とあるカップルの物語
ホワイトボードいっぱいに、英文が書かれている。
「haveの後には過去分詞を……」
はち切れそうな程、太った英語担当の先生が、現在完了形について説明している。
――先生、太りすぎだよな
Yシャツの上からでもわかる、脂肪を蓄えたお腹周りを見ながら、森下ほのみは思う。
時刻は午後八時半。授業終了まで後、三十分。
ほのみは先生のお腹から視線を外し、廊下側の席に目を向ける。そこには、退屈そうに頬杖をついた堤成がいた。
□□□
「気をつけて帰れよー」
塾の入口で先生が、生徒を見送っている。
「さようならー」と形だけの挨拶をして、生徒達は帰路につく。
「ほのみ、下條先生のお腹、見過ぎ」
成が鞄を肩に掛け直しながら言う。
「だって、すごい肉ついてるんだもん。何食べたらあんなに太れるんだろ」
ほのみは成に体を寄せながら言った。成はほのみの腰に手を回す。二人は高校は違うけれど、同じ塾に通っているのだった。
二人のクラスは三流大学進学を目指すクラスだった。
どこでもいいから大学に合格できればいいというレベルだ。
ほのみと成は、席が近くになったことがきっかけで仲良くなり、付き合うようになった。
席は定期試験で決められる。最下位から順に前から座らされる。今、ほのみの席は教室の真ん中辺り、成の席はほのみの席から三つ右側の廊下側だ。成の方が僅かに成績がいい。
ほのみと成は、付き合い初めてから「同じ大学に行こう」と約束したのだった。
S学園大学。学部はどこでもよかった。
駅までの道を歩きながら、それぞれの学校のことや、大学に入学したら入りたいサークルのことを話す。
「クリスマス、うちに来なよ」
成はほのみの後ろで一つにまとめた髪の、襟足辺りを見ながら言った。二人にとって一緒に過ごす、初めてのクリスマスだった。
「え? でも、親いるんじゃ……」
「それがさ、親いないんだよー! 親戚の法事に行くらしくってさ」
成の声は弾んでいる。
「マジ⁈ じゃあ遊びに行く。ケーキ買ってくね!」ほのみも弾んだ声で言った。
□□□
クリスマス。今年は土日に重なっていている。ほのみは、近所にあるお気に入りのケーキ屋さんで、ケーキを買ってから電車に乗り、成の家に向かった。
成の家は駅から見えるマンションだ。前に塾の帰りに一緒に電車に乗っていた時、
「俺ん家あそこ」と成が指差して教えてくれた。うちのマンションより新しい。
改札を出てマンションまで歩く。新しいマンションには珍しく、オートロックではなかった。そのままエレベーターに向かい、成の部屋がある5階のボタンを押す。
――成の部屋
そう思うと、どきどきした。親はいないと言っていた。もしかしたら……
想像を膨らませているうちに、5階に着いた。エレベーターの扉が開く。エレベーターを降り、508の部屋を目指す。
インターホンを押す前に深呼吸した。そして、いざ。
――ピンポーン
耳慣れた音がした。しばらくして内側から鍵を開ける音がして、扉が薄く開く。その隙間から成の顔がのぞく。
「おっ、おはよ」とよくわからない挨拶が口をついて出る。
「誰?」
成が不審な人物を見るように言った。
――誰? 誰って……
言葉を失っていると後ろから「あー! 春っ!」と声がした。
成が二人並んでいる。ほのみの頭は混乱した。
「お前、あっちいってろ」左側の成が右側の成に言う。状況が理解できないほのみに、目の前に残った成が言った。
「あれ、弟。双子なんだ」
□□□
ほのみの頭の混乱は、まだ続いていたが、とりあえず部屋に上がる。リビングダイニングに通された。
見慣れない部屋をきょろきょろ見回す。双子の弟の春は、自分の部屋にいるのか気配がない。
「あ! これ、ケーキ」
ほのみは手にしていた箱を成に見せる。
「サンキュー! 一緒に食べよ」
成はキッチンから出てきた。その手には小さなトレイを持ち、その上にはグラスが二つ乗っている。中に入っているのは、オレンジジュースのようだ。
「オレンジジュースしかなかった。ケーキとオレンジジュース、合うかな?」
「大丈夫だよ。おいしいよ」
成と一緒に食べれば、と言葉を続けたいほのみだったが、そこは黙る。
「部屋行って食べよ」
成は片手でトレイを持ち、もう片方の手で手招きした。
成の部屋はシンプルだった。
机とベットがあるだけ。クローゼットの中に、いろいろ詰め込んでいるのかもしれないが、目に見える範囲は、きちんと片付いていた。ほのみは自分の部屋の方が、雑然としていることを密かに恥じた。
「わーい! ケーキ、ケーキ!」
成は嬉しそうに箱を開ける。
ほのみが選んだのは、シンプルなショートケーキとスフレチーズケーキだ。あえてそうした。シンプルなケーキならハズレがない。
「どっちもうまそー!」
そう言う成の言葉を聞いて、ほのみは自分の考えが間違えていなかったと確信する。
「どっちも食べたい」と成が言ったので、半分こにして両方のケーキをそれぞれ食べた。
□□□
ケーキはどちらともおいしかった。成も「おいしい!」を連発していた。
ケーキを食べ終わった今、ほのみは緊張している。これから成とどう過ごすのか。壁の向こうの部屋には、おそらく春がいるのだろうが、ここには二人しかいない。
付き合い始めて三ヶ月。キスは何度かした。
今日はきっとそれ以上の関係になるにちがいない。ほのみは、手にじんわり滲む汗を拭うかのように、ワンピースの膝の辺りを握った。
二人でいつも通り他愛ない会話をする。
年末年始の過ごし方、受験のこと、下條先生の食生活について……
笑い合っているうちに目が合う。成の瞳はカラコンを入れているように神秘的に見える。ほのみはいつも見惚れてしまう。そうしているうちにキスをされるのだ。
今日もそうだった。
でも、今日はそれだけではなかった。成も同じことを考えていたのだ。
二人でベットに転がり込む。成の手がほのみの体に優しく触れる。
ほのみは急に不安になった。春の存在を思い出したのだ。
「あの、弟……いるけど……」
成はにっと笑うと「アイツ、部屋にいる時はイヤホン付けてるから大丈夫」と言って、ほのみに抱きついた。
□□□
成の胸に顔を埋めながら、ほのみは呟く。
「一人部屋いいなぁ」
ほのみは高三になった今も、姉と同じ部屋を使っている。
「俺、春に追い出されたんだよ」
「え? どういうこと」
「アイツさー。俺と違ってめちゃくちゃ頭良くて。T大目指してるんだ。塾も行かずに」
「マジで! すご!」
「勉強の邪魔になるからって、親にまで言いつけて。で、元、物置だったここが、俺の部屋になったの」
だからシンプルだったのかと、ほのみは思った。
「頭良いのも悪くないけど、俺はほのみといる方がいいー!」そう言って成は、ほのみの髪に顔を埋める。そんな成をほのみは愛おしく思った。
午後五時。「そろそろ親が帰って来るかも」と成が言ったので、ほのみは帰ることにした。成の部屋を出る。隣からは一切物音がしなかった。
それだけ勉強に集中してるなんて、すごいけどありえないと思いつつパンプスを履く。
成は駅まで送ってくれた。
「また、月曜、塾で」
「うん」
手を振って別れる。
ホームへと続く階段を上りながら、ほのみは名案を思いついた。
――このみに春を紹介するのは、どうだろう。
このみは、ほのみの姉だ。春と同じで、めちゃくちゃ頭が良い。いつも難しい話ばかりしている。
ほのみは、そんなんじゃ彼氏できないよ……と日頃から心配していた。
春なら、このみと対等に話ができるんじゃないか。
ほのみはいてもたってもいられなくなり、成にメッセージを送った。
【今日はありがと! めちゃくちゃいいこと思いついた! うちのお姉ちゃんを春君に紹介したいんだけど。
お姉ちゃんも超、インテリで春君と話が合うと思うんだよね】
数分して成から返信が来る。
【こっちこそ、ありがと それおもしろそう 笑 で、お姉さんって何個上?】
ほのみはすぐにメッセージを作成する。
【うちも双子なの。だからタメ】
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この後、どうなったのか……
ほのみと成は残念ながら、S学園大学には入学できず、別々の大学に進学し、ともに実家を出ることになったため、詳細はわからないということです。
風の噂では、ほのみと成は別れたけれど、このみと春は、そろってT大に入学し、その後、結婚したともいわれています。
読んでいただき、ありがとうございました。