まっていた。
痛みと恐怖がごちゃ混ぜになったような目は見開かれ、僅かに目の端に涙の跡がある。
口の端には内側より零れた血の泡が残っており、アラクネの神経毒に犯された彼女がどのような最後を迎える事になったのかを、鮮明すぎるほどに伝えていた。
「すまない……すまないカーラ……」
逃げていた悲しみが一気に押し寄せてくる。
ダミリル達にカーラを助けることはできなかった。
しかしどんな理由があれ、かけがえのない仲間を失った悲しみは言葉に出来るものではない。それが幼少期より共に過ごした幼馴染みの死であるならば、その喪失感は尋常ではなかった。
「弔ってあげましょう」
提案したのはエリシュカだった。
「置いていくのか!?」
驚愕し食ってかかろうとしたエリックだったが、すぐに自分の過ちに気がつく。
エリシュカの頬には幾重にも涙が流れていた。
「……そうだね。連れて行くことは出来ない。けど、このままにするわけにもいかない。僕達に出来ることは、それぐらいしかないんだ」
「まだ進むのか? こんな目に遭ってるのに」
「なら! カーラの死を無駄にするつもりなのか!? 僕達は誓ったはずだ! どんな困難も乗り越えて彼女を助けるって! それも諦めるのか!?」
ダミエルの怒声が森に吸い込まれていった。
エリックは憤怒と悲哀でどうにかなりそうになっている親友を見つめ、自分の至らなさにうな垂れる。
「……早くしよう。他の魔物が寄ってくるかもしれない」
「……わかった」
「……ええ」
三人は黙ってカーラの弔いの準備を始める。
幸か不幸か、弔いが終わるまで三人を邪魔をする存在はいなかった。