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1-15 聖域の主


 進めば進むほど重くなる足をなんとか引き摺って歩くと、ヴィンセントはおもむろに空気が澄みだしたことに気がついた。


 慌てて立ち止まると、アランとエルザイルもその隣に並び立つ。


 エルザイルは宙に目をこらし、森の気配を読む。


「やはり森に何かあったようだ。多くのドリュアス達が集まっている。これは彼女との対話はまぬがれない」


「マジかよ最悪だ……」


 ケリュニスを討伐してからこっち、ヴィンセントは数え切れないほどため息をついていた。今も表情はどんよりと陰り、両肩は落ち込み背中は丸まっている。


「今日は全員で入った方がいい。こちらにその気がなくとも、隠し事をしていると思われる」


「えー、てことは僕もいくのお?」


「そうだ。それに聖域内にいる方が安全だ。これだけのドリュアスが集まっているなら、他の攻撃的な魔物も近寄っては来られないだろう」


 ゼアは靴と靴下を脱ぎ、鞄の中にそれらをしまう。そうして裸足で大地をゆっくりと踏みしめ、まるで一体化するように立つ。


 ヴィンセントとアランも同じように裸足となる。


「消臭剤かけとくか?」


「いや、ケリュニスの角に付着している。どのみち同じだ」


 ヴィンセント達は同じように足下に目をやり、厳かに並び立つと、中心に立つヴィンセントが代表して挨拶を始めた。


 森の暗がりに向かって言葉を放つ。


「偉大なる森の精霊、愛しき樫のニンフよ、祝福あれ。私達は敬意を知る者、畏れを知る者である」


 静まりかえる森の中を祈りの言葉が流れていく。


 ヴィンセントは決して声を張り上げぬように、しかし一言一言をハッキリと口にして続ける。


「どうか私達の言葉に耳を傾けたまえ。もしあなたが望のなら、私達にその姿をみせ――」


 口上を全て言い切る前に変化は現れる。


 ヴィンセント達が立っていた場所は、特にこれといって特徴のない空間だった。しかし木々がざわめきだし、樫の木の枝がゆっくりと目の前に降りてくると、途端に聖域の入り口と姿を変えた。


 ヴィンセントの顔が引き攣る。


「……お怒りのご様子です」


 無駄に丁寧な言葉だったのは、汚い世俗の言葉は嫌われるからだった。


「だが招いてはくれている。私達が原因ではない」


「それがなお怖いよ。どんなお願いがされるか……」


 ヴィンセントがおののいていると、まるで急かすように枝が上下に揺れる。


 ヴィンセントは慌てながらも、しっかり足音を立てず、慎重かつ速やかに前へと進んだ。


「感謝します、樫の木の娘。これより参ります」


 恭しく頭を垂れながら、ヴィンセントが先陣を切って聖域へと入っていく。アランとエルザイルは順序を乱さぬよう等間隔でその後に続いた。


 すると入り口にはまるで閉ざすように月桂樹の枝が生え、みるみる内に成長し一本の木となった。


 残ったヴィンセント達の足跡には、その型が残るように苔が覆い尽くしていた。


「……これは、駄目かも」


 ヴィンセントは消え入るような声で呟いた。


 入り口が閉ざされるまで同じ景色が続いていたはずなのに、一歩踏み入れると全てが変わっていた。


 松やアカシアの木が密集していた森は、ポプラやナラ、月桂樹など、エイレティアでは古来よりドリュアスが宿るとされる森と変わる。空気はまるで混じりけのない、鼻にすっと通るような冷たく静謐な匂いに。夜の帳に落ちかけていた視界は、まるで蜂蜜を溶かしたかのような光で開けていた。


 まるで神話の、神の国のような荘厳な世界である。


 しかしヴィンセントの顔色はまるで優れない。


「……ここに匿われていたのか」


 エルザイルがそうぽつりと零したのは、木々の影から獣達が様子を覗っていたからだ。


 リベルタム大森林は魔素の濃い大ダンジョンだが、あくまで自然環境の一つである。魔素に適応進化した魔物だけではなく、魔素器官の持たない獣も多く生息する。狐や鹿、猪、アナグマやハリネズミがそれぞれ群れとなってヴィンセント達を観察し、木の上にはフクロウやノスリ達がじっと見下ろしていた。


 極力目を合わせぬようにしながら、ヴィンセント達は聖域にできた一本道を進んでいく。


 ようやく開けた場所に出ると、そこはまさしく聖域に相応しい神秘的な空間が拡がっていた。


 一本の樫の木を中心に、ポプラやナラ、月桂樹が周囲を囲んでいる。まるでそれらは敬うように距離を開けて並んでおり、そびえ立つ樫の木が聖域の主だと一目でわかるようだった。


 そして樫の木のそばには小さな泉が湧いており、そのほとりに佇んでいるのは美しい半裸の乙女達。


 だが彼女達が人間ではないのも一目でわかった。


 肌の色こそ人間のような白桃のそれだが、髪はまるで木の皮のように焦げ茶色で、ところどころ緑がかっている。またそれぞれの好みがあるのか、乙女達はその髪に木の葉や苔、花などを編み込んでいた。


 美しい肢体に纏うのは人間の作る衣服ではなく、まるで蜘蛛の糸で織られたかのような薄い布、もしくは蔓や花びらなどである。見られることに羞恥はないのか、それらは隠すというより髪の葉や花と同じで象徴的な役割を担っているようだった。


 彼女達こそがドリュアスという木に宿る魔物である。


 見目美しい乙女の姿をかたどる精霊であり、森にあだなす存在に罰を与える自然の化身とも言える存在だ。


〈捧げ物を〉


 囁き声は耳元で聞こえた。


「アラン、蜂蜜を泉のそばに」


 散々嫌がったアランだが、この聖域内で主とも言える存在に抗うほど愚かではなかった。


 しかし背嚢に手を伸ばすと、遮るように風が吹きそれに乗って声が届く。


〈小さな槌の子はそこに、お前は臭い。ヴィンセント、あなたが持ってきなさい〉


 名指しの命令に固まるヴィンセント。


 しかし呆けていては主の言葉を無視するのと同義である。ヴィンセントは立ち上がり、アランから蜂蜜の入った瓶を受け取ると、ゆっくりとドリュアス達の集うほとりに歩み寄る。


 そのまま乙女達の前で膝をつくと、瓶をしずしずと土の上に置いた。


〈封を解いて〉


 言われるがまま従う。


〈品のない匂い。まあいいわ、こっちに持ってきて〉


 ヴィンセントは瓶を両手で持ち上げると、泉を迂回して樫の木の下へと向かう。ドリュアス達はそれをじっと見つめ、臭いと言われたアランは仏頂面だった。


 幹のそばまで来ると、洞に向かって瓶を捧げる。


「どうぞ樫の木の娘。あなたへの捧げ物です」


〈嘘ばっかり。どうせ私に聞きたいことができて槌の子から奪ったのでしょう? それ、食べさしじゃない〉


 ヴィンセントは目を見開き、半周せんばかりに首を回す。


 睨まれたアランは悪びれる様子もなく肩をすくめた。


〈私に下げ渡しなんていい度胸ねヴィンセント〉


「そのようなつもりはありませんでした。申し訳ありません美しい樫の木の乙女。私の教育不足でございます」


 まるで子供の悪戯を謝罪する親のような言い方にアランが立ち上がりかけたが、エルザイルに引っ叩かれた。


〈舐めて〉


「……は? あ、いえ、今なんと?」


〈舐めてと言ったの。指や葉を使わず、槌の子の指の分だけ舌を入れるの〉


 絶望的な表情で洞を見つめるヴィンセント。


 声はそれ以上流れず、従うまでどのような懇願も聞くつもりがないようだった。


 ヴィンセントはもう一度、恨みの籠もった目つきでアランを睨む。アランもアランでこうなるとは思わなかったのか、悲痛な顔を人形のように横に振り続けていた。


〈早くしなさい。二度は言わない〉


 僅かに怒気が宿る声に、ヴィンセントは意を決する。


 両目をぎゅっと瞑り、アランが差し込んだであろう僅かに上に伸びたその中心へ、舌を差し込む。


 芳醇な甘さの中に柑橘系の香りがした。


 アランの好みはオレンジの花から採れる蜂蜜だったようだ。


 むろんヴィンセントはその味を堪能できる精神状態ではまったくない。


 アランは吐く素振りをして、再びエルザイルに引っ叩かれていた。


〈よろしい〉


 許可を得てヴィンセントは舌を引き抜く。


 直ちに唾と一緒に口の中の何もかもを吐き出したかったが、聖域で唾を吐くなどできようものがなかった。


 ヴィンセントは心の中で、聖域を出た後にアランを張っ倒すと誓った。


〈ふふ、なんて顔をしているのかしら。その可愛らしい顔に免じて、今回の無作法は許してあげるわ〉


「……感謝いたします。恐るべき樫の木の乙女」


 傍若無人な物言いだったが、ヴィンセントは恭しく礼を言った。


〈ところで一つ聞きたいのだけれど〉


「なんなりと」


「いったい誰にその蜂蜜を捧げているの? そこには誰もいないのに」


 その声は風に乗った宙に響くようなものではなく、本当にそばから発せられているようだった。


 ヴィンセントが驚き右を向くと、目の前にとてもこの世のものとは思えない妙齢の少女が膝を抱えて座っていた。


「うぉッ――」


 ヴィンセントが猫のように飛び上がって尻餅を打つ。


 その様子を少女はクスクス笑いながら見ていた。


「感心ね。そんな無様を晒しても零さないんだもの」


 首を傾げて少女は言った。


 ヴィンセントはもんどりを打ったように背中を地面に付けていたが、蜂蜜の入った瓶だけは掲げたままだった。


「ヴィンセントの恥ずかしい姿は見ていて飽きないけど、その様は話をする態度ではないわね。さ、起きてちょうだい」


 少女は立ち上がりヴィンセントに右手を差し出す。


 しかしヴィンセントはその手をじっと見つめて、決して手に取ろうとはしなかった。


「どうしたのヴィンセント。私が手を差し出しているのよ? 早く取りなさいな」


「……右手でなければなりませんか?」


「私が出しているのは右手ね」


「……であれば、取ることはできません。しかしお心遣いは感謝します。美しい樫の木の乙女」


 ヴィンセントはそう言って手を使わずに立ちあがった。


 好意を無碍にされた少女だったが、特に気分を害した様子はなく、少し残念そうに唇を尖らせるだけだった。


「つまらないわね」


「このような不意打ちで婚姻の誓いを結ばされては困ります」


「あら、なら正式に申し出ればヴィンセントは受けいれてくれるの?」


「……私は人の世に未練がありますので」


「またその未練? いい加減に諦めたらいいのに」


「心を読むのはやめていただけますか?」


「そんなこと言われても匂うのだもの。ハマドリュアスには無理な相談だわ」


 つんとそっぽを向く少女はもちろん人類種ではない。


 彼女はドリュアスの中でも、ハマドリュアスと呼ばれる特別な魔物だ。


 森全体の木々の精霊であるドリュアスとは違い、ハマドリュアスは特定の木に宿る。彼女の場合は聖域の中心である樫の木であり、この木の命は彼女の命そのものだった。精霊としての側面が強いドリュアスとは違い、ハマドリュアスには人間のような自我や意識が存在している。


「樫の木の乙女、今日はお伺いすることがありお訪ねしました。どうか私の言葉をお聞きください」


「タレイア」


 まるで突き付けるような言い方だった。


「……しかしですね」


「タレイアじゃないとイヤ。この姿でいるときはそう呼ぶって昨日約束したはずよ。それに……誰だっけ、ヴィンセントが気にかけてる人の娘。――ソフィね? その娘にするような口調を使うとも言った」


「今回は正式な訪問ですし……」


「そんな取り決めはしてない。……私との約束を反故にするつもり?」


 少女がヴィンセントを睨むと、突如として樫の木がざわめいた。


 ほとりで戯れていたドリュアス達に緊張が走り、周囲の木々にいた獣達が逃げ出していく。


 聖域の空気が一瞬にして張り詰める。


 ヴィンセントは慌てて口調を変えた。


「悪かった。そんなつもりはなかったんだ。ただ入り口で宣誓したろ? 敬意と畏れを知ってるって。破る方が良くないと思ったんだ」


 傍から見れば、拗ねた妹と取りなす兄のようにしか見えない。


 しかしヴィンセントの狼狽は本物である。


 ハマドリュアスが本気で怒れば、次の瞬間には樫の木の根に取り込まれ、その養分に変えられてもおかしくなかった。


「謝るよ、悪かったゴメンな?」


「……本当に悪いと思ってる?」


「思ってる。もう二度と約束は破らない」


「じゃあちゃんと名前で呼んで」


 ヴィンセントはぐっと奥歯をかみしめ、渋々そのナア前を口にする。


「――タレイア」


「もう一回」


「タレイア」


「もう一回。もっと呼びかける感じで」


「タレイアっ」


 こうもヴィンセントが名前を呼ぶのを躊躇ったのは、ハマドリュアスの名前を呼ぶことはその存在と近しくなることを表しているからだ。


 人の名を呼ぶよりも、精霊種に分類される魔物の名前を口にすることには大きな意味があった。


 タレイアはようやく花のような笑みを見せた。


「よしっ、満足した」


「……勘弁してくれ」


「あと結婚して?」


「それは約束してない」


「つまんないの」


 満足したのは本当のようで、タレイアはそれ以上の求婚はしなかった。


 ふわふわと舞う花のような足取りで泉に向かい、ほとりに腰掛けて透き通る水の中に素足を入れる。


「じゃ、話を聞いてあげる」


 そして隣に座るよう地を叩いた。


「……俺も入っていいのか?」


「名前を呼んでくれたしね。昨日はあの汚らわしい骨を連れて行ってくれたし、そのお礼。――あ、そうだ」


 ヴィンセントに向けていた笑みを消し、樹齢千年を超える樫の木の精霊らしい峻厳な顔つきに変わった。


〈小さな槌の子、枝の子と共にその背にある哀れな角を親の元に返せ。それでお前の不敬は見逃してやる。ヴィンセントの用が終わるまで、彼らの慟哭を癒やすがいい〉


 タレイアが指を弾く仕草をすると、アランとエルザイルは広場から追い出され、気がつくと今にも襲いかかってきそうなケリュニスの群れに囲まれていた。


 エルザイルはもう一度、アランの頭を引っ叩いた。



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