第7話 古代語を覚えましょう
あの後、確かにものすごい空腹感に襲われて、私はルージュさんの用意してくれたおにぎりを、ペロッとたいらげた。
具の入っていない、塩むすびだったけど、本当に美味しかった。
元の世界から連れてこられてそんなに日は経っていないから、懐かしいとは、そこまで思わなかった。
でもまぁ、空腹は最大のスパイスとも言うし、それになんだか塩むすびと言うのが、おばあちゃんを思い出させた。
そういえば、独り暮らしを始めたばかりの頃も、あまりお金に余裕がなくて、よく塩むすびを作って食べていた。
私にとって塩むすびは、ある種パワーフードだ。
午後からは、古代語を教えてもらうことになった。
また師匠が教えてくれるのかと思っていたのに、師匠は、ルージュさんに私の講師を命じると、どこかへ行ってしまった。
ルージュさんが言うには、師匠は魔導具とか、薬なんかを頼まれて作っていることも多いらしい。
つまり、私ばかりに手をかけてもいられないのだ。
それでもなんだか寂しい気がしてしまうのは、なんでだろう。
ルージュさんは、私の部屋に何冊もの本とノートみたいなものを運んでくると、まずは古代文字の発音と書き取りから教えてくれた。
古代文字は、発音自体は難しくないのだけれど、書くのが思った以上に難しい。
ちゃんと書き順があって、ルージュさんがゆっくりとお手本を書いてくれるのだけど、私が書くと、何かの模様みたいになってしまう。
たった一文字を何度も何度も練習して、書けるようになったら、また次の文字。
ある程度書けるようになったら、それぞれの文字の意味を教えてもらった。
漢字より圧倒的に文字数は少ないものの、漢字と同じで、文字そのものに意味があって、それを組み合わせて文章を作るのだという。
ただ、何しろ文字数が少ないので、一文字にいくつかの意味があって、それをドイツ語で言うならウムラウトみたいなものを文字の上に付けて、使い分けるのだとか。
もちろん、発音の仕方も変わってくる。
ルージュさんが短い文章を作って、それを、意味を考えながら発音を覚える。
中国語だと、1音の発声自体が何種類もあって、語尾を上げたり下げたり、そうやって意味を使い分けてると聞いたことがある。
それに比べたら、多少は楽……かもしれない。
ルージュさんは、なかなかのスパルタで、教え方にまったく容赦がないので、勉強からは離れていた私は、ついていくだけで必死だ。
それでも、ミニテストをしてなんとなく合格点を貰えた。
これから、毎晩復習しようと、固く決意した。
そうしないと、たぶん私の頭からはスルスルと覚えたことが抜けていく気がする。
日記を古代語で書くのもいいかもしれない。
ルージュさんにそう言ったら、ちょうど良さそうな手帳をくれた。
それから、持ってきた本の中から絵本を取り出して、それを音読するように言われた。
ルージュさんもアレコレ家事をやらなくてはいけないので、私の勉強にいつまでも付き合ってはいられないのだ。
「アミュに読んであげるといいかと思います。アミュも、まだ古代語は覚えていませんし、この子の精神年齢は幼児レベルなので」
それを聞いて、私の膝の上に乗っていたアミュが、長い耳をひくひくさせる。
「ご本、読んでくれるですか?」
「うん。私のお勉強につきあってくれる?」
「あい!」
アミュの目がキラキラと輝く。
絵本を開いてみると、古代語で書かれた文章の下に、訳した文章が書かれていた。
「こんな絵本、あるんですね」
私が言うと、ルージュさんはニコニコと微笑んだ。
「主様が、ルリ様の勉強用にと、用意したものです」
「師匠が」
ああ、やっぱり師匠は優しい。
ツンデレさんだし、口調も荒っぽいけど、そこかしこに師匠の優しさが落ちている。
「おとぎ話ですが、この国の歴史なども学べるのでちょうどいい、と」
ルージュさんが何冊かの絵本を置いて出ていったので、私は早速、膝の上のアミュにも絵が見えるようにして、ゆっくりと絵本を読み始めた。
アミュは、本当に小さい子どもと同じで、何度も同じ絵本を読みたがった。
私の勉強でもあるので、何度も何度も、それこそ文章自体を覚えてしまうほどに、繰り返し読み聞かせた。
「お姫様が桃を食べると、」
「もも!これ、もも!」
絵本の挿し絵の桃を、フワフワの手でアミュが叩く。
私は、「桃」の意味を持つ文字を拾って頭に叩き込む。
「おしまい。めでたしめでたし」
何十回目に同じ絵本を読み終わったとき、ドアがトントンとノックされた。
「はぁい。どうぞー」
「よぉ」
「あ、師匠」
師匠は私とアミュの目の前にある絵本を見て、少し表情を和らげた。
「だいぶ覚えたって聞いた。頑張ったな」
「えへへー、ありがとうございます」
『俺がもっと……がうまかったら………んだが』
唐突に、師匠が古代語で言った。
全部は聞き取れない。
「師匠。もう一回お願いします」
「バカタレ。今のは俺も悪かったが、古代語で話すと言霊が宿りやすい。あんま、日常使いすんなよ」
そういうものなのか。
言霊とは、言葉そのものに力が宿るとか、なんかそんな意味だった気がする。
「ほれ。ルージュが夕飯が出来たって言ってたぞ。とっとと食いに行くぞ」
「あ、はい」
どうやら夕食も、師匠が一緒に食べてくれるらしい。
「明日は魔石に魔力を流す練習をするからな。それができるようになれば、お前も料理を作れるようになる。どんなもん食わせてもらえるんだか、楽しみにしてる」
ニシシッと笑うと、師匠はさっさと食堂に入って、テーブルについた。
その目の前に、私も座る。
今夜のメインは、見た目はビーフシチューだ。
本当に牛肉が使われているのかはわからないけれど。
アミュは、私の隣で何かの花びらを食べている。
ルージュさんの話によれば、使い魔は何も食べないか、食べても植物だけらしい。
精霊みたいだ。
魔力を少し混ぜてあげると、味が格段に良くなるらしい。
師匠が、アミュのお皿に少し魔力を流していた。
とは言っても、私にはキラキラした粉が入ったようにしか見えないのだけど。
「あるじ様、ありがとうなのです」
喜んでいるアミュを見たあと、私もいただきますをして食べ始めた。
その日の夜は、こちら側に来て初めての日記を、頑張って古代語で書いた。
長い文章はまだ難しいので、箇条書きみたいになってしまったけれど。
部屋付きのお風呂に入って、暖炉の前で髪の毛を乾かしていたら、また師匠が来た。
「風邪ひくぞ。ほら、乾かしてやるからこっち来い」
言われるがままに、師匠の前に座ると、師匠は魔法で温風を出して髪の毛を乾かしてくれた。
ドライヤーみたいで便利だ。
私も使えるようになりたい。
「………お前の髪は、サラサラだな」
「そうですか?師匠の髪もサラサラですけど」
「全然違う。ずっと触っていたくなる」
なんだろう。
なんか、空気が甘い。
顔が熱くなる。
「終わったぞ。今日も早めに寝ろよ」
「あい」
昨日のように師匠にベッドに寝かしつけられて、私はアミュを片手で抱えながら、目を閉じた。